144_可能と現実(Возможное и реальное)
リテーリアが暴れたせいで、“歳星の間”はめちゃくちゃで、使える状況になかった。加えて、ニフシェの奥義“楽園の鐘”の衝撃で、星誕殿の窓という窓は、すべて割れていた。
かくして、“歳星の間”のほど近くにある大食堂に、一行は落ち着いた。やはり窓は割れていたが、広い分だけ、破片が飛び散っていないスペースがあった。
「おい、料理するぞ」
ガラスの破片を集めようとしていたリンのことを、ニフシェが呼び止める。
「いや、オレは別に――」
「シュム、ミーシャ、掃除は任せた」
リンの手から、ほうきとちりとりを奪い去ると、ニフシェはそれを、ミーシャに預ける。
「ほら、カイ、料理! 空豆炒るぞ」
「おっしゃー!」
露骨に嫌そうな顔をするリンと、拳を振り上げて大はしゃぎしているカイを同道して、ニフシェは厨房まで突っ込んでいく。
そんなニフシェの姿を見送りながら、ジイクとアアリの姉妹が、何かを話し込んでいた。いつもは高く、通る声で話すアアリも、今は声をすぼめていた。“次の巫皇”、“臨時の使徒騎士会”。それでも、いくつかの言葉は、クニカの耳に入ってくる。アアリが何かを言うたびに、ジイクは静かにうなずき返していた。
姉妹を横に見ながら、クニカは椅子に座り、物思いにふけっていた。机には、金属の容器に入ったレモネードがある。食堂に入ってすぐに、チャイハネが作ってくれたものだった。チャイハネは今、別室で、フランチェスカの看病をしている。
レモネードを少しずつ飲みながら、容器の表面に結露した水分を、クニカは指につけ、机に落書きする。
――もう救世主になんかならなくていい。キミはキミになる。
丸、三角、渦巻き、他愛のない図形を指でなぞりながら、クニカはずっと、ニフシェの言葉を思い出していた。“救世主”。クニカはその言葉を、それこそ十字架か何かのように背負っていた。ニフシェの言葉は、その重さを引き受けてくれたどころか、十字架そのものをクニカからかつぎ上げ、どこかへ投げ飛ばしてしまったかのようだった。
事実クニカは、自分の心が軽やかになっていたことを実感していた。そして、その軽やかさが後ろめたいのも、クニカにとってまた事実だった。
この世界を救うためには、クニカが必要不可欠である。ペルガーリアも、ほかの巫皇も、使徒騎士たちも、そのために命を賭けた。戦争には勝ったが、街は焼け野原になった。多くは死んだが、クニカは期待に応えられなかった。“救世主”にもなれていない。サリシュ=キントゥス帝国では、“霊長の魔法使い”が復活しようとしている。今まさに、世界は滅びようとしている。
そんな中、クニカはぼんやりと椅子にすわり、レモネードを前にして、軽やかな気分に浸っている。なんという無責任! なんという情けなさ! しかし、「重圧から解放された」という喜ばしさを、クニカはまぎれもなく直観している。それは否定できなかった。思考は際限なく散らばっていき、クニカは目が回る思いだった。
〈クニカ〉
そのとき、クニカの頭の中に、シノンの念話が飛び込んできた。
〈すぐ来てくれ〉
目的地までの道のりが、思念として送り込まれてくる。フランチェスカが意識を取り戻しかけていることを、クニカは知った。
食堂を抜けると、クニカは二階に上がる。廊下に落ちているガラスの破片を踏みしめながら、クニカは目的の部屋にたどり着く。
部屋には、チャイハネとシノン、それからフランチェスカがいた。フランチェスカはベッドに横たわっており、苦痛に表情をゆがめている。
「破片は全部取り除いた」
膿盆に、チャイハネは鉗子を置く。膿盆の中では、ガラスやモルタルの破片が、血にまみれていた。
フランチェスカの右脚が、ベッドにむき出しにされている。右脚は穴だらけで、ひき肉のようになっている。
「あとは任せたよ」
チャイハネに言われ、クニカはベッドに寄る。フランチェスカの腕を取ると、クニカはその手を、みずからの額にあてがい、目を閉じる。“救済の光”。まぶたを閉じていても、まぶしさは伝わってくる。隣でシノンが、息を呑むのがわかる。
クニカは目を開ける。フランチェスカの脚は、もとどおりになっていた。
「左脚もだ」
チャイハネに言われるがまま、クニカはフランチェスカの左側に回り込んだ。左脚の傷は、そこまで大きくない。“救済の光”により、またたく間にかさぶたができ、そのかさぶたも消え去っていく。
「フラン、聞こえるかい?」
チャイハネの呼びかけに、フランは目を開ける。
「ここは?」
「星誕殿だ」
「戦争は?」
「終わったよ」
フランチェスカは、ベッドから身を起こした。見ず知らずの場所に迷い込んだかのように、フランチェスカは周囲を見回している。
「エリーは?」
フランチェスカは尋ねる。
「エリーは無事?」
フランチェスカは、誰かが答えるのを待っていた。チャイハネは答えなかった。フランチェスカの視線が、クニカに向いた。
よみがえってきた記憶を前にして、クニカは立ちすくむしかなかった。闇がエリッサに触れた瞬間。みずからの血潮にまみれるエリッサの亡骸。生み出された新たな生き物。リンの銃撃。
「ごめん」
クニカは答える。それ以上は何も言えなかった。誰も何も言わず、みながじっとしていた。
「クニカのせいじゃない」
フランチェスカが言った。フランチェスカがそう言う前に、永遠の時間が流れたように、クニカには思えた。クニカが聞きたかったのは、そんな言葉ではなかった。フランチェスカが言いたかったのも、そんな言葉ではなかっただろう。
では、どんな言葉であればよかったのか。そのためには、自分がもっと強くなければならなかったことを、クニカは理解していた。しかし、それは可能性ではあったとしても、現実ではなかった。自分たちの間を横たわっているのは、時間ではなくて現実だったのだと、クニカは気付いた。
「クニカのせいじゃない」
首を横に振りながら、フランチェスカは繰り返す。フランチェスカは泣いていた。
「寝るんだ、フラン」
もう一度寝そべるよう、チャイハネはフランチェスカに促す。
「今は寝るんだ。何も考えちゃいけない」
「姉のときもそうだった」
枕に頭を埋めながら、フランチェスカは言った。
「ミカもそうだった。エリーも。私の知らないうちに」
「フラン――」
「ひとりにしてほしい」
クニカの言葉に、フランチェスカはそう答える。
「ひとりにしてほしい」
クニカたちは、部屋を出ていくしかなかった。