159_審判の日(День суда)
――其日は艱難の日なり。主の都てを造り給ひし開闢の者より今に至るまでに、かかる艱難はあらず、亦た後の世にもあらざればなり(その日は苦難の日である。神がこの世を作ってから今にいたるまでに、このような苦しみはなく、またその後もありはしないからである)。【馬可による福音書、第13章第19節】
ジナイダは長剣を振りかぶる。手ごたえとともに、できそこないのニフリートの首が、胴体から離れる。最後の一体だった。
「あーあ」
宮殿の方角に顔を向け、ジナイダは、全てが遅かったことを悟る。“黒い巨人”の放つ、無数の光の尾が、柱のようになって天に昇っていくのを、ジナイダは直覚した。
「ミーシャ!」
ジナイダは叫ぶ。ミーシャが生きていると、ジナイダは分かっていた。しかしジナイダの耳が拾うのは、炎が渦を巻く音だけだった。
「分かってるさ。どうせキミは、大事なときにいない」
長剣を投げ捨てると、ニフリートたちの死体の中で、ジナイダは胡坐をかく。地上に“黒い巨人”が降り注ぐのを、ジナイダは待った。
◇◇◇
「――***?」
今しがたチャイハネが告げた本名を、シュムは繰り返す。焼夷ミサイルが降り注ぐ中、チャイハネたちのいる美術館だけは、アアリの結界によって火の手を逃れていた。
「そうだよ」
「***……」
「そう」
「フフフ……」
シュムはクスリと笑ってみせる。
「変かな?」
「いえ。なんだか、男の子みたいな名前だな、と思って」
チャイハネは鼻白んだ。
「そう?」
「ええ。でも、素敵な名前です。それにですね、チャイ――」
そう言うと、シュムは立ち上がって、シノンをまたいだ。シノンはと言えば、床に身を横たえ、寝息を立てている。止血も、麻酔も、神がかりのようにシノンには効いた。あとは、シノン当人の生命力に頼るばかりだった。
「実は……男の子が生まれてきたら、その名前をつけようかなって、思ってたんです」
チャイハネはしばしの間、空いた口がふさがらなかった。
「男の子?」
「そうです。……あ」
シュムの目が、わざとらしく、きらりと光る。
「チャイ、いま、変なコト考えていたでしょう? いやらしいんですから――」
シャンタイアクティへ向かう道すがら、チャイハネはシュムをからかった。今それを、チャイハネはやり返されている。そう気づき、チャイハネも自然と笑みをこぼした。
それからチャイハネは、天井に空いた大穴から、空を見上げた。煙と炎で赤黒くなっている空に、幾条もの光の柱が屹立している。この世の終わりが近いことを知り――しかし、チャイハネもシュムも、恐怖は感じなかった。
「おーい!」
そのとき、遠くから声がした。
「ジイク!」
真っ先に反応したのは、ジイクの妹の、アアリだった。ジイクの後ろには、カイと、ミーシャもいた。
「カイ!」
「オーッ!」
チャイハネの呼びかけに、カイも歓声を上げる。
「キャー!」
ミーシャも、それに呼応した。
「無事だったのね」
「うんにゃ。シノンは?」
「大丈夫よ、今は安静にしている。それより――」
そう言いながら、アアリは空を見上げた。
「この後、どうなるの? クニカたちは?」
「宮殿だよ」
ジイクに代わって、チャイハネは答える。どうしてそう答えるのか、チャイハネ自身にもよく分かっていなかったが、答えには確信があった。
「少なくとも、クニカは宮殿まで行ったよ。“霊長の魔法使い”に会うために」
「分かるわけ?」
「ニンゲンを捕る漁師!」
今度答えたのは、カイだった。
「キャー!」
またしても、ミーシャが呼応する。
「何にせよ……信じるしかない」
空を見上げながら、ジイクも言う。
「そうだ」
