160_大いなるセツ(Великий Сет)
――爾らの裡に我は在り、爾らは亦た我の裡に在り(あなたがたの内に私はいて、あなたがたもまた私の内にいる)。【『大いなるセツ第二の教え』、第二章】
“黒い巨人”が地上に降り注いでいたとき、クニカは宮殿の地下深くにいた。階段を駆け下りていたクニカは、猛烈な揺れに耐えかねて、手すりにしがみつき、揺れが収まるのを待つしかなかった。
揺れの最中、照明も消える。暗闇の中、クニカは取り残される。そのとき、なだれのような音が背後から聞こえてきたかと思えば、クニカの頭上から、土ぼこりが降ってきた。
通路が崩落しようとしている。クニカは悲鳴を上げた。もう助からない、がれきに圧し潰される。――そう考えた矢先、揺れが収まった。
「ハァ、ハァ……」
クニカは息をついた。ほかに音がないせいで、クニカは、自分の息が、やけに響くように思えた。
周囲は、闇に閉ざされたままだった。“黒い雨”の中を、ひとり取り残されたときのような不安に襲われ、クニカはぎゅっと目をつぶる。
そのとき。――まぶたの裏に、クニカは光を感じた。目を開けてみれば、階段を下った先、通路の奥から、光がこぼれている。
クニカの喉が、ゴクリと鳴った。その光が、自分の目指すもの、“霊長の魔法使い”のものであることを、クニカは直感したからだった。
背後から音がして、クニカの足下に、がれきの欠片が転がってくる。振り向いてみれば、通路はがれきに、完全に塞がれてしまっていた。
もう、戻ることはできない。
「行かなくちゃ」
みずからに、小声でそう言い聞かせると、クニカは階段を下りていく。
下り終えた先には、通路があった。通路の先は、広間になっている。
クニカは広間に入る。床には、無数のケーブルが敷き詰められており、足の踏み場もないほどだった。中央には、巨大なガラスの円筒があった。試験管だった。ケーブルは全て、試験管に繋がっている。
試験管の中は、まぶしく輝いている。部屋には照明が灯っていたが、試験管から漏れるまぶしさの方が強く、かえって薄暗く感じられた。
試験管の中身に、クニカは目を細める。光源は人の形をしていた。“霊長の魔法使い”であると、クニカはすぐに気付いた。
握り締めていた銃の照準を、クニカは試験管に合わせる。引き金を引けば、銃弾が飛び、“霊長の魔法使い”は粉々に砕け散るだろう。――頭では分かっていても、クニカの手は震えた。自分の指先に、世界の運命が懸かっている。それは奇妙な感覚だった。
そのとき、試験管のまぶしさが、一段と強くなった。と同時に、湿った音に合わせて、試験管にひびが入りはじめる。
「あっ――」
クニカは叫ぶ。まぶしさの前に、空間全体が真っ白になる。目を閉じたクニカの耳に、試験管の砕ける音が、かすかに聞こえてきた。
光が収まった。クニカは目を開ける。試験管には、大穴が空いていた。中に詰まっていた液体が、クニカの靴の先を濡らす。
クニカの正面には、人がうずくまっていた。放たれる魔力を前にして、クニカは肌の痛みを感じる。
霊長の魔法使いが、そこにいた。
霊長の魔法使いを、クニカはじっと見つめる。霊長の魔法使いは、クニカよりも、少し小柄だった。身体は華奢で、肌は白い。髪も、肌と同じくらい、白かった。
立ち尽くしているクニカの前で、霊長の魔法使いが、顔を上げる。丸い輪郭に、つぶらな、緑の瞳を持った、女の子だった。自分に似ている――と、クニカは思ってしまう。
霊長の魔法使いは、辺りをしきりに見回している。そのとき、霊長の魔法使いと、クニカの目が合った。クニカを認めた瞬間、霊長の魔法使いは、何度もまばたきをしてみせた。
