152_運動の夢(Мечта движения)
夜明け前、鈴の音とともに、クニカたちは“歳星の間”へと集められた。
荒れ放題だった“歳星の間”も、一晩のうちに、床だけはきれいに掃かれていた。今、床の上にかがみ、ジイクとミーシャの二人が、魔法陣を描いている。二人の手の動きは、無造作で、しかし迷いがなかった。ブレのない曲線が描かれていく様子に、クニカは自然と釘付けになる。
ほどなくして、楕円形の魔法陣が、クニカたちの眼前に立ち現れた。楕円の円周には、ひとつの真円が隣接しており、魔法陣全体が、人の目を模しているように見えた。
「“運動の夢”だ」
炒ったそら豆をかじりながら、ジナイダが言う。
「“運動の夢”?」
「運動は、常に瞬間を夢見る」
リンの問いに、ジイクが答える。ジイクは床に寝転がり、肘をついている。床の近くから、ジイクは線の流れや、方位の正しさを確かめているのだろう。
「その逆も然り、なんだけど。要は、物質を転移させるための魔法陣さ。地点Pから地点Qへ、物質Xを転送する。このとき、P・Q間におけるXの転送は、P・Qの置かれる座標平面に含まれない、俯瞰的な地位にいるRの存在を仮想することによってなされる。これを“仮想視座”Rと呼ぶ」
ジイクは続ける。
「“仮想視座”Rは、その与件のために追加の次元を要請するけれど、正世界においてこれを実現するためには、z座標を定数にとって、便宜上、二次元における定数として扱わなければならない。正世界で、四次元は作れないからね。だから、魔法陣は三次元で構成される。今は、足下でべったりしてるけれど。ワカッタカナ?」
ジイクの視線が、クニカに向けられる。
クニカは首を振るしかなかった。
「何であれ、クニカ、キミが必要ってことさ」
ジナイダが言った。
「理論上は可能で、現実では不可能。竜の祈りがなければ、この魔法陣は実現しない。そうだろ、ジイク?」
「うんにゃ。あと、楕円の焦点に二人要るんだ。“転移”って、『ある場所から、別の場所へものを移す』ことだからね。何かをどこかに移すためには、『どこから』が特定されていなけりゃならない。それで、魔法陣の構成上、Pの位置には二人必要になる」
「それが星誕殿だ」
ジナイダが、かかとで床を叩く。
「転移先は?」
クニカは思わず尋ねる。
「アエリア=カピトリナ。サリシュの帝都」
ジナイダが答える。
“歳星の間”は、水を打ったように静かになった。
「重要なのは『だれが行くか』じゃない。『だれが残るか』だ」
転移元のPとして、星誕殿がある。二人の人間が、この場にとどまらなければならない。
「だれが残るんだよ」
リンが問う。みな無言だった。
クニカの向かい側には、アアリがいた。アアリは、魔法陣とは別のところに、視線を向けていた。
クニカも視線の先を追う。リンも、チャイハネも、シュムも、カイも、ほかのみなも、クニカにつられた。
視線の先には、オリガと、シノンがいる。
「私は行く」
シノンが口を開いた。
「私は役に立てる」
「自分をいたわるときよ、シノン」
アアリがかぶりを振った。
「あなただって」
「私は何も喪っちゃいない」
アアリは言った。ルフィナの話をしているのだと、クニカは気付く。
「何も喪っちゃいないのよ、シノン」
「実感が湧かない」
アアリの言葉に、シノンは答える。その声は物憂げだった。
「だから危険なのよ」
アアリが答える。
「キミは来なさい、シノン」
そのとき、ジナイダが言った。
「だれが残るかは、ボクが決める」
「じゃあ、だれだよ」
もう一度、リンが尋ねる。
空豆の入った袋をミーシャに預けると、ジナイダは
「プヴァエ、フラン」
と、二人に呼びかけた。みなの視線が、西の巫皇・プヴァエティカと、北の巫皇・フランチェスカに集まる。
