148_証人(свидетель)
――パリサイ人尋ねて曰く「爾の主は何処に在りや」と。約翰答えて曰く「彼、彼の来たりし所へと再び帰り給ふなり」と(「お前の主人はどこにいるのか」と、パリサイ人は問うた。それに対してヨハネは「主人は、彼がやって来たところへと再び戻って行ったのです」と答えた)。【『ヨハネのアポクリュフォン』、第2節】
“花嫁の間”で、ジナイダは裸のまま、最小限の踊りを踊っていた。
“一者の間”で、ジナイダはこれから、即位灌頂の儀を遂げる。シャンタイアクティの古くからの伝統として、「天女は一人にして立つ」という言葉がある。ウルトラ、チカラアリ、ビスマーの巫皇と異なり、シャンタイアクティの巫皇は、独力で即位灌頂の儀を成し遂げることができる。シャンタイアクティの巫皇はアウトゲネース、すなわち、“みずから生まれた者”であるからだった。
足の運び、手の動きに合わせ、ジナイダの魔力は発散する。“花嫁の間”の小物や調度が、魔力に感化され、宙を舞う。それらは天体のようになって、ジナイダの周囲をめぐる。
ジナイダは踊りを止める。宙を舞っていた物たちは、元のところへ戻っていく。
浴槽に近づくと、ジナイダは手を洗う。そのときジナイダは、影がやってきたことに気付いた。ニフリートだった。影は、ジナイダから一定の距離を取り、出方をうかがっているようだった。
「ボクを殺しに来たんだろう?」
かぎたばこを喫い終えると、ジナイダは言う。
「やってみろ。抵抗しないから」
両腕を垂らすと、ジナイダはまぶたを閉じる。影が迫るのを、ジナイダは感じる。ジナイダを撫でるように、影は周囲をめぐる。しかし、それだけだった。影の気配が消え去ったことを感じ取り、ジナイダはまぶたを開いた。
“花嫁の間”の扉が開くのを、ジナイダは聞き取った。“麒麟”の魔法使いであるジナイダは、微細な音も聞き分けられる。
息づかい、足音から、ジナイダは相手が分かる。フランチェスカだった。
「どうした?」
「寂しいだろうと思って」
「どうしてそう思う?」
「即位灌頂のとき、私は心細かったから」
「違うだろう」
「え?」
フランチェスカのところまで、ジナイダは近づく。
「今が一番心細い。キミが本当に言いたいのは、それさ」
フランチェスカは答えなかった。
「音に敏感でね。相手の嘘が、声音から分かる」
ジナイダは言う。
「ただ、嘘が分かったところで意味はない。嘘の逆が、必ずしも真実にはなるとは限らないから。ボクはずっと、自分にそう言い聞かせてきた」
きびすを返すと、ジナイダは別の扉を抜ける。“一者の間”に直接つながる通路が、“花嫁の間”にはある。
「ただ、今はもう分かる。嘘に対して『嘘だ』と言うこと。それだけでもう、計り知れない意味がある。来るといい」
入口に立ったまま、逡巡しているフランチェスカに、ジナイダは呼びかける。フランチェスカの足音が近づくのに合わせ、ジナイダは階段を降りる。降り切った先で、ジナイダのくるぶしは水に浸かる。すでにジナイダは、“一者の間”に足を踏み入れている。
「言いたいことがあるんだろ?」
冷たい水の中を歩きながら、ジナイダは言う。
「話すといい。マナー違反とか関係ない。生きている間に、人は多くを忘れるのだから」
「ペルガーリアも」
フランチェスカが言った。
「同じことを言っていた。ここで」
「繰り返しか」
すでにジナイダは、腿の辺りまで水に浸かっていた。まもなく正面の壁にたどり着く。後は潜るだけだった。
「姉が嫌がりそうだ」
「私はペルガーリアに、『あなたのことが嫌いだ』と伝えた」
フランチェスカは続ける。
「ペルガーリアは、『自分で自分が耐えられない』と言っていた。私はエリッサに『愛している』と伝えた。エリッサは私に『愛している』と言った。ペルガーリアもエリッサも、もういない」
水を掻き分けながら、フランチェスカはジナイダに追いすがる。服を着たままのせいで、フランチェスカは歩きにくそうだった。
「私は、二人を嫌っていたり、愛していたりしたけれど、それは私の問題に過ぎない。二人ともいい人だった。少なくとも、悪い人とする理由はない。それなのに、二人は死んだ。そして、私は生きている」
「それで?」
「どうして二人が死んで、私が生きているのか」
「選ばれたからだ」
フランチェスカの問いに、ジナイダは答える。あごを引いて、ジナイダは水面を見つめる仕草をする。失明しているので、当然ジナイダは、水深を図ることはできない。
「選ばれた? 何に?」
「運命」
手を伸ばし、ジナイダは水に触れる。
「逆に考えるしかないんだ。ペルジェやエリッサが死んでいったんじゃない。私たちが死に損なったんだよ。彼女たちはこの世界から解放され、ボクたちは後始末を負わされている」
「死んだ人は、死すべき運命だった?」
「そう」
「どうして?」
「ボクたちが生きているから」
ジナイダは笑った。
「先回りして、二つだけ言っておく。第一に、生は繰り返さない。だから、自分たちが死んでいたとしたら、のような仮定は、何ら意味をなさない。第二に、フラン、本当に死んだ人間も、本当に生きた人間も、実はまだいないんだ」
フランチェスカの息を飲む音が、ジナイダの耳に届く。
「どういう意味?」
「クニカさ。分かるだろ?」
ジナイダの言葉に、フランチェスカはすぐには答えなかった。“一者の間”を、水が流れていく。
「ニフシェ」
「ジナイダだ」
「ジナイダ、言いにくいけれど、私とあなたは、たぶん“違う島”にいる」
フランチェスカの言葉に、ジナイダは再び笑った。
「ボクの生き証人か。嘆きばかりになるよ」
そのままジナイダは、“一者の間”の深みへと飛び込んだ。