158_黒い巨人(Черный великан)
――爾ら現世において艱難ありといえど、雄る者たれ。我は既に現世に贏てり(あなたがたはこの世において苦難がある。しかしながら、勇気ある者でありなさい。私は既に世に勝っている)。【『約翰による福音書』、第16章第33節】
「クニカ!」
リンが叫ぶ。直後、クニカの頭上から、火の粉が降り注いできた。
空には黒い煙が立ち上り、夜のようになっている。頭上に瞬いていた“星”のひとつが、クニカとリンの目前に落下する。“星”からは炎が噴き出し、周囲の人々が舐め取られる。熱風にたじろぎつつも、二人はすぐさま方向転換する。
地下の居住区を脱出してすぐ、空から降り注ぐ炎に、クニカたちは襲われた。それが焼夷弾であると、クニカはすぐに気付いた。しかし、なぜ焼夷弾が街に降り注ぐのだろう?
地上へと飛び出した他の人たちと同様に、クニカとリンは、ただ逃げまどうしかなかった。人の波にのまれ、クニカもリンも、いつしかジイクを見失っていた。
「手ェ離すなよ!」
「うん!」
リンの言葉に、クニカも応える。互いに手を取り、逃げまどいながら、しかし二人は、宮殿を目指していた。“霊長の魔法使い”に会う。その目的だけは、二人とも見失っていなかった。
やがて、二人は宮殿の正面まで戻ってくる。カイとミーシャのはたらきにより、濠の水は完全に引いている。しかし、水の代わりに、濠は炎に埋め尽くされていた。
「クッソ」
リンが舌打ちする。水の中には、橋が埋まっていたのだろう。しかし、今は炎の中にあり、近づけそうにない。
進んできた道を、クニカは振り返る。燃え上がった鉄塔が横倒しになっており、戻ることも難しそうだった。
空には、無数の“星”が瞬いている。ぐずぐずしていれば、クニカもリンも、いつかは炎に巻きこまれてしまうだろう。
その矢先、鉄塔の中央部に大穴が開いたかと思えば、穴の合間から、誰かがこちらに近づいてきた。ジナイダだった。
「ニフシェ!」
「ジナイダだよ」
リンとは対照的に、ジナイダは落ち着きはらっている。ジナイダの全身は血にまみれていた。
「大丈夫?」
「ボクの血じゃない」
そう言いながら、ジナイダは右手を空に掲げる。右手の中で天雷が生成され、ジナイダはそれを空に投げる。クニカたちに降り注いできた“星”が、天雷になぎ払われ、中空で爆発する。
「“永遠の子供”さ」
「永遠の……何だよ、それ?」
リンが尋ねる。
「この炎だよ。地上を焼き払うつもりなのさ」
「嘘だろ?」
「説明する時間が惜しい。この次には“黒い巨人”が来る」
“黒い巨人”。その言葉に、クニカはドキリとする。
「核ミサイル、と呼ばれるものらしい。それが降り注いで、世界は滅びる」
ジナイダの関心が、自分へ向けられたことに、クニカは気付く。
「キミ、何か知ってるだろ?」
ジナイダの言葉に、クニカはうなずく。しかし、自分が何を知っているのか、上手く伝えることは難しいように、クニカには思えた。
この世界に転移するとき、クニカに“竜”の魔法を付与した者、夢に何度も現れた者。それが“黒い巨人”であり、今は核ミサイルとして、この世界を終わらせようとしている。それをどう考えればいいのか、クニカには見当もつかなかった。
「世界が終わるって」
リンは途方に暮れた様子だった。
「どうすりゃいいんだよ」
「どのみち、“霊長の魔法使い”がみずからの使命を自覚したら、この世界は終わる」
ジナイダは言った。
「やれることをやるしかない。霊長の魔法使いに会いに行く。そうだろ?」
ジナイダの問いかけに、クニカはうなずいた。
「リン、飛べるか?」
「この炎じゃ――」
「ボクが音波で道を作る」
宮殿の方角に、ジナイダは顔を向ける。
「クニカと一緒に、その中を飛べ」
「わかった」
リンの背中からは、鷹の翼が姿を見せる。差し伸べられたリンの手を、クニカは握り締める。
「行くぞ!」
リンが羽ばたき、クニカのつま先が地上から離れる。背後からの低いうなりを、クニカは感じ取る。ジナイダの作り上げた“音の道”だろう。遠くの空の黒い煙が、振動によってなぎ払われるのを、クニカは見て取った。
宮殿まで一直線に、クニカとリンは飛ぶ。瞬いていた残りの“星”たちが、地上めがけて、一斉に落下し始める。最後にして最大の炎に、アエリア=カピトリナの全域が埋め尽くされる。
宮殿まで、あと少し。――そのとき、“音の道”が途切れた。
ぎょっとして、クニカは振り向く。地上では、ジナイダが裸の少女たちに取り囲まれている。少女たちは、みなニフリートに似ており、ジナイダの身体を奪おうとしているようだった。
「突っ込むぞ――!」
身の危険を、リンも察知したのだろう。鷹の翼が折り畳まれる。宮殿の入口に、リンは直接飛び込むつもりのようだった。
その瞬間、クニカの視界が白く光る。全身が熱風に包まれ、自由落下とは比べ物にならない速さで、地上がクニカの眼前に迫る。速さに脳が追い付かず、視界に映り込んだ景色が、断片的に切り取られ、クニカの脳をよぎる。至近距離で焼夷弾が破裂し、その爆風を受けたと気づいたときには、クニカとリンは、宮殿の正面扉を突き破り、床に叩きつけられていた。
叩きつけられた勢いのまま、クニカは床を転がる。リンと手が離れる。全身に痛みを覚えながらも、クニカは起き上がった。絨毯が敷き詰められていたおかげで、クニカは命拾いをした。
「リン……」
建物の暗がりの中で、クニカは目を凝らす。クニカの視界の前方で、リンが身を横たえ、クニカに背を向けていた。
「リン!」
クニカはリンに近づく。
「しっかりして――」
リンの腹部には、鉄の破片が突き刺さっていた。おびただしい血が、リンの身体から流れる。
これまでと同じように、“救済の光”を解き放とうとして――クニカは、自分にはもはや、その力がなかったことを思い出す。
クニカは膝をついた。瀕死のリンを前にして、クニカにできることは何もない。
クニカの目から、涙がこぼれた。
「救えない……」
「いいんだ……クニカ」
泣いているクニカを前にして、リンが言う。手を伸ばすと、リンはクニカの手を握った。
「お前はもう……オレを救ってくれた。何度も救ってくれた……」
もう一方の手を伸ばすと、リンはリュックをまさぐる。煤にまみれ、穴だらけになったリュックから、銃が取り出される。
「霊長の魔法使いに……会うんだ、クニカ。皇帝にも……」
「わかった……!」
差し出された銃を、クニカは手に取る。
「ありがとうな、クニカ……」
リンの声が、消え入りそうになる。
「リン、ありがとう……! ありがとうね……!」
服の袖で涙をぬぐいながら、リンの身体を、クニカは抱きしめる。気の済むまで抱きしめた後、クニカは立ち上がって、部屋の中央にあった階段を下り始める。
クニカが階段を降りる最中、“黒い巨人”が、世界に向けて解き放たれた。