155_和解(примирение)
――其の日其の時を知る者なし。天の使いたちも知らず、子も知らず、ただ父のみ知り給ふ(終わりの日を知る者はいない。天使たちも知らず、基督も知らず、ただ天の父のみがそれを知っておられる)。【『馬太による福音書』、第24章第36節】
アエリア=カピトリナの中空を闊歩しながら、ジナイダとオリガは東に向かう。都市の東側は海に面しており、複数の幹線道路が、ひとつの巨大な施設に接続していた。
クニカが見れば、それが空港であると気付いたことだろう。しかし、南大陸では、航空機はまだ発明されていなかった。
「お前、飛べたのか?」
しばらくしてから、オリガがジナイダに尋ねる。
「大気の音のうねりを、踏んでいるだけさ」
ジナイダは答える。次の瞬間、大気のうねり方が、急激に変化したことを、ジナイダは肌で感じ取った。魔力を右手に集中させると、ジナイダは腕を前に突き出す。自分たちに向けられた“神の鉄槌”が、二人の前で弾ける。
「ニフリート!」
オリガが叫んだ。その間、ジナイダは目線を下に向ける。視力を喪っているジナイダだったが、生命や静物の霊気から、ジナイダは事物の本質を直観できる。“神の鉄槌”が、地面をえぐり取り、大地に深い亀裂がはしっているのを、ジナイダは理解した。
亀裂の奥底には、何かがある。ジナイダは、それに意識を傾注させようとしたが、正面から伝わってくる別の霊気にさえぎられる。アスファルトの中心に立っている、ニフリートの霊気だった。
「剣を預かろう」
着地した二人の前に、ニフリートが近づいてくる。
「この街全体が皇帝の殿堂だ。ケガをしたいわけじゃないだろう?」
「今のあなたじゃ、ボクには勝てませんよ」
ジナイダは、両手に魔力を集中させる。魔力は掌中で具現化し、音叉が形成された。
「ずいぶん陳腐なことを言うな」
ニフリートが答えた。
「勝つか負けるかは、大した問題じゃない」
「そう。大した問題じゃない」
応じたのは、オリガだった。ジナイダの一歩前に、オリガが踏み出す。
「ケリをつけに来た」
「かたきを討ちに?」
「違う」
ニフリートの問いかけに、オリガが答える。オリガの答えは、ジナイダには意外だった。
「では、何のために?」
それは、ニフリートも同じようだった。
「すぐにわかる」
直後、長剣を抜き放つと、オリガはニフリートに肉薄する。
「オリガ!」
オリガの行動は唐突だった。ジナイダは止めることも、援護のために追随することもできない。
ニフリートの間合いに踏み込むと、オリガは剣を振り上げる。オリガの動きは洗練されていたが、単純すぎた。肘を折り畳むようにして、ニフリートはオリガの剣を弾く。オリガの剣が宙を舞った。
丸腰になったオリガに、ニフリートの剣が振り下ろされる――。
そのとき、ニフリートの動きが止まった。剣の刃先は、オリガの額に触れている。オリガの皮膚からは、ぽつりと血のしずくが滴っているが、肉には食い込んでいない。見えない力にさえぎられ、ニフリートは身動きができないようだった。
オリガは両腕に、“鯰”の魔力を集めている。“鯰”の魔法は、地中に潜るだけが能ではない。大地を揺らし、重力を操るのもまた、“鯰”の真骨頂だ。
“磁場の糸”が張り巡らされているのを、ジナイダは直感する。糸はオリガの腕に局在化し、ニフリートを拘束するとともに、オリガ自身の腕も締め上げていた。
「今だ」
オリガが叫ぶ。オリガの両腕に、”磁場の糸”が食い込む音、アスファルトに滴る血の音を、ジナイダは聞き分ける。
「死んじまうぞ」
「早くしろ!」
再びオリガが叫ぶ。
それ以上のことは、ジナイダも言わなかった。
握りしめた音叉を、ジナイダは突き出す。放たれた音の波が、”磁場の糸”に引き寄せられる。音波は収斂し、ニフリートの全身に殺到する。
空気の破裂する音に続き、飛び散った血液が、ジナイダの服を濡らした。血はニフリートのものであり、オリガのものでもあった。
ニフリートの身体が地面に倒れる。遅れて、何かが地面に落下した。ニフリートの首が粉砕され、頭部が地面に落ちたのだ。
魔力が発散し、音叉は消え失せる。風が、ジナイダの銀髪をなでる。
「勝利!」
オリガが言った。おぼつかない足取りで、オリガは前へ出る。その傍らに、オリガの両腕が落ちているのを、ニフシェは直覚する。
オリガは倒れる。駆け寄ると、ジナイダはオリガの身体を起こした。
「どうした……笑えよ? ……は、はっ」
「キミはバカだ」
「うるさいな。あたしの人生だ」
オリガの血で、ジナイダの服が染まっていく。
「最低だ」
オリガの言葉に、ジナイダは首を振る。
「だれもキミを笑ったりなんかしないさ」
「好きに言えばいい」
オリガは言った。
「好きに言え。もうただ、みじめなだけだ。みじめなんだ……!」
オリガの瞳から、大粒の涙がこぼれる。ジナイダにはもう、オリガに掛けるべき言葉がなかった。
「あたしはお前を赦さない」
途切れ途切れに、オリガは言う。
「死んでもお前を赦さない。卑屈だって言われようが……お前が嫌いなんだ……」
「オリガ……」
「憎いんだ」
最後に、オリガは溜息をもらした。
ジナイダの腕に抱かれ、オリガは永遠の眠りについた。
「ナンセンスだ」
オリガの亡骸を、ジナイダは抱きしめる。みずからの負の感情を、オリガは死によって清算した。ジナイダが、どんな言葉を掛けたとしても、オリガを救うことはできなかっただろう。ニフリートの生が繰り返されようが、この戦いで負けようが、オリガには関係がなかった。オリガが本当に憎いのは、オリガ自身だからだ。
「あーっ」
背後から声がした。頭だけになったニフリートが、声を上げている。
立ち上がると、ジナイダはニフリートの髪を掴み、頭部を持ち上げる。
「もっとうまく殺せ」
ニフリートは言った。
「退屈が身に染みる」
「ボクたちにはお似合いでしょう?」
ジナイダは言う。
「もう、あなたを分かろうとは思いませんよ。たぶん、あなたもそうなんだ。誰もあなたを理解することはできないし、あなたもまた、自分自身が分からない。たけど、もういいでしょう? だれもあなたを苦しめられやしないんです。はじめからそうだった」
「まるで、全てが分かったかのような言い草だな」
ニフリートは言う。ジナイダは答えなかった。
「まあいい。結局、今を生きる人間に、勇気ある人間なんていないのさ」
「ボクを案内してください、皇帝のところまで」
「焦るなよ」
ニフリートがせせら笑う。
「地獄の苦しみを味わうためには、一日は十分すぎるほどある。こっちに来い」
「こっち?」
ジナイダの脳裡に、ニフリートの思念が投影される。 “神の鉄槌”で破壊された地下シェルターの奥を、ニフリートは示している。
「面白いものを見せてやる」
ニフリートに従い、ジナイダは地下へと潜る。




