150_メメント・モリ(memento mori)
――万事悉く成るまで、現世は過ぎ去ることなし。天地は過ぎ去れども、我が言葉は滅びることなし。(これらのことが全て起こるまでは、この時代が滅びることはない。天地が滅びたとしても、私の言葉は決して滅びない)【『ルカによる福音書』、第21章第33節】
告解室の前には、ミーシャがいる。冷たい風が吹き抜けていく。
「どうしたの?」
「主がお呼びです」
ミーシャの声は、男性のように低い。クニカは身震いする。魔力の強い者は、それに起因して疾患を抱えることがある。男性のように声が低いのもそのひとつで、特に“男性的処女”と呼ばれる。
これまでにミーシャが、男性の声で話したことはない。霊化が進んだのか、今までずっと、男性的処女であることを隠していたのか――。
「主がお呼びです」
ミーシャは繰り返した。着いてくるよう促され、クニカは告解室を後にする。
◇◇◇
クニカの目の前には、緑の鉄扉が立ちはだかっている。たどり着いたのは“花嫁の間”だった。
扉の前まで来ると、ミーシャは横に逸れる。その動きに呼応するように、扉はちょうど、クニカの身体の幅の分だけ、ひとりでに開いた。
「入れ」
中から声が響く。ニフシェのものだった。隙間をすり抜けるようにして、クニカは“花嫁の間”に入る。中央の浴槽に、ニフシェが浸っている。彼女は髪を下ろしており、夜空の星のような銀色の髪が、水滴を浴びてまだらに光っていた。
「ご苦労、ミーシャ」
「キャー。」
ミーシャが声を上げる。これまでに何度も耳にした、甲高い声だった。鉄扉は閉められ、辺りは薄暗くなる。
「来いよ」
ニフシェに言われ、クニカは浴槽まで近づく。円形の浴槽は、内側が黄金でできている。ニフシェの白い肌が黄金で照らされるのを見るうちに、ペルガーリアとの一件を、クニカは思い出していく。静脈のひりつくような不快なうずきを覚え、クニカは唾を呑み込んだ。
「キミも入るといい」
あのとき、ペルガーリアもそう言った。
「ニフシェ、わたしは――」
「ボクはジナイダだ!」
ニフシェ――ジナイダの声は地響きのように大きく、クニカの脚はすくんだ。次の瞬間、ジナイダは腕を伸ばすと、クニカの手首を掴んだ。
ジナイダは失明しており、クニカの方を振り向きもしなかったが、腕はまっすぐ、クニカまで届いた。腕の力は強烈で、拳は万力のように固い。なすすべもなく、服を着たままの状態で、クニカは浴槽に落ちる。
「心配は要らない」
ずぶ濡れになりながら、クニカはジナイダを見上げる。白濁した瞳で、ジナイダはクニカをせせら笑っていた。視力は喪われているはずなのに、ジナイダの瞳に射すくめられているような気がして、クニカは落ち着かなくなった。
「ボクは受精なんかしないよ」
意味が分からず、クニカはジナイダを見つめるしかなかった。
クニカに対して真横を向くと、ジナイダは髪を手で梳く。彼女を前にして、クニカはじっと、浴槽に身体を浸した。水面に浮いていたサンザシの赤い花びらが、ジナイダの挙措に合わせて波を舞う。
「気は晴れた?」
ジナイダの問いに、クニカは首を振った。
「やりたいことは見つかった?」
クニカはまた首を振った。
「なら上出来だ」
浴槽のすぐ傍らには小机があり、その上には一冊の本が置かれていた。表紙には『路加《ルカ》による福音書』と書いてある。南の大陸では、偽書とされている福音書だ。
「途方に暮れて立ちすくむ、それが人間の条件さ。言ったろう、クニカ? 『キミの中の救世主が死ぬ』って」
「でも、このままだと……」
クニカは言いよどむ。ペルガーリアもエリッサも死に、使徒騎士も死んだ。北の帝国では、“霊長の魔法使い”が復活しようとしている。救世主になろうとする試みは失敗し、クニカの前に、世界は閉ざされている。
「キミの考えるとおりさ」
ため息混じりにジナイダは言う。
「“霊長の魔法使い”は、じきにこの世に生を享ける。ただ、そのためにはエネルギーが必要だ。そこで皇帝は“逆魔法”を利用する」
「逆魔法?」
聞きなれない単語を、クニカは繰り返す。
「例えば、キミはボクを知覚できる。どうしてそれができる?」
「光が当たって……反射した光が、目に届くから……」
「それで正しい――かもしれない」
ジナイダは答える。