そのとき、チャイハネはふとひらめいた。
「手を繋ごうよ」
「手……ですか?」
シュムが不思議そうな顔をする。
「いいから、ほら! 」
チャイハネ、シュム、カイ、ミーシャ、ジイク、アアリ、シノン。七人は、めいめいに手を取り合った。
「くすぐったいな」
チャイハネはひとりごちる。隣では、シュムが笑っていた。
手を取り合いながら、チャイハネたちは、その時を待った。
◇◇◇
「間違っていた!」
北の空にたなびく、青白い光の柱。それを目撃した瞬間、フランチェスカは、みずからの過ちを悟り、今しがたまで書き進めていた、「おしゃべりプログラム:愛すべき人用」を取り落とした。
「私は間違っていた――」
窓の向こうに釘付けになりながら、フランチェスカは叫ぶ。部屋にはだれもおらず、叫びを聞き届ける者はいなかった。
愛することに必要なのは、マニュアルでも、明晰に語るべき何かでもない。だれかを愛するということは、だれかを大事にしたいという気持ちを、その気持ちをうまく伝えられないもどかしさも含めて、相手に伝えようとする永遠の営みなのだ。――フランチェスカは、今それを知ったのだった。
フランチェスカは、青白い光の影に、ミカイアを、エリッサを、クニカを見た。クニカの姿が脳裏をよぎった瞬間、フランチェスカは、クニカたちとの別れの場面を大切にできなかったような気がしはじめ、そのことに震えた。
もう永遠に、だれにも会えないのかもしれない。
だれかを愛することなど、できないのかもしれない――。
そのとき、部屋の扉が、だれかの手によって開け放たれる。プヴァエティカが入って来た。
「あ……プヴァエ……」
今考えたこと、感じたことを、フランチェスカは、プヴァエティカに伝えようとする。しかし、胸が詰まってしまい、フランチェスカはいかなる言葉も口に出すことができなかった。
「わ、私は……」
「何も言わないで、フラン」
そんなフランチェスカの手を、プヴァエティカは握る。
「私たちにできるのは、もはや信じることだけ。そうでしょう?」
プヴァエティカの言葉に、フランチェスカはうなずいた。
光の柱に目を細めながら、フランチェスカとプヴァエティカは、クニカを信じ、その時を待った。
◇◇◇
「みんな、手を貸して」
星誕殿の中庭、菩提樹の木々の合間にいたイリヤは、エリカ、キーラ、サーシャ、リーリャの四人に、声を掛ける。イリヤが言葉を発するまで、四人とも、空にたなびく青白い光の前に、立ち尽くしていた。
「イリヤ?」
エリカが尋ねる。そんなエリカの手を、イリヤは半ば強引に掴む。エリカのもう一方の手を、キーラが握りしめる。
反対側では、サーシャがイリヤと、リーリャに手を差し出した。五人は、イリヤを中心にして、互いに手を取り合う。
イリヤの手を取ったとき、サーシャはその熱さに驚いた。と同時に、イリヤの身体の奥から伝わってくる、心の更なる熱さに気付き、サーシャはまじまじとイリヤの横顔を見つめた。
「覚えてるよね? クニカ様が、私に、祝福をくれたこと」
イリヤの言葉に、四人はうなずいた。
「その使命を、私は果たさなきゃいけないんだ。ペルガーリア星下や、ルフィナ先輩のためにも。だから、みんなして祈ろう。クニカ様が、そうしてくれたように」
それ以上は、誰も何も言わなかった。手を携えたまま、イリヤたちは、光の柱を見つめ続ける。
◇◇◇
「何、あれ……?」
遠く、北の空に、ジュリは目を細める。空の彼方から、青白い光の柱が、幾筋も屹立している。まるで、天体が一斉に滑り落ちているかのようだった。
「北だなァ……ニコル君、分かるかい?」
「ウウン」
ニキータの言葉に、ニコルは首を振る。
