142_言葉(слово)
雨が降り出してすぐ、クニカとリンは、通り沿いにあったあずまやへ避難した。そこで待ってろ、と言い残すと、リンは雨の中を舞い戻って、ペルガーリアとエリッサの亡骸を運んできた。
「濡れたら、かわいそうだからな」
リンは言った。返事をする代わりに、屋根を這う蔦と、滴り落ちる雨を、クニカは眺める。雨粒が、つま先に当たって弾けた。
シャンタイアクティの街は、雨に沈んでいた。街で喪われた多くのものは、雨のしぶきに覆い隠されている。見えない間は、考えから解放される。そんな期待に胸ははずみ、そんな期待を抱いてしまっていることに、クニカは逃げ出したくもなった。
――時間稼ぎなんだ、クニカ。何もかもが。
ニフリートの言葉が、クニカの頭の中で渦を巻く。心臓が、口から飛び出してしまうのではないかと、クニカは思う。
自分を守るために、死んでいった人たちがいる。死んでいった人たちが、自分に期待していた役割を、自分は果たしきれていない。救世主になんて、なれそうにもない。では、これからどうすればいいのか? ――正解を教えてくれる者もいない。罪を償おうとしても、赦しを乞うべき相手もいない。そもそも、自分の罪とは何なのだろう? ニフリートを斃せなかったこと? エリッサを救えなかったこと? どこから間違っていて、果たしてどこまでは間違いでなかったのだろう?
やがて“霊長”は復活し、世界を崩壊に導くだろう。自分にできることなど、もはや何もないのではないか。世界は雨に閉ざされ、自分の上を滑っていくだけなのではないか――。
「クニカ、手ェ貸せ」
そのとき、リンが言った。
「手?」
「そうだよ。早く」
突き出されたリンの手を、クニカは握り締める。リンと手をつないだまま、クニカは天井を仰ぐ。霊長と竜――天井には、この世界の創世神話が、レリーフとして刻まれていた。
クニカは息を吐いた。ウルトラにいた頃の記憶がよみがえってくる。
「懐かしい」
「だろ?」
手から伝わってくるリンのぬくもりを、クニカはずっと感じていたいと、そう思った。
「リン、悪いけれど――」
「分かってるよ」
リンは言う。心なしか、リンは愉快そうだった。
「じきにみんな来るさ。もう分かるんだ」
「ありがとう」
クニカは答える。後はもう、クニカもリンも、あえて何も話さなかった。
◇◇◇
はじめに現れたのは、オリガだった。黒いブラウスも、ズボンも、雨でずぶ濡れだった。髪も濡れそぼっていたが、赤髪のために、それは目立たなかった。
オリガは一定の歩幅で、まっすぐに、速足でこちらに向かってくる。クニカとリンには目もくれず、ペルガーリアの亡骸の前に、オリガは立った。眉間にしわを寄せ、オリガは怒っているかのようだった。
「どうして」
クニカの方に、オリガは振り向く。オリガの顔は蒼白で、声は押し殺したように低かった。
「お前がいながら、どうして……!」
「ペルジェが守ってくれたから、クニカは助かった」
リンが言う。
「そのための戦争だった。そうだろ? だれも勝てなかったけど」
「生き返らせよう」
座り込むクニカの正面に、オリガはにじり寄る。クニカは思わず、エリッサの亡骸に目をやった。エリッサに何が起きたのか、オリガは気づいていない。
「“救済の光”で。お前ならできる」
「オリガ、やめろ」
「あたしの魔力を使っていい――」
「やめろってば」
オリガの真横に、リンが立ちはだかる。
二人が言い合おうとした、そのとき。雨の向こうから、金属どうしの打ち鳴らされた、澄んだ音が響いてくる。錫杖に通された、遊環の音だった。
雨の中を、二人の人影が近づいてくる。ニフシェと、ミーシャだった。ニフシェは錫杖を携えており、ミーシャはニフシェのために、傘をさしている。
「お前……」
雨に濡れるのも構わず、オリガはあずまやから抜け出すと、ニフシェの正面に立った。
「死にぞこなったさ」
オリガが何かを言う前に、ニフシェが答える。
クニカはニフシェの顔を見る。ニフシェの瞳は白く濁っており、別の意思を持っているかのように、あちこちに動いていた。ニフシェは失明しているようだった。
「当ててやろうか、オリガ」
ニフシェが続ける。大瑠璃宮殿のときとは打って変わって、ニフシェの態度はぞんざいなように、クニカには感じられた。
「『どうしてお前が生きていて、ペルジェが死んだんだ』だろう?」
「あたしは別に……」
「ペルジェは死んだかもしれない。ボクは生きているかもしれない」
オリガの言葉をよそに、ニフシェは語り続ける。
「けれど、それにどんな違いがあるって言うんだ? なぁ、ミーシャ?」
「キャー!」
ミーシャが黄色い声を上げる。雨の中、ミーシャの声は異様に甲高く響いた。
「アアリ!」
間髪いれずに、ニフシェが叫んだ。ニフシェはその場で叫んだだけで、身をよじることも、振り向くこともしなかった。目が見えないのだから、それは当然だった。にもかかわらず、ニフシェがどこに向かって叫んだのか、みな分かった。
みなの視線が、一点に集まる。雨の向こうから、アアリが現れた。アアリは、双子の姉・ジイクを背負っていた。
アアリの側に、オリガが近づく。手を貸そうとしているようだったが、そんなオリガに、アアリは一瞥もくれなかった。結局はオリガも、アアリに道を譲るしかなかった。
あずまやの中にジイクを横たえると、アアリはきびすを返す。そのままアアリは、服の裾が汚れるのも構わず、泥水の中で、ニフシェに膝をついた。
「ニフシェ、赦して。ジイクの分まで、私を」
アアリのそばを通り過ぎると、ニフシェはあずまやに入り、ジイクの横に腰かける。
「ニフシェ?」
「後悔するよ」
「え?」
「ジイク」
アアリに答える代わりに、横たわっているジイクの肩を、ニフシェは数回、強く叩いた。
「起きるんだ、ジイク。キミは眠っているだけだ」
肩を強く叩かれ、ジイクの頭が揺れる。次の瞬間、ジイクは咳き込みはじめ、口から闇の塊を吐き出した。闇の塊は地面に落下し、煙のようになって消え去る。
「ジイク!」
身を起こそうとしたジイクの身体を、アアリが駆け寄って抱きしめた。アアリの勢いが激しすぎ、ジイクは重心を喪って、アアリと一緒に地面に転がった。
「アアリ……ここは……?」
「後で分かるよ」
すすり泣くアアリに代わって、ニフシェが答える。椅子に腰かけ、静かに煙草を吸うニフシェの様子は、ジイクが生きているのを見切った態度と相まって、ただならぬ迫力を、周囲にいる者たちに与えた。
「シノンに手を貸してやれ、ミーシャ」
口から煙を吐きながら、ニフシェはミーシャに指示を出す。傘を折り畳むと、ミーシャはあっという間に、雨の中へと消え去っていた。
「待とう。もうじきみんな来るから」
リンと同じことを、ニフシェも言う。あえて異を唱える者はいなかった。