それから――、霊長の魔法使いは立ち上がると、クニカに向かって、手を伸ばす。二人の間には、若干の距離があった。クニカの下まで、霊長の魔法使いは歩み寄ろうとする。
突然、霊長の魔法使いが、姿勢を崩した。
「あっ」
クニカは声を上げる。霊長の魔法使いの右脚が、その胴体から離れていた。クニカに手を伸ばしたままの姿勢で、霊長の魔法使いの身体は、腰から溶け出していく。
身体を支えてやるために、クニカは反射的に、霊長の魔法使いの手を取った。――その手に触れ、肌に触れたとき、喪われていたはずの“竜”の魔法の能力が、自分の中によみがえっていくのを、クニカは感じ取った。
だれに言われるでもなく、クニカは本能的に、目の前の“霊長の魔法使い”のために祈った。“霊長の魔法使い”の身体が光に包まれ、次の瞬間には、もとどおりになっていた。
身体に宿す魔力が、余りにも強すぎるせいで、目の前の少女は、肉体を維持できない。――クニカはそれに気付いた。彼女の身体を維持するためには、だれかが、彼女のために、祈ってあげなければならない。
その祈りも、ただの祈りであってはならない。祈りによって、現実を置換することのできる“竜の魔法使い”だけが、“霊長の魔法使い”を救うことができる。
“竜の魔法使い”は、この世界に、クニカしかいない。
自分が、この世界に存在することの意味。
クニカの中に、ひとつの記憶がよみがえってくる。それは、“黒い巨人”の夢から覚め、隣で寝ていたリンと、“おおさじ亭”で手をつないだときの、遠い記憶だった。
――懐かしいな。
リンの言葉を、クニカは思い出す。
――オレが怪物から引きずり出されたとき、お前と一緒に、空を飛んだろ? あのときも、手をつないでた。
――そうだっけ?
――そうだよ。忘れたのか?
――ごめん。
――お前はさ……オレのことを救ってくれたんだ。
あのとき、リンの手の暖かさと、そこから伝わってくる心臓の鼓動が、自分にとってのすべてであるように、クニカには思えた。あのとき救われたのは、リンだけではない、クニカもそうだった。
何千何万という感情が、クニカの心に去来した。
もう悩む必要はないのだと、クニカは確信した。
クニカは泣いていた。
クニカと手をつなぎながら、“霊長の魔法使い”が笑う。手のぬくもりと、肌の感覚が、“霊長の魔法使い”には、くすぐったいようだった。
無邪気に笑う少女を見つめるうちに、クニカは、片手に握り締めていた銃把の冷たさを思い出した。クニカは銃に目を落とす。手の中の機械は、あまりにも不格好で、この世界で最も無意味な存在のように、クニカには思えてきた。
クニカは、銃を投げ捨てる。
自由になったもう一方の手で、クニカは、“霊長の魔法使い”の身体を抱きしめた。
「ありがとうね」
むずがって笑う“霊長の魔法使い”に、クニカは言った。チカラアリで見た夢――“霊長”と“竜”とが、互いに手を取り合う姿――自分たちは、今こそ、それを実現すべきときなのだと、それが自分たちの使命なのだと、クニカは悟った。
「一緒に行こう、皇帝のところまで」
“霊長の魔法使い”の身体から離れると、クニカは言う。“霊長の魔法使い”はうなずいてみせた。
ここでクニカは、あることに気付く。
「そうだ……生まれたてだから、名前がないんだよね?」
“霊長の魔法使い”は、クニカの尋ねに、きょとんとしていた。
「それじゃ……セツ、なんてどうかな? あなたはこの世界の救世主で――わたしにとっての、救世主でもあるから」
“霊長の魔法使い”――セツは、クニカの言葉にうなずいてみせた。
「それじゃ、セツ、よろしくね」
セツはにこりと笑った。
クニカとセツは、手をつないだまま、広間を通り抜け、奥の通路へと進んでいく。




