153_胎児は既に生まれたものとみなす(плод)
虫の羽音のような音が、クニカから離れたところで、静かにうなっている。その音に気付いた途端、リンと、チャイハネの指が、クニカの手からすり抜ける。手を離すというよりも、握り締めていたはずの手がいつの間にか消え去ってしまったかのような感覚だった。
「リン?」
クニカは尋ねるが、返事はない。声は反響することなく、どこかへと吸い込まれていく。
言葉はどこへ行ってしまったのだろう? ――ここまで考えてから、クニカは直覚した。言葉は“永遠”の中を、無限に直進し続けるのだ、と。「“永遠”に取り残される」という、ジイクの言葉の意味。クニカはもう一度、固く目をつぶった。
〈意外と長いな!〉
クニカの脳裡に、ジナイダの言葉が流れ込んでくる。声は肉体に由来するが、念話は思念に由来するので、ほかの者たちにも届くようだった。
〈手が離れたろう?〉
クニカはうなずく。声を出さずとも、ジナイダは自分の様子を直観できているはずだという確信が、クニカにはあった。
〈そういうもんなんだ。何人もみずからの永遠を生きる。だれかの永遠を生きることはできない。ちょうど、だれかの生を代わりに生きられないのと同じさ〉
周囲を取り巻く“永遠”に、クニカは思いを馳せる。クニカと同じように、リンはリン自身の、チャイハネはチャイハネ自身の“永遠”を、今味わっているのだろう。
〈もうすぐ着く〉
ジナイダの言葉に、クニカは唾を呑み込んだ。ニコルの祖国、サリシュ=キントゥスの帝国が、クニカに迫ってくる。皇帝と、“霊長の魔法使い”。クニカは、かれらに会おうとしている。
〈目を開けろ!〉
ジナイダの念話が大きくなる。同時に、クニカの両手に、だれかの手指が入り込む。みな、みずからの“永遠”を抜け出し、世界に復帰したのだ。
クニカは目を開ける。その瞬間、前半身が、強い風に叩きつけられる。猛烈な風の勢いを前にして、リンと、チャイハネから、クニカは引き離される。
「クニカ――」
自分の下から、リンの声がする。風にあおられて、クニカは何度もでんぐり返る。そのたびに、鉛色の空と、灰色の大地とが、クニカの視界を上下する。地上ではなく、空に転移したのだと、クニカは気付く。
クニカの手を、だれかが掴む。リンだった。リンは既に、鷹の翼を広げている。ありがとう、と言おうとして、クニカの声は、空に流される。
リンの視線は、同じように中空を落下する、ほかの人たちに向けられていた。クニカと手をつないだまま、リンは羽ばたいて、チャイハネとシュムに迫る。リンはチャイハネと手をつないだ。ちょうどカイも近くにいたから、クニカも手を伸ばし、カイの服を掴んで、それから手をつないだ。
鵺の魔法属性であるジイクとアアリが、自在に空を浮遊しながら、使徒騎士たちを集めていく。ジナイダ、オリガ、シノン、ミーシャが、空中で並んだ。
〈見ろ〉
ジナイダの念話が飛ぶ。クニカは地上に目を向ける。ひび割れ、干からびた大地に、無数の建物が寄り集まって、オレンジの光を投げかけている。アエリア=カピトリナだった。
ウルトラ、チカラアリ、シャンタイアクティ――南大陸のそれらの都市と、アエリア=カピトリナは、似ても似つかない。摩天楼と幹線道路、アスファルトと鉄骨とガラス。アエリア=カピトリナは、地球世界の都市に近かった。
都市の中心部に、ガラス張りの、大きな建物がある。建物の周囲は、水に取り囲まれ、都市のほかの場所から隔絶されていた。アエリア=カピトリナの宮殿であり、サリシュ=キントゥスの皇帝が住まう場所だと、クニカは分かった。
そこには、“霊長の魔法使い”もいる――クニカの心臓が高鳴る。
一番下にいたシノンが、鷹の魔法を解き放つ。リンの数百倍はあろうかという白い翼が、絨毯のようになって、クニカたちの足下に広がった。ジイクとアアリに誘われ、みなシノンの翼にしがみつく。
「狙われてる!」
都市の一角を、リンが指さす。“鷹”の視力で、リンは何かを見出したようだった。
〈このまま突っ込む〉
シノンの念話が響く。
次の瞬間、クニカの心に、これまでに感じたことのない感覚がわき上がってきた。それは、胎児がこの世に生を享けたという直覚だった。
胎児は世界を求め、みずからの実存が、世界に投じられることを望む。――世界から放たれる陣痛のしびれ、産気。“霊長の魔法使い”が、生まれようとしている。
〈クニカ、結界を〉
ジイクの念話が飛ぶ。
結界を展開するために、クニカは祈ろうとする。そこで、クニカは気付いた。
「クニカ?」
「魔法が……」
「え?」
リンが尋ね返す。そのとき、地上からの機銃が、クニカたちの前方を通り抜けた。
「あっ!」
だれかの悲鳴が聞こえる。身体の下にあった、シノンの白い羽毛が消え失せる。クニカに代わって、ジイクとアアリが結界を張る。しかし、遅かった。
「シノン!」
アアリの悲鳴が聞こえる。クニカたちと同じように、シノンも自由落下をしている。右脚があった位置からは、血煙が噴きあがり、空へとたなびいていた。地上からの機銃が、シノンの脚にさく裂したのだ。シノンは気を喪っているようだった。
〈結界を頼む〉
アアリの側を離れると、ジイクは空中を泳ぎ、シノンの身体を抱き寄せる。再び、白い翼が現れた。気絶したシノンの身体に、強制的に魔力を注ぎ込んで、ジイクはシノンの翼を喚び出したのだろう。
〈クニカ、“救済の光”!〉
アアリが叫ぶ。しかし、クニカは首を振るしかなかった。
〈どうして?〉
「魔法が――」
〈もう使えないんだ〉
クニカに代わって、ジナイダが答える。
〈クニカは魔法が使えない〉
「何だって?」
〈どういうこと……?!〉
リンとアアリが、同時に言葉を発する。
〈霊長さ〉
ジナイダは答える。風を切る音と、結界に中和された銃弾の音に、周囲は包み込まれる。
〈とにかく降りよう。チャイ、シノンを頼む〉
眼鏡を押さえながら、チャイハネがうなずいた。
宮殿から遠く離れたところへ、クニカたちは不時着するしかなかった。