「ただ……何だろう、すごく嫌な予感がする」
それは、ジュリもニキータも同じだった。
「お姉ちゃん、おねえちゃん!」
新生“おおさじ亭”の中に戻ると、テーブルに突っ伏して眠りこけているジュネに、ジュリは声を掛ける。暦の上では、今日は安息日だった。ジュネは、どこかから引っ張り出してきた焼酎を朝から呑み出し、今ではすっかりいびきをかいていた。
「大変なの、見て、空が――」
次の瞬間、ジュネはいきなり席から飛び上がり、妹には目もくれず、軒先に躍り出て、ニキータとニコルに並んだ。
「ジュネちゃん、どうしたんだい?」
ニキータの問いかけにも答えず、ジュネは腕を組んで、空にたなびく光の尾を見つめている。
「――手!」
ややあってから、ジュネが言う。
「は? 手?」
「そうだよ、手ェ繋ぐんだ」
姉の言葉に、ジュリは唇を尖らせる。
「何でよ」
「いいから繋ぐんだよ。ほら! ニコルも、おっさんも――」
言われるがまま、四人は手をつなぐ。
「ハッハー、いいな!」
何してんのよ、と、ジュリが言い出すよりも前に、ジュネが言った。
「気持ちいよな? ガキの頃に戻ったみたいでさ」
「そう……かもしれない?」
ニコルが、おずおずと言ってみる。
「まぁ、そう……かもね?」
ニコルの言葉に、ジュリも相槌を打った。言われてみれば、こそばゆく、懐かしいような気持ちになってくる。
「それでさ、ジュネ、この後どうなるわけ?」
「待つんだよ」
「何を?」
「ばか。クニカに決まってんだろ」
ジュネの鼻息が荒くなる。クニカを? と訊き返そうとしたが、ジュリはどういうわけか、姉の言葉が正しいような気がして、それ以上は何も言えなかった。
クニカを待つ。そのために手をつなぐ。それは全然滑稽でも、意味の分からないことでもなく、むしろ、至極当然なことのようにさえ、ジュリには思えてきた。
四人の男女は、手をつないだまま、その時が来るのを待った。
◇◇◇
「うわっ?! なんだ?!」
アンナハンマン区の“ディエーツキイ・サート”で遊んでいたセヴァは、空の異変に気付いて、思わず声を上げた。
セヴァの声につられて、“ディエーツキイ・サート”にいる者は、大人も子供も、みな空を見上げる。
ちなみに、“ディエーツキイ・サート”にいる大人たちは、元サリシュ=キントゥスの兵士たちで、ニコルの同僚だった人たちだった。“カタコンベ”を追われ、捕まった後、巫皇代理であるソーニャのとりなしによって、かれらは子供たちの遊び相手に選ばれたのだった。わんぱくなチカラアリ人の子供たちに、サリシュ=キントゥスの男たちは、それはもう人気者になった。
そのとき、セヴァの右腕に、だれかがすがる。セヴァの幼馴染・ミーナだった。
「ミーナ?」
「セヴァ……わたし……怖いよ」
ミーナのことをじっと見つめると、持っていた棒の切れはしを、セヴァは投げ捨てる。その代わりに、セヴァはミーナの手を握り締める。
「セヴァ?」
「大丈夫! オレがいる!」
セヴァはそう叫ぶ。
その瞬間、青白い光の柱が、周囲に拡散した。セヴァの視界は真っ白になり、遠くに見えた大瑠璃宮殿の丸屋根が、ひっくり返って逆向きになったように、セヴァには見えた。
あっ、と、セヴァは叫ぼうとする。その時にはもう、セヴァの魂は、“黒い巨人”に漂白され、喪われていた。熱線を前にして、セヴァの小さな体は炭になり、血液はすべて蒸気に変わる。セヴァの元気も、ミーナに対する思いやりも、核ミサイルの前では無力だった。
ウルトラ、チカラアリ、シャンタイアクティ――。キリクスタンの全土、サリシュ=キントゥスの全土、全世界が、“黒い巨人”の洗礼を受け、一斉に死に絶えた。




