014_ぼんやりとした不安(Мглистая Тревога)
――私は、その小さな思念を、世の中に置いたのだ。
(『大いなるセツ第二の教え』、第16節)
「チャイ、キスしてください」
名を呼ばれ、チャイハネはベッドから身を起こす。ベッドの端には、シュムが座っている。
ここは、“おおさじ亭”の二階。元々は客間だった部屋を、チャイハネとシュムが利用していた。
壁掛け時計を、チャイハネは見やる。時計の針は、夜の十時を指している。
「みんなは?」
「一階で、お客さんを追い返しています」
あくびをかみ殺すと、チャイハネは伸びをする。「イソジンを取って来るよ」という口実で、チャイハネは一階から抜け出した。そのまま知らず知らずのうちに、ベッドに横になり、寝入ってしまっていたようだ。ずいぶん眠った気もするが、まだ一時間も経っていない。
梟の魔法属性であるチャイハネは、その副作用で、夜に眼が冴え、昼に眠くなる。いつもはウルトラ中央病院で、長め昼寝をしてやりくりしているが、夜に寝たのは、最近では珍しいことだった。
「フフフ、大あくびですね。いい夢だったんでしょうね、きっと」
「え?」
「寝ながら、誰かと話してました」
眼鏡を外すと、チャイハネは目をこする。寝言を呟いたおぼえも、夢を見ていたおぼえも、チャイハネにはない。
「覚えてないな」
「なら、良かったです」
「どうして?」
「喋っているとき、楽しそうでした」
足をばたつかせているシュムを見て、チャイハネは察する。自分と楽しそうに話していた人に、シュムはやきもちを妬いているのだ。
「ああ、思い出したよ。誰だったか」
サイドテーブルに置かれたタバコのケースを、チャイハネは掴む。
「誰です?」
「その子、普段は澄ました顔をしてるんだけどね? ドジでさ、あたしの前では甘えん坊なんだ。ツンデレって奴なのかな?」
「それって……」
「駆けっこが早くて、木に登るのも得意。シュムって名前なんだけど――ハハハ!」
「もう! チャイ!」
ふくれっ面をするシュムを見て、チャイハネは笑う。マッチを壁でこすって火を灯すと、チャイハネはタバコを点火した。
「すねるなって、シュム」
シュムの頬に手を当てると、チャイハネは自分の唇を、シュムの唇に重ねる。
「あたしは、今が一番楽しいよ」
「ずるいです、チャイ」
シュムは頬を赤くする。
「でも、私も幸せです」
「そりゃそうさ」
そうは言うものの、チャイハネは、シュムの言葉が気がかりだった。忘れてしまった夢の彼方で、自分が話しかけていた人物とは、誰なのか。チャイハネの脳裏に、誰かの影が像を結ぼうとしては、霧散してしまう。
チャイハネは、口から紫煙を吐く。心当たりはなかった。
「チャイ。そのタバコ、何本目ですか?」
「一本目だよ」
「“今日の”一本目ですか?」
「“一時間ぶりの”、かな?」
「もうっ、チャイったら。『タバコはやめる』って言ってたじゃないですか」
「タバコってのは、あたしにとっちゃあ信仰の問題なんだよ」
冗談のつもりで言ったチャイハネだったが、シュムはクスリとも笑わなかった。
「少ない楽しみなんだからさ、あたしにとっては」
「ほかに楽しいことを見つけてください。でないと、困ります」
「どうして?」
「長生きしてほしいんです」
手を伸ばすと、チャイハネの膝にあった掛布団を、シュムは自分の手元にたぐり寄せる。
「チャイ、”黒い雨”が上がって、平和になったら、私はシャンタイアクティに行こうと思うんです」
「シャンタイアクティに?」
西の都がウルトラならば、東の都がシャンタイアクティである。ただ、シャンタイアクティの規模は、ウルトラとは比べ物にならないほど大きい。政治・経済・文化――そのどれを取っても、第一級の都市である。
「行ってどうするのさ?」
「都会へ出れば、仕事がたくさんあります」
