017_何人も一島嶼にてはあらず(ни один человек не является островом.)
――何人も一島嶼にては非ず。何人も自らにして全きは無し。人は皆大陸の一塊、本土の一片、その一片の土塊を波の来たりて洗いゆけば、洗われしだけ欧州の土の失せるは、さながら岬の失せる也。何人の身罷り逝くも是に似て自らを殺ぐに等し。其は我も又人類の一部なれば。故に問う勿れ、誰が為に鐘は鳴る也と、其は汝が為に鳴るなれば。
(ジョン・ダン『特別な機会に行われた三つの説教』、ヘミングウェイ『誰が為に鐘は鳴る 上』(大久保康雄訳、新潮文庫、1973年)より再録)
「参ったな」
ウルトラ市の大城壁を飛び去りながら、リンがぼやく。
街は静まり返っており、市の中央にある大瑠璃宮殿以外に、灯りはまばらだった。
既に日付を跨いでしまっている。ジュネとジュリは、日付が変わる前までには店内の掃除を済ませ、“おおさじ亭”を閉めてしまう。
「裏口から入る?」
「それしかないよなァ」
背中から生えた翼を広げ、リンは夜空を旋回する。まっすぐ滑空すれば、“おおさじ亭”のある通りに着陸できる。
「絶対ジュネに気付かれちまうだろうな。うるせえんだ、アイツ、そういうの」
「そうだね……」
ジュネに見つかった場合をクニカは想像する。
「おい! なんででこんな遅い時間に! ていうか! どこ行ってたんだよ! わんわんわんわんわん!」
と言われるのは必定である。
「クニカ、お前、どっか飛ばせよ」
「え?」
「あれだよ、祈りのパワーでさ、ジュネをどっかに飛ばしちまえばいいんだよ。転移ってやつさ。どうだ?」
「リン……本気?」
「当たり前だろ? ……あれ?」
「どうしたの?」
「見ろよ。まだ明かりがついてる」
リンの言うとおり、確かに“おおさじ亭”の一階からは、灯りが漏れていた。
「寝てねえのかな」
「かもね。……あ」
「どうした?」
「それってさ、まずいんじゃない?」
普段ならば寝静まっているはずの“おおさじ亭”に、灯りがついている。それはなぜか? 寝ているはずの住民が、起きているからだ。とすると、一階にはジュネとジュリがいる可能性が高い。
どうして起きているのか?
「オレたちの帰りを待っている、ってことか」
「どうする?」
「安心しろ」
翼を折りたたむと、リンは高度を下げる。地面すれすれまで高度を下げると、リンはクニカのお腹から手を放した。前につんのめりそうになりながら、クニカは惰性で道を走り、立ち止まった。すぐ側に、リンも着陸する。
「オレに考えがある」
「ホント?!」
「見ろ」
リンはクニカの目の前で、右手の指を固く引き結んだ。
「何、何か入ってるの?」
「ばか。げんこつだよ」
右手の“げんこつ”を、リンは頭上に振り上げる。
「何か聞かれたら、アイツをぶん殴るんだ。さっきの借りだって、返せてないんだからな」
リンにバレないよう、クニカは溜息をついた。口より先に手が出るのが、チカラアリ人の特徴だ。リンもご多分に漏れない。
「行くぞ、クニカ。下ばっかり見てんなよ。頭上げてさ、正面から堂々と入るんだ」
「はいはい」
「爺さんがさ――」
店の軒先まで差し掛かった矢先、クニカの耳に、ジュネの声が届いた。と同時に、店内の中央にある円卓の辺りから、水色の光が漏れていることに、クニカは気付いた。そクニカだけが見透かすことのできる“心の色”であり、水色は、愁いを表している。
「さあ入るぞ――」
「リン、ダイジョブそうだよ」
リンの脇をくぐるようにして、クニカは“おおさじ亭”の中へ入る。蚊帳に遮られて往生していた一匹の蛾が、クニカが店へ入った隙に、一緒に店の中に入り込んできた。
「あっ」
クニカたちの姿を認めるやいなや、ジュリが目を丸くする。入口に背を向けて座っていたジュネも、ジュリの反応に遅れて、クニカたちの方を振り向いた。振り向きざまに、入ってきた蛾が通り過ぎるのを、ジュネは一瞥した。
「なに、二人とも、どこ行ってたわけ?」
「ちょっとね……」
曖昧に返事をしながらも、クニカは、ジュネの様子が気になっていた。ジュネは、目元が腫れぼったくなっている。ついさっきまで、ジュネは泣いていたようだった。
“チャーカー”をイーゴリ爺さんに振る舞ったときのジュネの表情を、クニカは思い出す。
――せがれの嫁と、おんなじ味だよ!
