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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第6章:神の子は都(みな)沓(くつ)を履く(Каждый ребенок Божий носит обувь.)
150/165

150_メメント・モリ(memento mori)

――(ばん)()(ことごと)く成るまで、現世(うつしよ)は過ぎ去ることなし。天地は過ぎ去れども、我が言葉は滅びることなし。(これらのことが全て起こるまでは、この時代が滅びることはない。天地が滅びたとしても、私の言葉は決して滅びない)【『ルカによる福音書』、第21章第33節】

 告解室の前には、ミーシャがいる。冷たい風が吹き抜けていく。


「どうしたの?」

「主がお呼びです」


 ミーシャの声は、男性のように低い。クニカは身震いする。魔力の強い者は、それに起因して疾患を抱えることがある。男性のように声が低いのもそのひとつで、特に“男性的処女”と呼ばれる。


 これまでにミーシャが、男性の声で話したことはない。霊化が進んだのか、今までずっと、男性的処女であることを隠していたのか――。


「主がお呼びです」


 ミーシャは繰り返した。着いてくるよう促され、クニカは告解室を後にする。



   ◇◇◇



 クニカの目の前には、緑の鉄扉が立ちはだかっている。たどり着いたのは“花嫁の間(ニユンフオーン)”だった。


 扉の前まで来ると、ミーシャは横に逸れる。その動きに呼応するように、扉はちょうど、クニカの身体の幅の分だけ、ひとりでに開いた。


「入れ」


 中から声が響く。ニフシェのものだった。隙間をすり抜けるようにして、クニカは“花嫁の間”に入る。中央の浴槽に、ニフシェが浸っている。彼女は髪を下ろしており、夜空の星のような銀色の髪が、水滴を浴びてまだらに光っていた。


「ご苦労、ミーシャ」

「キャー。」


 ミーシャが声を上げる。これまでに何度も耳にした、甲高い声だった。鉄扉は閉められ、辺りは薄暗くなる。


「来いよ」


 ニフシェに言われ、クニカは浴槽まで近づく。円形の浴槽は、内側が黄金でできている。ニフシェの白い肌が黄金で照らされるのを見るうちに、ペルガーリアとの一件を、クニカは思い出していく。静脈のひりつくような不快なうずきを覚え、クニカは唾を呑み込んだ。


「キミも入るといい」


 あのとき、ペルガーリアもそう言った。


「ニフシェ、わたしは――」

「ボクはジナイダだ!」


 ニフシェ――ジナイダの声は地響きのように大きく、クニカの脚はすくんだ。次の瞬間、ジナイダは腕を伸ばすと、クニカの手首を掴んだ。


 ジナイダは失明しており、クニカの方を振り向きもしなかったが、腕はまっすぐ、クニカまで届いた。腕の力は強烈で、拳は万力のように固い。なすすべもなく、服を着たままの状態で、クニカは浴槽に落ちる。


「心配は要らない」


 ずぶ濡れになりながら、クニカはジナイダを見上げる。白濁した瞳で、ジナイダはクニカをせせら笑っていた。視力は喪われているはずなのに、ジナイダの瞳に射すくめられているような気がして、クニカは落ち着かなくなった。


「ボクは受精なんかしないよ」


 意味が分からず、クニカはジナイダを見つめるしかなかった。


 クニカに対して真横を向くと、ジナイダは髪を手で()く。彼女を前にして、クニカはじっと、浴槽に身体を浸した。水面に浮いていたサンザシの赤い花びらが、ジナイダの(きょ)()に合わせて波を舞う。


「気は晴れた?」


 ジナイダの問いに、クニカは首を振った。


「やりたいことは見つかった?」


 クニカはまた首を振った。


「なら上出来だ」


 浴槽のすぐ傍らには小机があり、その上には一冊の本が置かれていた。表紙には『路加《ルカ》による福音書』と書いてある。南の大陸では、偽書とされている福音書だ。


「途方に暮れて立ちすくむ、それが人間の条件さ。言ったろう、クニカ? 『キミの中の救世主が死ぬ』って」

「でも、このままだと……」


 クニカは言いよどむ。ペルガーリアもエリッサも死に、使徒騎士も死んだ。北の帝国では、“霊長の魔法使い”が復活しようとしている。救世主になろうとする試みは失敗し、クニカの前に、世界は閉ざされている。