「え……?」
フランチェスカが声を上げる。
「どうして?」
「キミたちは死んじゃいけない」
「それは、みんながそう」
フランチェスカが答える。
「私だけじゃない」
「ちがう。キミが死んだら、また巫皇が欠ける」
ジナイダは続ける。
「キミの身体は、もうキミだけのものじゃない。巫皇の座に就いたときから、そうなんだ」
「だとしたら、あなただって――」
「シャンタイアクティの巫皇は、一人で立てる」
ジナイダが言った。
「向こうでボクが狗斃ばったって、星誕殿のだれかが後を継ぐ。イリヤがいるし――」
「キャー。」
「ミーシャだっている。忘れるなよ? キミを巫皇にするために、ペルジェもミカも心血を注いだ」
答える代わりに、フランチェスカはプヴァエティカを見つめる。プヴァエティカは、首を振るだけだった。
「星誕殿の留守はあなたに任せます」
「かしこまりました」
ジナイダの言葉に、プヴァエティカは答える。奇妙に律義な二人のやりとりが、クニカの耳に残る。しかし、尋ねてはいけない気配を感じて、クニカは何も言えなかった。
「決まりだ。すぐ行こう。いいよな?」
「はい」
クニカはうなずく。
◇◇◇
「手を取って」
魔法陣の、真円の円周上に集まった人びとは、ジナイダの合図で、互いに手を取り合う。クニカは、右手をリンと、左手をチャイハネと取り合う。チャイハネはシュムと手をつなぎ、リンはカイと手をつなぐ。
そのほか、ジナイダ、オリガ、ジイク、アアリ、シノン、ミーシャが手を繋いでいる。視界に映るほかの人たちが、つなぎ合った手を通じて、みな一体となっている。そう考えると、クニカは不思議な気持ちだった。
円の外側、楕円の焦点の位置には、プヴァエティカと、フランチェスカがいる。
「目を閉じて。ボクが『いい』というまで、絶対に開けるな」
「さもないと、“永遠”に取り残される」
ジナイダに続けて、ジイクが言う。
「永遠?」
目を閉じたまま、クニカは聞き返す。いったいどこに、永遠に取り残されるというのだろう。――そう考えてから、ジイクが言いたかったのは、永遠それ自体に取り残されるという意味だと、クニカは気付いた。
「クニカ」
ジナイダの声がする。
「ボクの共感覚を嗅げ」
クニカの脳裡に、ひとつの思念が浮かび上がる。楕円の焦点が重なり合い、真円と輪郭が一致し、魔法陣が立体を描く。空間に描画された魔法陣は、ラテライトの土壌から凍てつく大地へと、クニカたちを誘う――。
“竜”の魔法を、クニカは解き放つ。
◇◇◇
一瞬の出来事だった。
楕円の焦点が重なり、新たに形成された円が、真円と重なった瞬間、クニカたちの姿は消えた。円の軌跡に見とれていたフランチェスカは、気付いたときには、プヴァエティカと二人きりで、“歳星の間”に取り残されていた。
魔法陣の中央、真円の中心まで、フランチェスカは歩く。さっきまで、みなが手をつないでいたところに来てみれば、誰かのぬくもりを、名残を感じ取れるのではないか。フランチェスカはそう考えた。しかし、そこには何もなかった。魔力が抜けていった感覚も、疲れも、フランチェスカは感じない。送り出すのは、あっという間だった。
似たような感覚を、どこかで味わった気がする。フランチェスカはそう感じ、“歳星の間”の中心に立ちすくむ。
「フラン」
背後から、プヴァエティカの声がした。と同時に、遠くから、エンジンの音も聞こえてくる。
「イリヤたちが戻って来たみたいです」
「あ、うん」
準騎士たちを出迎えるため、フランチェスカも、プヴァエティカに続いた。しかしその間じゅう、自分が味わった感覚が、どこに由来しているのか、フランチェスカは気がかりだった。




