149_素直さ、またはサンザシの花の赤さ(Кандор, или краснота цветов боярышника)
雨はやみ、シャンタイアクティは夜を迎えていた。部屋を抜け出すと、クニカは星誕殿の中庭を、あてもなく歩くことにした。
夜空も、海風も、虫の音も、昨日と変わりはない。変わったことがあるとすれば、あまりにも多くのものが失われていったのだということだけだった。
そして、自分自身もまた、もはや昨日の自分ではないのだと、クニカは感じていた。もしかしたら、昨日の自分に戻る必要性はもはやないのだと、言ってしまってもいいのかもしれなかった。しかし、戻れなくなったとして、あるいは、戻らなくて良くなったとして、その後どうすればいいのかが、クニカには分からなかった。“竜”の魔法使いでありながら、だれかを生かすことも、生き残った人たちを慰めることも、クニカにはできなかった。
灌木の合間、菩提樹の木々を抜けた先、クニカは知らず知らずのうちに、告解室にたどり着いていた。ただ、今度は反対側、以前にシノンが入っていた側からだった。
だれもいないことを確かめると、クニカは中に入る。月明かりが、室内を照らしていた。
籐製の椅子に腰かけ、クニカは壁に寄り掛かる。この世界に自分いる理由は、いったい何か。――ウルトラにいたときに感じていた疑問を、クニカはふと思い出す。チカラアリでフランチェスカを見出し、シャンタイアクティでニフリートと対峙する中で、いつか自分は“救世主”になれると、クニカは考えていた。正真正銘の“救世主”になったとき、自分がこの世界に生きる意味は、おのずから明らかになるだろうと、クニカは無邪気に信じていた。しかし、今はどうだろうか。
そのとき、告解室に向かって、足音が近づいてくることに、クニカは気付いた。
「見つけましたよ」
シノンの声だった。反対側の扉から、シノンは告解室に入ったようだった。
壁一枚を隔て、クニカとシノンは対になる。
「わたしを探しに?」
「いえ、懺悔をしに」
クニカは戸惑う。懺悔を聞き届ける資格など、自分にはないのではないか。しかし、断る勇気も、クニカは持ち合わせていなかった。
「聞き届けます」
「親友を救うことができず、約束を、ともに果たすことができませんでした」
親友――シノンがその言葉を口にしたとき、ルフィナの面影が、クニカの中に去来した。
――あなたが生きて、ルフィナは死んだ。私は、あなたを恥ずかしいと思う。
拳銃自殺を図ったオリガを助けた後、何も言わなかった彼女に対し、シノンはそう言った。あのときのシノンは、怒っていた。
「私は騎士失格だ」
シノンが言う。クニカの考えていることは、シノンにはお見通しのようだった。
かけるべき言葉が見つからず、クニカは黙っているしかなかった。シノンがオリガに怒りを覚えたのは、オリガが卑屈だったためだ。そんなオリガが生き残り、親友のルフィナが死んだことは、シノンには許せなかったのだろう。
しかし、もしもルフィナが生き残っていれば? シノンはルフィナとともに、約束を果たすことができただろう。それどころか、オリガの卑屈さを許していたかもしれない。さまざまな「もしも」があり、それらは潰えた。自分がしっかりしていれば、いくつかの可能性は、目の前に開けていたかもしれない。クニカはそう考える。
「ごめんなさい」
「あなたのせいじゃない」
フランチェスカの姿が、クニカの脳裡をよぎる。あのときのフランチェスカは、枕に頭をうずめていた。
「フランにも、同じことを言われました」
「ならばなおさら、あなたのせいじゃない」
もどかしい気持ちに、クニカは苛まれる。フランチェスカはエリッサを喪い、シノンはルフィナを喪っている。フランチェスカもシノンも「クニカのせいじゃない」という。しかし、それは慰めではなく、痛みそのものだった。フランチェスカとシノンの苦しみは、自分によって作られたのだと、クニカは感じる。だからクニカは、二人の苦しみから疎外されており、それがまた痛みだった。
では、自分は本当には、二人にどうしてほしいというのだろう。あなたのせいだと、口汚くののしってほしいのだろうか。クニカには分からなかった。
「ありがとう。気が晴れた」
籐製の壁がきしむ。シノンは立ち上がったようだった。
「実はまだ、ルフィナが死んだ実感がわかない。彼女の死体を抱えて帰ってきたというのに。――あ、あと、ひとつだけ」
告解室を抜けだす直前、シノンは立ち止まり、クニカに言った。
「『分からない』と言うべきだった」
「え?」
「この場で、あなたからアドバイスを求められたとき。あなたは私を失望させないために、私の言葉を理解するふりをした。素直になるべきだった」
シノンの足音が、クニカから遠ざかっていく。たまらずクニカは、告解室の扉を開き、外へ出る。すでにシノンの姿は見えず、雲間から覗く月の光が、中庭を照らしていた。夜風を受けて揺れるサンザシの、その花の赤さが、クニカの目の端にちらつく。
素直になる。――シノンの言葉を、クニカは心の中で繰り返す。これまでに悩んできたこと、頭の中で渦を巻いていることに、素直に答えるとしたら、自分はどう答えるのだろう?
考え出そうとした、そのとき。背後から視線を感じ、クニカはそちらを振り向いた。
ミーシャがそこにいる。