ジュネの“チャーカー”を食べてすぐ、イーゴリ爺さんはそう言った。突飛な反応に、クニカを含め、周囲の客たちは大笑いしていた。
しかし、ジュネとジュリは違った。あのとき、二人は神妙な顔をして、お互いに見つめ合っていた。
「ジュネ、どうしたの?」
「イーゴリ爺さんのことさ」
真っ赤になった目元を、ジュネは右手首の辺りでこする。
「隣にいただろ? 飯食ってたときに。親父の代からの、常連なんだ」
「口が悪くてね、あの爺さん」
円卓に頬杖を突きながら、ジュリが話を続ける。
「料理の味を巡って、父さんとケンカしててね。父さんが死んで、ジュネとあたしが店を継いだ後も、『なんだ、こんな料理! 食えるか!』って」
「なんだよ、あの爺さん!」
リンの眉間にしわが寄る。
「最低だな!」
「へへへ……。でもな、あの爺さん、毎日来てくれたんだ」
ジュネが言った。
「減らず口なんだけどさ、出した飯は残さなかったな。どれだけ酔ってても、残さなかった。『お前の父ちゃんの飯は、もっとこうだった』とか言いながらさ。でもお蔭でさ、ウチらは親父の味を守ることができたんだ」
イーゴリ爺さんのことを、クニカは思い出す。席にいる間中、イーゴリ爺さんは莞爾としていて、怒っている様子は想像できなかった。
「“黒い雨”さえなければね」
半笑いを漏らしながら、ジュリが言った。ジュリの笑いは、「頑張ってもどうしようもないこともあるんだよ」とでも言いたげな笑い方だった。
「雨のせいで、奥さんも、息子さんも、息子さんのお嫁さんも、みんな死んじゃったんよ」
ジュリの言葉の前に、クニカは立ちすくむ。イーゴリ爺さんのとぼけた笑顔の影に、誰かの死が隠れている。そう考えただけで、クニカは自分の足元が揺らぐような、奇妙な感覚に包まれた。
「そうだったのか……」
クニカの隣で、リンも鼻を鳴らす。リンも“黒い雨”で、妹を喪っている。
「見てらんなかったな」
ジュネが鼻をすする。
「ホント、見てらんなかったよ。あんなに老け込んで、マジでボケちまったみたいになってたからな」
円卓の周辺で、イーゴリ爺さんを取り囲んでいた客たちの言葉を、クニカは思い出す。今のジュネと、全く同じことをぼやいていた客がいた。
ジュネに限らず、ほかのチカラアリ人も同じように、イーゴリ爺さんを心配していたのだろう。今日は市場が解禁された日で、“おおさじ亭”が再開された日だ。もしかしたら、何かが変わるかもしれない。クニカの知らないところで、“おおさじ亭”の周辺の人々は、そんな期待を寄せていたのだろう。
「そしたらさ、起きたんだよ、奇蹟が。ハハハ」
ジュネが笑う。
「聞いただろ? 『せがれの嫁の料理と、おんなじ味だ』って? 息子の嫁さんをベタ褒めだったからさ、爺さん。初めてだぜ、オレ、あの爺さんに料理褒められたの。初めてなんだ……」
声を詰まらせながら、ジュネが言った。入り込んでいた蛾が四人の頭上を通り過ぎ、照明の光を一瞬だけ遮る。
「料理を作ってて良かったよ」
顔を上げると、自分に言い聞かせるようにして、ジュネが言った。
「今日ほど、料理を作り続けて良かったな、と思った日はないよ」
うん、と小声で相槌を打ちながら、ジュリも頷いていた。
