019_南の巫皇(Дева Юга)
地の底に叩きつけられたような錯覚に襲われ、クニカは跳ね起きる。心臓は高鳴り、全身は汗でびっしょりしている。
カーテンの合間から、陽射しが漏れている。ウルトラは、すでに朝を迎えようとしていた。
隣に寝ているはずのリンの手を、クニカはまさぐる。リンはいなかった。部屋の隅に置かれているはずの、緑のリュックがなくなっていることに、クニカは気付く。リュックはリンのもので、中には鏨、鎚、それから砥石が入っている。それらを持って、リンはハサミ研ぎの仕事に出かける。
リンに差し出そうとしていた左手を、自分の右手で覆うと、クニカは胸の前で両手を握りしめる。動悸は続き、汗も止まらない。“うすあかり”の世界に現れた少女のことで、クニカの頭はいっぱいだった。
何者だろう、と、着替えながら、クニカは考える。少女は明確な意思をもって、クニカと対峙していた。そして最後まで、少女はクニカに、正体を明かさなかった。
思いもよらなかったことが起きつつある。クニカはそう感じた。何よりあの少女は、他者の夢に介入できるだけの能力を持っている。
今のうちに、少女のことを、誰かに話さなければならない。クニカはそう考える。少女の心にあったのは、”感情”とも呼べないような、暗くて冷たいものだった。
もしそれが、もし外に発散されたら? クニカは身ぶるいする。クニカはただでは済まされないだろう。リンや、“おおさじ亭”や、ウルトラや、もしかしたらこの世界そのものさえ、脅かされるかもしれない。
(行かなきゃ――)
支度を整えると、クニカは部屋を出る。
今日は南の巫皇が、ウルトラにやって来る日だった。
◇◇◇
空を飛びながら、クニカは大瑠璃宮殿を目指す。いつもならば、ジュリのトゥクトゥクで駆け抜けてしまう街路が、今はクニカの真下にある。
今日は土曜日で、この世界では、土曜日が安息日である。この世界の人たちは、「労働は現世の苦しみの源」と考えているようで、安息日には、まず働かない。
例外は、リンのようなチカラアリ人である。「安息日に働いているのはチカラアリ人」という言葉があると、クニカはチャイハネから教わった。
とはいえ、いくらチカラアリ人が働くつもりでも、周りが休んでいれば、仕事はできない。“おおさじ亭”といった居酒屋はまさにそれで、そもそも市場が閉まっているため、食材の調達ができない。だから同じチカラアリ人でも、職人であるリンは働きに出て、料理屋であるジュネとジュリは安息日を満喫している。これが、クニカが”ひとりで”大瑠璃宮殿を目指す理由だった。
早朝であることも相俟って、クニカのほかに、人の気配はない。朝の空気は爽やかで、亜熱帯特有の湿気も、厳しくはない。
それでも、クニカの心は弾まなかった。この世界の静けさの中で、暗くて冷たい影が、ぽっかりと口を開けて自分のことを待ち受けている。そんな感覚を、クニカはぬぐい去ることができなかった。
◇◇◇
「クニカ様!」
大瑠璃宮殿“本館”の、正門の上にあるバルコニーに降り立とうとしたクニカは、正門で掃き掃除をしていた少女に呼び止められる。
少女は、白いアオザイを身にまとい、特殊な形をした三角帽を被っている。三角帽は、少女が侍従であることの証だった。
「ソーニャ、おはよう」
「おはようございます、クニカ様。あっ?!」
クニカが目の前に降り立つやいなや、侍従の少女・ソーニャの眉間に、しわが寄った。
「ど、どうかした?」
「クニカ様! 寝ぐせがついてます!」
「え?」
ソーニャは、ほっぺたを膨らませる。
「もうっ! だらしないです!」
「ご、ごめんなさい」
「ほら、梳かしてあげますから、こっちに来てください!」
甲高い声でそう言うと、ソーニャはクニカを先導しながら、“本館”へと入っていく。
ソーニャはつい先月に、十五歳になったばかりである。クニカよりも年下だが、これでもソーニャは、ウルトラ侍従団の団長を務めている。巫皇・プヴァエティカの世話のほか、クニカの世話もてきぱきとこなすため、クニカはソーニャに頭が上がらなかった。
