156_ぎりぎりの欲望(Едва желание)
ジイクと並び、先頭を歩いていたミーシャが、東の方角に、ふと顔を向けた。
「ミーシャ?」
クニカは尋ねるが、ミーシャから返事はない。ミーシャのまなざしはまっすぐだったが、その瞳には何の感情も映り込んでいない。
ただならぬミーシャの様子に、クニカも東を見ようとする。しかし、クニカの眼前に映り込むのは、立ち並ぶビルの群れだけだった。
そういえば、ジナイダもオリガも、東へ向かっていた――。
「危ない!」
そのとき、リンが叫んだ。叫びと同時に、クニカの耳に、汽笛のような音が聞こえてくる。それが、地上に放たれたミサイルの音だと気付いたときには、クニカの目の前で閃光がほとばしった。
周囲はたちどころに、黒煙に包まれる。クニカたちが無事なのは、ジイクが展開した結界のおかげだった。
煙が晴れていく。ミサイルの衝撃で、正面のビルが横倒しになっていた。土ぼこりが収まると、アエリア=カピトリナの遠景が、クニカたちの眼前にあらわになる。
「見えた!」
リンが声を上げる。指さす先には、水晶のような光を放つ、大きな建物が屹立している。アエリア=カピトリナの中心、皇帝の宮殿だった。
「遠いな……!」
ガラス張りの宮殿に目を細め、リンは舌打ちする。リンが言っているのは、物理的な距離のことではない。宮殿の周囲には、深い濠が張り巡らされていて、水を満々と湛えていた。目の届く範囲をクニカは見渡してみたが、橋のようなものはない。
宮殿まで、どうやって進むべきか。空を見上げた矢先、クニカの視界を、戦闘機の一群が通り過ぎる。
「空は無理だ」
クニカの答えを見透かしたように、ジイクが答える。
「オイラじゃ、シノンの代わりは張れない」
「じゃあ、どうすんだ」
リンが鼻を鳴らす。
「カイとミーシャに行ってもらうよ」
結界を展開したまま、ジイクは水辺に近づく。その間にも、戦闘機の群れは、クニカたちの真上を通り過ぎ、東へ向かっていった。今はクニカたちよりも、ジナイダたちの方が優先されているようだった。
「空から落ちるとき、水門が見えた」
フェンスから身を乗り出し、ジイクは水面をのぞき込む。
「あれを破壊すれば、ここの水は引くと思う」
「できるのか?」
「ン!」
「キャー!」
リンの問いかけに、カイもミーシャも返事をする。
「それじゃ、頼んだよ」
ジイクが声を掛けるやいなや、カイとミーシャの二人は、フェンスを飛び越えて、水の中へと姿を消した。鯱に海豚、二人の本領発揮だった。
水しぶきが上がり、さざ波が濠の壁面を洗う。周囲は静寂に包まれた。
「じっと待とう」
ジイクはフェンスにもたれかかる。ジイクもまた、東を見つめていた。
「あいつら、大丈夫なのか?」
同じく東を見ながら、リンが言った。ジイクは首を振る。
「どういうことだよ?」
「オリガだよ」
ややあってから、ジイクが答える。
「死ぬことを見つけちまったのさ」
それ以上、ジイクは答えなかった。「死ぬことを見つけた」として、オリガはどうなるのか? クニカもリンも、言葉の裏側に潜むものを感じ取り、心が怯んだ。言いたいことはいろいろあったが、オリガにそれを言う機会は、永遠にない。プヴァエティカや、ニコルはどう考えるだろう?