「ただ、”逆魔法”では、全てがあべこべになる。正解はこうだ、『クニカは視覚を飛ばす。視覚は飛び、ジナイダを捕捉する』」
ジナイダの答えが、クニカには腑に落ちなかった。屁理屈のように聞こえた。
「屁理屈だと思うだろ? だけど、それで説明できる因果が、魔法には多い」
“霊長の魔法使い”は、世界を生み出すほどの能力を秘めている。クニカはこれを、逆に考えてみる。“霊長の魔法使い”が生まれるために、今の世界はどうなっていなければならないか――。
「この世界を――」
クニカは結論に至る。
「この世界を滅ぼして、そのエネルギーで、“霊長の魔法使い”が復活する」
「正解だ。吸うか?」
ジナイダは煙草を差し出す。クニカは首を振った。
「この世界を、どうやって一気に滅ぼすのか、それは分からない。ただ、皇帝はまちがいなく、その方法を掴んだ」
――“霊長”を前に、世界は生まれ変わる。皇帝は、その鍵を手にした。
ニフリートの言葉が、クニカの記憶によみがえった。
「皇帝を止めないと」
立ち昇った紫煙を見つめるだけで、ジナイダは答えない。
「ジナイダ?」
「キミが望むんなら、そうすればいい」
突き放したようなジナイダの言い方に、クニカは怯む。しかしすぐに、クニカは腹立たしさを覚えた。
「そんな、無責任な……!」
「世界に対する責任なんて、誰も持っちゃいない。あるのは隣人に対する愛だけさ。世界はそのようにしてある」
急にうつむくと、ジナイダは小刻みに肩を震わせる。ジナイダは笑っていた。
「実はさ、クニカ。ボクにはもう、何もかもが見えているんだ」
「え?」
「この後どうなるか、あるいは、どうにもならないか。だけど、どっちに転んでも、ボクができることはほとんどない。だからキミに訊きたい。一番望むものは何か、って」
ジナイダが見えているものを、クニカは知りたいと思った。しかしジナイダは、それを教えようとはしないだろう。なにより、無理やり聞き出してしまったとたん、神秘が喪われてしまうだろうと、クニカは漠然と感じ取っていた。
望むものは何か。――告解室での一件を、クニカは思い出す。素直になるべきだったと、シノンは去り際に言っていた。これまでに悩んできたことに、もう一度素直に取り組むとしたら、自分は何をするだろうか? 喪われたものを取り戻す? しかし、それを失敗したから、自分は二度もエリッサを死なせてしまったのではないか? 皇帝を倒す? ニフリートさえ倒せていないのに? 世界を救う? しかし今、クニカは救世主ではないのだ。
そこまで考えた、そのとき。クニカの心に、ひとつのイメージが去来した。それは、火花のように小さなひらめきだったが、ひとたび脳裏に去来した途端、クニカの意識は、そのイメージへと全て吸い取られてしまった。
それは、チカラアリの新市街で、ニフリートを退け、ミカイアを喪った日に見た、奇妙な夢のことだった。夢の中で、クニカは“黒い巨人”に追いつき、その正体を掴んだ。それは“霊長”と“竜”。――太古の神話のイメージだった。
“霊長の魔法使い”と対決する。それが救世主の役割だと、クニカは考えてきた。だが、求められていることが、もし“逆”だったとすれば? 太古の神話を繰り返すことが、みずからの役目だったとすれば?
クニカの心の中に、ひとつの答えが浮かび上がる。
「霊長の魔法使いに……会いたい」
それをクニカは、言葉にする。言ったとたん、クニカは自分の心が軽くなるのを感じ取った。
「会って何になるのか、わからないけれど……」
しかし、最後まで言うことは、クニカには許されなかった。ジナイダが、クニカのことを抱きしめたためだった。
「ジナイダ?」
「この後どうなるか、あるいは、どうにもならないか。それはわからない。最後までわからない」
ジナイダは続ける。
「でも、キミが出した答えは本物だ。この世が滅びようとも、キミの言葉は決して滅びない。自分の感情を大切にするんだ、クニカ。世界が滅びたって、大した問題じゃない。キミにもわかるときがくる」
クニカの背後から音がする。だれかが、“花嫁の間”の鉄扉を叩いているようだった。
「行っておいで。みんなが待っている」
ジナイダに促され、クニカは浴槽を抜け出す。
「みずからの死を死ぬんだ――」
背後から、ジナイダの声が届く。
クニカは扉を開いた。