「寝ぐせのまま飛び出してくるなんて、男の子じゃないんですから!」
控えの間に通されたクニカは、籐製のドレッサーの前に座らされる。
「は、ハハ」
「ヘラヘラしない!」
「スミマセン」
「ビスマーの巫皇に見られたら、どうするつもりだったんです?!」
「え?」
クニカは目を見開いた。
「もう来てるの?」
「当たり前です! 宮殿の朝は早いんです!」
クニカの背後で、ソーニャは鼻を鳴らす。ソーニャのあざやかな手さばきで、クニカの髪は、きれいに収まっていく。
南の巫皇が来ている、ということは、当然プヴァエティカも応接のために起きている、ということだ。
「あのさ、ソーニャ」
クニカはドレッサーから立ち上がる。
「ビスマーの巫皇に会う前に、プヴァエに会いたいんだけど」
夢に出てきた少女のことを、クニカはプヴァエティカに相談したいと思っていた。もしかしたら、プヴァエティカは知恵を貸してくれるかもしれない。
「ブブーッ! ダメです!」
しかし、ソーニャは腕を交差させ、バツ印を作る。
「どうして?」
「臺下は今、南大陸のご来賓の接遇中なんです」
「そうなんだ」
「それより、クニカ様! ビスマーの巫皇に、会ってあげてください」
「わたしひとりで会っちゃって、大丈夫?」
「大丈夫です!」
ソーニャは胸を張る。
「ビスマーの巫皇は、今、“水瓶の間”で禊をしているところです」
「ええっと……」
クニカは言いよどんだ。
天体の運行、生まれた年月日、月経の周期、といったさまざまな要因により、巫皇は定められた頻度で、禊を行わなければならない。プヴァエティカも頻繁に、禊で水槽に浸かっているが、それは南の巫皇も同じようだ。
「どうしたんです、クニカ様?」
「いいのかな? 待ってあげないと、かわいそうじゃない? だって、すっぽんぽんなんでしょ? 恥ずかしいんじゃ……」
「いいんです! クニカ様!」
ソーニャが答える。
「巫皇になったら、裸でうろうろするなんて、当たり前なんですから」
「そう……」
確かにプヴァエティカも、宮殿を全裸でのしのしと歩いている。ソーニャによれば、プヴァエティカの羞恥心がぶっ壊れている、というわけではなく、巫皇になったら、みなあのようになる、ということのようだ。
「分かった。それじゃあ、会ってみる」
「はい! よろしくお願いします!」
ソーニャに案内され、クニカは控えの間を抜け出す。
◇◇◇
ソーニャに連れられ、クニカは“水瓶の間”までやって来る。
「いいですか、クニカ様」
扉の前で、ソーニャが言う。
「ビスマーの巫皇は、長旅でお疲れのようです。ちゃんといたわってあげてください」
「はい」
「それから、偉いお客様なのですから、粗相のないようにしてください。頭が高くなっちゃダメですよ。クニカ様ったら、いつもボンヤリしてるんですから」
「ハハ、すみません。――あ、」
クニカは大切なことに気付いた。先ほどから「ビスマーの巫皇」と呼んでいるが、名前を聞いていない。
「エリッサ・トレ=ビスマー様です」
「エリッサ・トレ=ビスマー」
ソーニャの言葉を、クニカは繰り返す。
「それじゃ、任せましたからね! 失礼します、猊下」
両開きの扉をノックすると、ソーニャが入り、うやうやしく膝をつく。
ソーニャにならい、クニカも入って膝をつき、頭を下げる。正面を見たのは一瞬だったが、丸い形をした、五右衛門風呂のような金属製の容器があったのを、クニカは見て取った。ビスマーの巫皇は、その中で禊をしているに違いない。
「クニカ・カゴハラ様を連れて参りました。猊下にご挨拶したい、とのことです」
「は、はじめまして」
「ははははは」
クニカの頭の上から、女の子の声が聞こえてくる。ビスマーの巫皇・エリッサの声だろう。エリッサは笑っているようだった。
(おかしなことでも、言ったかな?)