その矢先、クニカの足下が震えた。地球に生きていた頃、何度も味わっていた、地震に似た感覚だった。違うのは、地面の揺れに連動して、濠に湛えられた水も、激しく泡立っていることだった。
クニカの目の前で、水かさが減っていく。カイとミーシャは成功したのだ。
よろめいたクニカは、せり上がった石畳に足を取られ、そのまま尻餅をつく。立ち上がろうにも、足場自体が傾きだしている状況だった。隣では、リンも倒れている。
リン! 恐怖に突き動かされ、クニカは叫ぶ。次の瞬間、斜面のてっぺんから水があふれ出し、クニカに押し寄せる。クニカの伸ばした手は、ぎりぎりで、リンの手に届かない。クニカもリンも、水に押し流され、傾いた石畳の上を転がり落ちていく。
はじめクニカは、地盤が沈下したのだと考えた。濠の水に侵食され、周辺の地盤はもろくなっていた。水門が開き、水圧が変化し、それが地盤にとどめを刺した。しかし、ある程度まで沈み込めば、沈下は収まるはずだ。濠の水は、沈み込んだ部分を満たし、自分の身体は浮力を得る。だから我慢してさえいれば、自分は地上に戻ることができる。――クニカはそう考えた。
しかし、今はどうだろう。水に押し流され、傾いた足場の上を、クニカは滑っていく。眼下を眺め、クニカは愕然とした。想像以上に、沈下でできた穴は深い。――否、穴だと思っていたところには、照明や、階段や、施設が見える。
自分たちの足下には、施設があったのだ。そう気付いたときには、クニカは大量の水の一部となって、地下の施設に住まう人たちに迫っていた。突然の揺れと、濁流に、周囲の人たちはなす術もない。みな、クニカと同じように水に呑まれ、もみくちゃにされている。
人々の悲鳴が、クニカの耳に届く。それは異国の言葉で、しかしニコルが話す言葉と同じだった。アエリア=カピトリナの市民は、地上の街並みを放棄し、みな地下で暮らしていたのだ。
どれほど押し流されたことだろう。水は怒涛のようになって、階下へと流れていく。クニカの身体は木切れのように流され、しかし、ちょっとしたはずみで、別の方角へ押し流された。クニカは何とか水流から抜け出す。その瞬間、周囲を闇が襲った。水が施設に侵入したため、電源がショートしたのだ。
「リン?!」
リンはどこへ行ってしまったのだろう? クニカは叫ぶ。その声は、周囲を逃げまどう人々の声にかき消される。暗い上、水浸しで、方位も、ここが地下の第何層なのかさえも、クニカには分からない。
「リン――」
もう一度叫んだ矢先、クニカは後ろから突き飛ばされる。倒れ込んだ拍子に、クニカはあごを打ってしまった。
クニカを突き飛ばした者も、前方不注意だったのだろう。クニカの前方で倒れ込み、水浸しになっていたが、再び立ち上がると、クニカを顧みることなく、そのまま走り去っていってしまった。
クニカを恐怖が襲う。暗闇の中で、みなが前後不覚に陥っている。地上に出ようと、人は階段に殺到するだろう。その最中、押しつぶされて死ぬ人も出るかもしれない。このまま床に倒れていたら、誰かに踏みつけにされる。何人もの人に踏まれてしまえば、それこそ、車に轢かれたことと同じだ――。
そのときだった。クニカの腹に、だれかの腕が渡し込まれる。クニカは悲鳴を上げようとするが、腹部を強く圧迫され、言葉が出ない。
「クニカ、しっかり」
頭の後ろから、聞きなれた声がする。ジイクの声だった。
「リン、手伝ってくれ」
「任せろ――」
無意識に前に伸ばしていた腕を、リンが掴む。ジイクとリンに支えられ、クニカは壁際にまでたどり着いた。たどり着いてすぐ、虫の羽音のような低いうなりとともに、施設の照明が灯る。非常用の電源が作動したようだった。
リンとジイクの姿が、クニカの前で明るみになる。二人ともびしょ濡れだった。
「どうなってんだよ?」
肩で息をしながら、リンが言う。唇の端を切ってしまったらしく、リンはしきりに、下唇を舐めていた。
「地上は、放棄されていたんじゃないかな」
服の袖を絞りながら、ジイクが答える。
「オレたちのせいか?」
「考えすぎさ」
ジイクがにべもなく言う。
「それより、地上に出よう」
ジイクがそう言った矢先、クニカたちの遠くから、悲鳴が上がった。悲鳴の方に顔を向けてみれば、少女がひとり、水の中に倒れ伏している。
「ラミア!」
少女に向かって、別の女性が駆け寄る。女性は、ラミアと呼ばれた少女よりも、少しばかり年長のようだった。
クニカはすぐに、二人が姉妹なのだと気付いた。そして、気づくと同時に、二人が何を話しているのか、クニカは直覚してしまった。
――どうしたんだ?
――お姉ちゃん……。
目元を手で覆いながら、“妹”が言う。
――痛いよ……。
“妹”の手の辺りは、血で濡れていた。濁流に押し流されている中で、“妹”の目に、鋭利な破片が入ってしまったようだった。
――泣くんじゃない……!
“姉”の声は、震えていた。
――大丈夫だ、きっと良くなる。姉ちゃんが、医者に連れてってやる。ほら!
すすり泣く“妹”を背負うと、“姉”はそのまま、クニカたちのはるか前方を横切り、通路を曲がっていった。視界から消えるまで、クニカは目を離すことができなかった。
“霊長の魔法使い”に会うこと。今クニカが成し遂げたいと考えていること、クニカのぎりぎりの欲望は、それだけだった。それだけにもかかわらず、クニカたちの行動のために、アエリア=カピトリナは平穏を奪われている。
“霊長の魔法使い”に会いたい。しかし、会ってどうする? 自分の行いは、正しいことなのだろうか?
そのとき、クニカの手首を、だれかが掴んだ。
「行くぞ、クニカ」
リンだった。
言葉は出ず、クニカはただうなずく。ジイクに先導され、クニカとリンは、アエリア=カピトリナの地下施設から、改めて宮殿を目指した。