018_暗い光(Темный свет)
――こうして、この者は人の子に、激しい怒りをたぎらせたのである。
(『アダムの黙示録』、第25節)
湿った風と、手足を包むぬかるみから、再び“うすあかり”の世界に落ち込んだことを、クニカは察知する。
いつものように後ろを振り向き、いつものように地面を蹴って、いつものように、クニカは空中に身を躍らせる。“黒い巨人”に会うためだ。
ただ、いつもと違うことが、ひとつある。今のクニカは、どのときにもまして、“黒い巨人”に会いたい、と考えていた。
もしかしたら、今回もクニカは、“黒い巨人”に追いすがることはできないかもしれない。今までのクニカは、それでも辛抱して、“黒い巨人”を追いかけ続けていた。
だが、今のクニカは違う。仮に“黒い巨人”に追いつけなかったとしても、いつまでも飛び続けることができる。それだけの勇気を、自分は持っている。そのような確信を、クニカは抱いていた。
最大の速さで、クニカは“うすあかり”の世界を飛ぶ。
だが、いつもと違うのは、クニカだけではなかった。
滑空を続けながら、クニカは周囲を見渡す。いつもより長く飛んでいるにもかかわらず、“黒い巨人”は姿を現さない。
クニカは不安を覚えた。速度を緩め、ぬかるみに着地する。周囲を見渡す、クニカのほかに影はない。
風が吹き続け、雲が流れる。“うすあかり”の世界に、クニカはひとりだった。
もしこのまま、“黒い巨人”が姿を見せなかったら? クニカの背筋を、冷たいものが走る。これまでは、“黒い巨人”の消滅と同時に、クニカは“うすあかり”の世界から締め出され、夢から覚める。だが、“黒い巨人”が現れない以上、クニカは自力で、この世界から抜け出さなくてはならない。
(どうしよう……)
そのときだった。
「うっ?!」
背後から突き飛ばされ、クニカはぬかるみに手をつく、手首の辺りが、泥に沈み込んだ。
「どうした、笑えよ?」
クニカは振り向いた。目の前には、少女が立っている。
少女は、クニカよりも年上だった。亜麻色の髪を、肩の高さまで伸ばしている。瞳は水色だった。青色のシャツに、灰色のハーフパンツを穿いている。サンダル履きで、ぬかるみの泥を、つま先でこすっている。
「あなたは誰?」
やっとの思いで、クニカは尋ねる。心臓が喉から飛び出してしまいそうだった。
ポケットに手を突っ込んだまま、少女は面白くなさそうに首を傾げている。少女が次の言葉を口にするまでの間に、永遠の歳月が過ぎ去っていくかのような感覚を、クニカは味わった。
「神さ」
少女は答える。言葉はそれだけだった。
ウソだ、と、クニカが心の中でつぶやいた矢先、少女の胸のあたりから、光があふれ出す。
その光を、クニカは見ようとする。少女が放っているものは、“心の色”だろう。しかしクニカは、光を見つめることに抵抗を覚えた。“心の色”に焦点を合わせようとすると、自分の心に影がよぎるのを、クニカは察知したからだ。
「心を覗こうとしているな?」
「え?!」
クニカの額から、汗が噴き出す。クニカの能力に少女は気付いたようだった。
「やってみるといい」
立ちすくんでいるクニカに対し、少女は目を閉じる。光が強くなる。少女は心を開いたようだった。
「退屈な時間を、ボクは嫌わない。ただ、今だけは時間が惜しい。ボクにだって、人並みに欲望するときがある」
意を決し、クニカは光に視線を注ぐ。
次の瞬間――何が起きたか? 脳裏に飛来したイメージの束に、クニカは打ちのめされる。家畜の骨の山、首を吊った若者たちの列、死に至る病、水の中でもがく女性、心臓に穴の空いた嬰児、老人、炎に包まれる僧侶、青白い光、口いっぱいに広がる、鉛の味。それは、光を投げかけたがために顕わになってしまった、世界の冷たいところ、世界の暗いところの、すべてだった。
クニカは悲鳴を上げる。イメージを振り払おうとして、ぬかるみに足を取られた。その場に転がり込みそうになったクニカの手を、少女が引いた。クニカは転ばなかったが、少女に抱き寄せられる。
「放して!」
少女の腕から逃れようと、クニカは背を反らす。少女の腕は、氷のように冷たかった。
「放してってば…!」
「ああ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――?!」
少女が笑う。笑い声を聞いた途端、クニカの全身に鳥肌が立つ。面白くもないものを無理に笑っているかのような、そんな笑い方だった。
「怖がる必要はない」
少女が言う。抱きしめられているせいで、クニカは少女の目を見ることができない。しかしクニカは、少女が自分には視線を注がず、自分の後方、どこか遠くを見つめているであろうことを理解した。
「どうした、笑えよ? 面白いだろう」
「どうして……」
「陳腐な言い方だけれど、ボクたちは仲良くなれる。すぐにでも」
少女が指を鳴らす。開けていたはずの空間に、闇のとばりが降りる。”黒い雨”で、世界全体が暗くなってしまった様子を連想し、怖れのあまり、心臓が痛くなる。
力づくで、クニカは少女から離れる。少女は踵を返すと、クニカの反対側、闇の向こう側へと歩き出した。
「どこへ行くの?!」
「キミの近く」
クニカを振り返ることなく、少女は言った。
「キミのずっと近く。あまりにも近すぎて、君が永遠にたどり着くことのできないような、そんな近く」
振り返ると、少女はクニカを一瞥する。
「怖い顔をするのはよせ、クニカ」
クニカはぎょっとする。
「わたしの名前を、どうやって……?」
「地獄を味わうための時間は、一日のうちにたっぷりとある」
少女は左手を払う。次の瞬間、怖れの感情が、クニカの中で高鳴った。その感情は、少女に仕組まれたものであると、クニカは察知する。それでも、クニカはどうすることもできなかった。
怖れの感情は、クニカの中で、具体的なイメージを帯び始める。イメージは、クニカのいる世界が、すぐにでも傷つけられる可能性があることを警告していた。恐怖の切っ先が、クニカの喉に突きつけられる。
「待って!」
クニカは少女を追いかける。ここで彼女を野放しにしてしまえば、もっと多くのものを喪うことになる。クニカはそう確信した。
一歩足を踏み出した瞬間、クニカは自分の足元に、闇が口を開けていることに気付いた。
「あっ」
クニカの身体は、奈落へと吸い込まれていく。そのさなか、少女の哄笑が響き渡るのを、クニカはかすかに聞き取った。