「キミの考えるとおりさ」


 ため息混じりにジナイダは言う。


「“霊長の魔法使い”は、じきにこの世に生を享ける。ただ、そのためにはエネルギーが必要だ。そこで皇帝は“逆魔法”を利用する」

「逆魔法?」


 聞きなれない単語を、クニカは繰り返す。


「例えば、キミはボクを知覚できる。どうしてそれができる?」

「光が当たって……反射した光が、目に届くから……」

「それで正しい――かもしれない」


 ジナイダは答える。


「ただ、”逆魔法”では、全てがあべこべになる。正解はこうだ、『クニカは視覚を飛ばす。視覚は飛び、ジナイダを捕捉する』」


 ジナイダの答えが、クニカには腑に落ちなかった。屁理屈のように聞こえた。


「屁理屈だと思うだろ? だけど、それで説明できる因果が、魔法には多い」


 “霊長の魔法使い”は、世界を生み出すほどの能力を秘めている。クニカはこれを、逆に考えてみる。“霊長の魔法使い”が生まれるために、今の世界はどうなっていなければならないか――。


「この世界を――」


 クニカは結論に至る。


「この世界を滅ぼして、そのエネルギーで、“霊長の魔法使い”が復活する」

「正解だ。吸うか?」


 ジナイダは煙草を差し出す。クニカは首を振った。


「この世界を、どうやって一気に滅ぼすのか、それは分からない。ただ、皇帝はまちがいなく、その方法を掴んだ」

――“霊長”を前に、世界は生まれ変わる。皇帝(コスモクラトゥール)は、その鍵を手にした。


 ニフリートの言葉が、クニカの記憶によみがえった。


「皇帝を止めないと」


 立ち昇った紫煙を見つめるだけで、ジナイダは答えない。


「ジナイダ?」

「キミが望むんなら、そうすればいい」


 突き放したようなジナイダの言い方に、クニカは怯む。しかしすぐに、クニカは腹立たしさを覚えた。


「そんな、無責任な……!」

「世界に対する責任なんて、誰も持っちゃいない。あるのは隣人に対する愛だけさ。世界はそのようにしてある」


 急にうつむくと、ジナイダは小刻みに肩を震わせる。ジナイダは笑っていた。


「実はさ、クニカ。ボクにはもう、何もかもが見えているんだ」

「え?」

「この後どうなるか、あるいは、どうにもならないか。だけど、どっちに転んでも、ボクができることはほとんどない。だからキミに訊きたい。一番望むものは何か、って」


 ジナイダが見えているものを、クニカは知りたいと思った。しかしジナイダは、それを教えようとはしないだろう。なにより、無理やり聞き出してしまったとたん、神秘が喪われてしまうだろうと、クニカは漠然と感じ取っていた。


 望むものは何か。――告解室での一件を、クニカは思い出す。素直になるべきだったと、シノンは去り際に言っていた。これまでに悩んできたことに、もう一度素直に取り組むとしたら、自分は何をするだろうか? 喪われたものを取り戻す? しかし、それを失敗したから、自分は二度もエリッサを死なせてしまったのではないか? 皇帝を倒す? ニフリートさえ倒せていないのに? 世界を救う? しかし今、クニカは救世主ではないのだ。


 そこまで考えた、そのとき。クニカの心に、ひとつのイメージが去来した。それは、火花のように小さなひらめきだったが、ひとたび脳裏に去来した途端、クニカの意識は、そのイメージへと全て吸い取られてしまった。


 それは、チカラアリの新市街で、ニフリートを退け、ミカイアを喪った日に見た、奇妙な夢のことだった。夢の中で、クニカは“黒い巨人”に追いつき、その正体を掴んだ。それは“霊長”と“竜”。――太古の神話のイメージだった。


 “霊長の魔法使い”と対決する。それが救世主の役割だと、クニカは考えてきた。だが、求められていることが、もし“逆”だったとすれば? 太古の神話を繰り返すことが、みずからの役目だったとすれば?


 クニカの心の中に、ひとつの答えが浮かび上がる。


「霊長の魔法使いに……会いたい」


 それをクニカは、言葉にする。言ったとたん、クニカは自分の心が軽くなるのを感じ取った。


「会って何になるのか、わからないけれど……」


 しかし、最後まで言うことは、クニカには許されなかった。ジナイダが、クニカのことを抱きしめたためだった。


「ジナイダ?」

「この後どうなるか、あるいは、どうにもならないか。それはわからない。最後までわからない」


 ジナイダは続ける。


「でも、キミが出した答えは本物だ。この世が滅びようとも、キミの言葉は決して滅びない。自分の感情を大切にするんだ、クニカ。世界が滅びたって、大した問題じゃない。キミにもわかるときがくる」


 クニカの背後から音がする。だれかが、“花嫁の間”の鉄扉を叩いているようだった。


「行っておいで。みんなが待っている」


 ジナイダに促され、クニカは浴槽を抜け出す。


「みずからの死を死ぬんだ――」


 背後から、ジナイダの声が届く。


 クニカは扉を開いた。

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