シュムは右腕を曲げると、ちからこぶを作る。
「私にだってできる仕事が、きっと――」
「ええ? エッヘッヘ!」
「もう、笑わないでください」
「ねえ、シュム。仕事なんてほかの人に任せて、キミはのんびり生きた方がいいと思うよ」
吸っていたタバコを、チャイハネは灰皿でつぶす。
「だいたいキミさ、“幼稚園”のバイトだってクビになったじゃん」
「そ、それは……」
「普通やんないよ? 子供にフロント・スープレックス仕込もうとするなんてさ」
「にゃーん……」
チャイハネの言葉に、シュムが小さくなる。
「その前だってさ、お手伝いに行った先の人ん家の軒先で、懸垂して梁をぶっ壊しちゃったじゃないか。向いてないんだよ、シュム、『報酬もらって何かをする』ってのが」
「ううっ、チャイ。それでも私、今日はちゃんと、お皿洗いの手伝いができたんです」
「ホントに?」
「はい。今日は、お皿を一枚も割りませんでした!」
「普通は一枚も割らないもんよ」
とまで言ってしまうと、さすがにシュムがかわいそうだということくらい、チャイハネも分かっていた。だから、それを言う代わりに、
「へえ、そりゃ、良かったじゃん」
と、チャイハネは言う。
「えへへ、チャイ。私だって頑張れば、仕事のお手伝いくらいできるんです」
「そうね、シャンタイアクティになら、キミにもできそうな仕事があるかもね」
「あ、私が行くときは、チャイも一緒です」
「あたしはいいよ。ウルトラで満足だよ」
「ダメです。私と一緒じゃイヤなんですか」
「んなワケないけど……」
「なら決まりです」
丸めた掛布団を両腕で抱きしめ、シュムは隣に寝転がる。
「シャンタイアクティのどこかで、仕事を見つけて、二人で暮らして……」
シュムが、自分に背中を向けているのを確かめると、チャイハネはタバコをもう一本取り出し、今度は指先に込めた魔力を使って、火を灯す。
「チャイだって、毎日働き続けるわけにはいかないですし。二人で働いて、お金が貯まったら、私、資格を取るために勉強したいと思ってるんです。どんな資格があるか、分かってないですけど……」
「勉強ね」
ずっと黙っているわけにはいかない、と、ただそれだけの理由で、チャイハネは生返事をした。
「そうです、チャイ!」
だが、そんなチャイハネの意図に、シュムは気付かなかったようだった。シュムの言葉に、力が籠もる。
「私、チャイとやりたいことが、たくさんあるんです! 旅行に行ったり、料理を作ったり、映画を観に行ったり。“黒い雨”のせいで、今はダメですけれど、それでもいつかは――」
〈――おうい、シュム!〉
そのとき、ジュネの大声が、一階から響いてきた。
〈何やってんだよ! 眠っちまったのか! 洗う皿残ってんぞ?!〉
「今行きます!」
掛布団を隅に置くと、シュムはベッドから身を起こした。
「“お手伝い”に行ってきますね。あと、今日のタバコはそれで終わりです!」
「わかった、分かったよ」
扉が閉まる音を耳にすると、チャイハネは吸っていたタバコを灰皿に投げ出し、息を吐いた。
”それでもいつかは”。シュムの言葉を、チャイハネは反芻する。“黒い雨”が終われば、生き残った人々はやがて、日常へ戻るだろう。チャイハネもシュムも、それは同じである。
日常へ戻ったとき、自分たちはどうなるか。シュムはずっと、未来を見ていた。それも、自分と一緒に暮らす未来を。そんな未来を語るシュムは、生き生きとしていた。
立場が逆だったとしたら、自分はあんなにも生き生きと、未来を語ることができるだろうか。チャイハネの頭の中に、疑問が浮かぶ。疑問は渦を巻き、チャイハネの心に散らばっていた不安を吸い取り、膨張する。それはぼんやりとした不安であり、不定形だったが、暗くて、冷たい疑問だった。
「未来……」
灰皿に乗せたタバコを、チャイハネは再度咥える。チャイハネは、なぜかタバコを旨いと感じなかった。