「臺下もまもなく来ますので、しばしご歓談ください。それでは」
そう言うと、ソーニャは立ち上がり、“水瓶の間”を出て行ってしまった。
「ええっと」
クニカは困る。偉い人とそつなく話せるほど、要領は良くなかった。
「ははははは」
「まず、わたしの自己紹介から――」
「ははははは、は、初めまして……」
(――ン?)
クニカの頭に、疑問がよぎる。さっきから、エリッサは笑っている、とクニカは思いこんでいた。しかし、本当は単に
「初めまして」
と言いたかっただけのようである。なかなか言葉が出てこなかったため、クニカは、エリッサが笑っている、と勘違いしてしまったのだ。
「わ、わわわ、わたしの名前は、えええ、エリッサ、と言います――」
「はい、ええっと、ご高名は、かねがね承っております」
知っているかぎりの丁寧な言葉を、クニカはつなげながら話す。
「このたびは長旅で、大変だったと聞いておりますが……どうぞおくつろぎになって――」
「ブブーッ!」
「え?」
クニカは口走ってしまった――だけでなく、急にエリッサから「ブブーッ!」と言われてしまったために、何事かと思い、顔を上げてしまった。
そして、クニカはエリッサと目が合ってしまう。エリッサは、褐色肌の持ち主で、つぶらな瞳は緑色だった。黒くて長い髪を持っていたが、その髪の毛は、
羊
の体毛のような縮れ毛だった。
(これは――)
慌てて頭を下げながらも、クニカの心の中で、疑問は確信へと変わる。エリッサは、クニカの比ではないくらい、緊張している。
「ブブーッ! ブルブルブル、ぶるぶるぶるぶる……」
地球にいたときの経験を、クニカは思い出す。携帯電話の振動が激しいとき、それがブザーのように聞こえることがある。エリッサの身ぶるいが激しく、まるで「ブブーッ!」と言われたように、クニカには聞こえたのだ。
(どうしようかな……)
クニカはあせる。
「エリッサ様、そんなに緊張しなくても、大丈夫ですよ」
と、気軽に言えれば良いのだが、状況が、なし崩し的にそれを許さないことを、クニカは感じ取っていた。そもそも、目上のエリッサが礼儀を守ろうとしている以上、目下のクニカからそのような提案をするのは、余計難しかった。
「こ、こここ、このたびは、ど、どっどど、どどうど、どどうど、ど、竜の魔法使いである、く、くくく、くっくっく、クニカ、に、」
吹き出しそうになるのを我慢するために、クニカは心を空にする。エリッサの声はうわずっていて、聞いていると、まるで笑っているかのようだった。
「あ、会うことが――お会いすることができて――わたしは――ふ、ふ、ふわああああっ?!」
そのときだった。頭上から聞こえてきた悲鳴に、クニカは顔を上げる。ビスマーの巫皇が飛び上がったかと思えば、両手で顔を覆ったまま、クニカの脇を一目散に駆け抜けていってしまった。
「あ、ちょっと――うげえっ?!」
エリッサを追いかけようとした矢先、クニカの真後ろから、大量の水が降ってきた。飛び出したはずみで、丸い水槽が、クニカめがけて傾いたのだ。
「うえーっ……」
ずぶ濡れになったクニカが、顔を上げたときには、エリッサの姿は、影も形もなくなっていた。