016_この前の木曜日(Прошлый четверг)
――アイツラ、オ互イニ惹カレ合ッテイルンダナ。
クニカの頭の中では、先ほどからずっと、サリシュ=キントゥス人の若者の言葉が渦を巻いていた。
「惹かれ合っている」
リンには聞き取れないくらいの小声で、クニカは呟く。呟きは、リンの翼の羽ばたきに紛れ、風とともに後ろへ流れていく。
クニカとリンの二人は、“カタコンベ”から、“おおさじ亭”までの帰路を急いでいた。クニカの眼下では、亜熱帯の木々がミニチュアのようになって、視界を通り過ぎていく。
店の片づけを済ませてしまえば、ジュネとジュリはシャッターを下ろして、日付が変わる前には眠りに就いてしまう。それまでに、“おおさじ亭”まで帰らなければならない。
だが、今のクニカは、それどころではなかった。
「リンとニコルとが、お互いに惹かれ合っている」
頭の中で、クニカはもう一度、今の命題を分析してみる。まず、二人の人物がいる。リンと、ニコルである。次に、「“お互いに”惹かれ合っている」ということから、「リンはニコルに惹かれており、かつ、ニコルはリンに惹かれている」というように、言い換えることができる。
視界の端に、リンの翼の先端が映り込んむ。クニカは気付きを得た。リンは“鷹”の魔法使いだが、ニコルも、“鷹”の魔法使いである。南の大陸で魔法が使えるのは女性だけだが、北の大陸では逆に、男性だけが魔法を使える。同じ“鷹”の魔法使いとして、惹かれあう要因があるのかもしれない。
クニカはもう一度、命題への考察を進めてみる。明らかなのは、リンが惹かれているところの「ニコル」という人物は、リンを惹いているのである。と同時に、ニコルが惹かれているところの「リン」という人物は、ニコルを惹いているのである。それはつまり、
「リンとニコルとが、お互いに惹かれ合っている」
ということにほかならない。ここで問いは一巡する。では、
「リンとニコルとが、お互いに惹かれ合っている」
とは、そもそも何であるのか。
「おい」
深淵なる問いの周縁で、公転を続けていたクニカの思考を、リンがさえぎる。
「な、なに?」
「さっきからおかしいぞ。『ここで問いは一巡する』とか、ぶつぶつ言ってるし」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。あ」
リンは、クニカを抱きかかえた姿勢で、翼を広げている。リンの声は、クニカの頭の後ろから聞こえてくる。そんなリンの声に、怒気が混じる。
「クニカ、隠し事してるだろ?」
「へ? いや、そんなことは……」
「ちゃんと言えよな。じゃないと、腕、放しちまうぞ」
「そ、そんな……うわっ?!」
「ほうら……ははっ」
リンはわざとらしく、クニカの腹部に回していた腕を緩める。もちろんクニカだって、いざとなれば一人で飛べる。だが、リンの方が飛び慣れているし、何より、いきなり手を放されてしまったら、クニカだってすぐに切り替えることはできない。
「やめてってば、リン!」
「ちゃんと言わないからいけないんだ。ほら、今度は手ェ放して、万歳しちゃうからな。本当だぞ?」
「わかったってば、リン」
クニカは観念する。
「あのさ、怒らないで聞いてね?」
「ああ」
「げんこつも、無しだからね?」
「分かったよ。しつこいなあ」
「リンってさ、ニコルのこと、好きなの?」
尋ねた瞬間、クニカは、自分の身体が重力の制約から完全に自由になったことに気付いた。
(え?)
クニカの身体は加速しながら、地面へと吸い寄せられていく。見上げたクニカは、ぎょっとした。リンが腕を万歳して、放心状態で空を飛んでいる。
「ちょっと、リン!」
空中ででんぐり返ししながら、クニカは悲鳴を上げる。このままでは、おでこから地面に着地して、クニカはスパゲッティナポリタンみたいになってしまう。
「話が違う!」
「え? あ……」
クニカをリリースしたことに、リンもようやく気付いたようだった。翼を折りたたむと、リンはクニカ目掛けて、垂直に滑空を始める。
この時にはもう、クニカも“竜”属性の魔法を解き放ち、空を浮遊する自分をイメージしていた。クニカの身体は、イメージ通りに空中で静止し、リンのところまで上昇を始める。
「もうっ、リン!」
リンの左腕が、クニカの脇腹をがっつりホールドする。
「手ェ離さないでって言ったじゃ……うげえっ?!」
次の瞬間、クニカの後頭部に、火花が飛び散った。視界が点滅し、夜空のお星様のほかに、まぶたの裏にもお星様が飛ぶ。リンのげんこつがさく裂したのだ。あまりの痛さに、いきなりクニカの目の前に神様が現れて、
「世界は、先週の木曜日に創造されたんですよ」
と言われても、クニカはそのまま信じてしまう勢いだった。
「イタタタタ……」
涙目になったクニカだったが、心の中にむくむくと、怒りの感情が湧いてくる。さすがのクニカにだって、怒るときくらいある。第一リンも、「げんこつはなし」ということに、了解していたじゃないか!
「ちょっと、リン!」
「バカ」
怒り出そうとしたクニカだったが、リンの呟きが気になって、表情を盗み見る。飛ぶ姿勢こそいつも通りだったが、リンの顔は真っ赤で、うつむき加減だった。
「え?」
「からかうんじゃない……」
それっきり、リンは何も言わなくなってしまう。
(もしかして……照れてるの……?)
かつて見たこともないリンの反応に、クニカもどぎまぎする。好きな人の名前を言い当てられ、顔を真っ赤にしてうつむいているリンは、乙女らしくて、かわいくて、クニカ好みだった――。
(――なんて言えない!)
「なぁんだ。リンも可愛いところあるじゃん」
などと言おうものなら、クニカの目の前に地獄の門が開く。ちょうどいま、クニカは「上空」というリンのフィールドで、背後を奪われ、両腕を回されている。その気になれば、リンはいつだってフロント・スープレックスをお見舞いして、クニカを夜空のお星様にすることができる!
しかし、クニカが動転しているのは、それだけではなかった。リンは、クニカの言うことを否定していない。図星だったのだ。
リンに勘付かれないよう、リンの腕に、クニカはそっと、自分の手を重ねる。いつもは気にならないはずなのに、今はどういうわけか、リンの腕が華奢で、か細いように、クニカには感じられた。