143_大悲(милосердие)
――基督は、死すべき都ての者どもの前に現れ、大いなる者どもの前には大いなる者として、小さき者どもの前には小さき者として現れたるなり。【『フィリポによる福音書』、第26a節】
ほどなくして、プヴァエティカとカイが現れた。プヴァエティカの姿が遠目に見えたとき、彼女はカイの肩を借りていた。しかし、クニカの姿を認めるやいなや、プヴァエティカはカイの手を振りほどき、みずからの足であずまやまで入った。
「無事で何よりです、臺下」
軒下まで入ったプヴァエティカに、ニフシェが声を掛ける。それまでニフシェは、ほかのみなが押し黙っているにもかかわらず、ひたすら麻雀の話をしていた。クニカも含め、みなニフシェのことを不気味に思っていたが、あえて声をかける者はいなかった。下手に話しかけようものなら、殺されてしまうような空気が、ニフシェにはあった。
「秘密」
ペルガーリアの亡骸を見て、プヴァエティカが言った。
「これが秘密ですか? 彼女が守りたかった」
大瑠璃宮殿での一件を、クニカは思い出す。あのとき、プヴァエティカは真実を問いただそうとし、ペルガーリアは答えなかった。
「隠しておきたいことの一つや二つ、生きていれば誰だってある」
そう言いながら、ニフシェは肩をすくめる。
「悪いことじゃない。弱さでもない。人類はそうやって生きてきた。これからもそうやって生き続ける」
「弔いは私がしましょう」
ため息をつくと、ペルガーリアとエリッサの死体の間に、プヴァエティカは腰を下ろす。隠れていた蠅が、プヴァエティカに驚いて、周囲に逃げていった。
次にやってきたのは、チャイハネとシュムだった。二人は、角材とじゅうたんの切れ端でできた、即席の担架を担いでいた。その中には、フランチェスカがうずくまっている。
「星誕殿に行こう」
あずまやに到着しても、チャイハネは担架を下ろさなかった。
「狭いし、汚い。フランが死んじまう」
「助けられますか?」
シュムの言葉に、クニカはドキリとする。助けられないと言えば嘘になる。“救済の光”を使えば、フランチェスカは意識を取り戻すだろう。
クニカの耳に、蠅の飛び交う音が大きくなる。クニカによって異形とされ、エリッサは二度死んだ。同じ過ちを繰り返してしまったら? 怖れを前にして、クニカは立ち尽くしていた。
「待ってくれないか?」
クニカの代わりに、ニフシェが答える。
「破傷風にでもなったら、ヤバくなる」
「ならないよ。ミーシャ!」
チャイハネに答えると、雨の向こう側めがけ、ニフシェが叫ぶ。ニフシェの声に、シュムが震え上がる。クニカも背筋が凍る。ミーシャを呼ぶとき、ニフシェは怒鳴りつけるようだった。
ニフシェが叫んだ方角を、クニカは見る。雨の中に、ミーシャが立っている。ミーシャの隣には、シノンが立っている。
「シノン……!」
アアリが声を震わせる。目を凝らしたクニカは、声を上げそうになった。シノンの顔は、左半分が欠けている。傷口は焼けただれ、潰れていた。
シノンの腕の中には、ルフィナの亡骸がある。ルフィナの喉には穴が開き、頭部が垂れ下がっていた。
「嘘だ」
チャイハネが目を細める。
「生きてられない。あの傷じゃ――」
「功徳を積んだよ、キミは」
みなが息を呑む中、ニフシェは手を叩いて笑う。何が面白いのか、クニカには分からなかった。
ミーシャに連れられ、シノンはあずまやまでたどり着く。そのままシノンは、石の床に膝をついた。
シノンの腕から力が抜け、ルフィナの死体が床に転がる。シノンはちょうど、クニカの目の前に跪いた格好だった。
「シノン」
「触るな」
シノンの肩に手を掛けようとして、アアリはニフシェに止められる。
「ちょっとでも揺らしたら死ぬ。おい、救世主!」
“救世主”。その単語に、クニカは身をこわばらせる。
「キミだよ。クニカ、シノンを救ってやれ」
「わたしは……」
うずくまるシノンと、頬杖をつくニフシェ。両者を代わる代わる見ながら、クニカは言いよどむ。雨が激しくなって、あずまやの中にまで吹き付けた。
「救世主には……なれなかった……」
同じ過ちを、繰り返さないか。自分が泣いていることに、クニカは気付く。
「ちがうな」
ニフシェが言った。
「シノンを救うんじゃない。キミを救うんだ」
「わたしを……?」
「そうだ。だからビビるな。これからシノンは生きて、キミの中の救世主が死ぬ。もう救世主になんかならなくていい。キミはキミになる」
ニフシェは言う。告解室での体験が、クニカによみがえってくる。あのときは、勇気についての問答だった。「他人に与えるべき思いやり、気配りを、まずは自分に与えるべきときです」、シノンはそう言っていた。
シノンの言葉が、クニカの心の中で、新たな鮮やかさを帯びる。その鮮やかさを前にして、視界が冴えたような、世界の輪郭がはっきりしたような感覚を、クニカは味わった。
シノンに向かって、クニカは手を伸ばす。大丈夫さ、と、ニフシェの声がする。
クニカの手が、シノンの頬に触れる。“竜”の霊気が光となって、あずまやの中を満たす。“救済の光”をシノンは浴びる。同じ光を、クニカ自身も浴びる。
光が収まった。シノンの顔は元通りになっている。
「ありがとう」
目を開け、シノンが言う。どう答えるべきかわからず、クニカはどぎまぎとする。
「ほら!」
クニカの肩に手がかかる。ニフシェが隣まで来ていた。
「こういうときはさ、『助けさせてくれてありがとう』って言うんだ」
「えっと……助けさせてくれて、ありがとう」
助けたはずの自分が、助けた人に感謝をする。ニフシェに言われるがまま、しどろもどろにクニカは言ってみる。しかし、耳に入って来た自分の言葉が、そのまま自然と腑に落ちていったことに、クニカは気付いた。誰かに感謝をし、その感謝は自分にも返ってくる。
「いいな、上出来だ」
ニフシェは満足そうだった。
「シノン、星誕殿に戻ろう。副隊長と後輩が、キミの帰りを待ってる」
「はい」
ニフシェの言葉に、シノンは素直に従う。
「それに、ここは寒すぎる。どう思う、オリガ?」
ニフシェの言葉に、あずまやにいるみなの視線が、オリガに集まった。
オリガはといえば、唇を固く引き結び、青い顔をして、腕を組んでいた。寒さに身を縮こまらせているようでもあり、これからやってくるであろう衝撃に、身構えているかのようでもあった。
オリガが口を開き、何かを言った。しかしながら、声は雨音にかき消され、クニカは聞き取れなかった。
「ちゃんと言えよ」
錫杖の遊環を手でもてあそびながら、ニフシェが言った。とげのある言い方だった。
「みんなには聞こえないよ」
「いいよ、って言ったんだ」
取り繕うように、オリガが早口で答える。
大瑠璃宮殿で、オリガがニフシェの手を強引に振り払った光景が、クニカの記憶によみがえる。オリガとニフシェの立場は、あのときから逆転している。ニフシェは終始不機嫌で、大胆で、視力を喪ったというのに、目が見えるほかの誰にもまして、超然としていた。それらの特徴は、すべてニフシェを際立たせるもので、この場の主導権がニフシェにあるのは、誰の目にも明らかだった。
「決まりだ」
ニフシェは言った。彼女を先頭にして、みなは雨の中を、星誕殿まで戻っていく。