立ち上がると、ジュネは手を伸ばして、入り口を覆う蚊帳に隙間を作った。飛んでいた蛾は、隙間を通り抜けて、“おおさじ亭”の外へと飛び立っていく。
◇◇◇
「寝るぞ」
部屋へと戻ったクニカとリンは、寝支度を整え、ベッドへ潜り込む。
――今日ほど、料理を作り続けて良かったな、と思った日はないよ。
ベッドに寝転がり、天井にぶら下げられた懐中電灯の光をぼんやりと眺めながら(停電が多いため、照明の代わりに、懐中電灯を天井に吊して使っていた)、クニカはジュネの言葉を思い出していた。
ポニーテールを梳き、ベッドの上であぐらをかいたリンが、懐中電灯に手を伸ばす。
「ほら、消すぞ」
「ねえ、リン、あのさ、」
クニカは思い切って、リンに尋ねてみることにした。リンの指が懐中電灯に触れ、周囲は闇に包まれる。
「何だよ?」
「私も、そういうときが来るかな? ジュネみたいに、『今日ほど誰かを救って良かった』って思える日が」
「――病院のこと、気にしてんのか?」
「ううん」
クニカは打ち消したが、本当は自分が何を気にしていて、何を気にしていないのかが、分からなくなってきていた。
夢で姿を現しては、背を向けて去っていく“黒い巨人”。
クニカだけが使うことのできる、“竜”の魔法。
クニカがこの世界に転移した意味。
クニカを“救世主”と呼ぶ人たち。
セヴァとミーナ。
イーゴリ爺さん。
カタコンベで祈るサリシュ=キントゥスの人々。
ニコル。
そしてリン。
さまざまな人たち、さまざまな出来事が、クニカの頭の中で渦を巻いていた。
カゴハラ・クニカがこの世界にいることの意味。
カゴハラ・クニカが誰かを救うとして、救うことの意味。
それは何だろう?
「大丈夫だよ」
ベッドに身を横たえながら、リンが言う。リンの言い方は、拍子抜けしてしまうくらい、あっけらかんとしたものだった。
「ダイジョウブ?」
掛布団代わりのタオルケットを抱きしめながら、クニカは尋ねる。
「そうさ。みんなお前に感謝してる。みんなさ、お前から元気をもらってるんだと思うよ。だから、難しいことなんて考えるな」
「そうかな……?」
「ホントお人好しだよな」
あくび混じりに、そして呆れ気味に、リンは言った。
「『救世主なんておおげさな』とか、そんなこと考えてるんだろ?」
「う……」
図星を突かれ、クニカはリンに背を向ける。
「やっぱりな。でもさ、そういうのは、クニカのいいところだと思う。だから……逆に考えてみるんだ……それをすることで……」
クニカは、リンの言葉の続きを待つ。
「……リン?」
振り向いてみれば、リンは寝息を立てていた。朝早くから包丁研ぎの仕事に行き、夜は夜で空を飛び交っていたために、睡魔には勝てなかったのだろう。
(なんだ……)
仰向けに寝転がると、目が暗闇に慣れるのに任せて、クニカは天井のシミを見つめる。
「逆に考えてみる」と、リンはそう言った。クニカは考える。その後リンは、何を言いたかったのだろう? それをすることで、自分自身はどうなるのだろう?
(リン、ずるいよ……)
先に寝入ってしまったリンを恨めしく思いながら、クニカはリンの言葉を考え続ける。そのうちに、いつしかクニカも、深い眠りの谷の底に、すっぽりと収まってしまった。
第1章はこれで終了です。