138_最初の雨(Первый дождь)
――爾は世の都てを我らに告げ知らせたるなり。而るになお報せ給え、世の罪とは何ぞやと(あなたはすべてのことを私たちに告げてくださいました。その上でどうぞ教えてください、世の罪とは何でしょうか)。【『マリヤによる福音書』、第7頁】
座り込んでいたクニカの隣から、か細い鳴き声が聞こえてくる。かつてエリッサだった生き物が、頭をもたげようとしながら、両足をばたつかせていた。
四肢を痙攣させるようにして、生き物はクニカまで近づこうとしている。まぶたのない瞳は、地面にこすりつけられたせいで、砂にまみれ、血走っている。飛び出した喉仏が、のどの柔らかい皮膚を割いてしまい、血が滴っていた。
叫び声を上げようと、頭部についた嘴を開くたびに、生き物の小さな脳が、唾液にまみれながら、外へ露出する。その生々しい様子に、クニカは釘付けになる。この世ならざる生き物は、あまりにも不気味で、あまりにも滑稽だった。今すぐ逃げ出したいという感情と、このあと、この生き物はどうなるのだろうという危険な好奇心を前に、クニカの心は引き裂かれていた。
そのとき、クニカの目の前で、生き物の脳が弾けた。飛び散った脳と唾液の一部が、クニカの二の腕と、シャツにこびりつく。
静寂に包まれたシャンタイアクティの大通りに、発砲音が、続けざまに鳴り響く。生き物の首が、胴体から千切れ飛ぶ。胴体は、しばらく四肢をばたつかせていたが、やがて動かなくなった。その様子は、頭がもげても、なお動こうともがく昆虫を、クニカに連想させた。
地面に転がった生き物の頭部に、銃の持ち主は――リンは、なおも引き金を引き続ける。脳も、嘴も、眼球も、銃弾を浴びて混然一体となる。
弾は撃ち尽くされた。紫煙は晴れた。かつてエリッサだった生き物、クニカが新たに、生を与えてしまった生き物は、土ぼこりと、自らの血にまみれ、再びその死を死んだ。
「あ……」
取り返しのつかない過ちを犯してしまった。――避けることのできない直観を前にして、クニカは心臓に痛みを覚えた。自分の存在が、自分の生命が、世界から閉ざされ、空虚に取り残されていくように、クニカには感じられた。
銃を投げ捨てると、リンが近づいてくる。
「ごめんなさい――」
唇を固く引き結んだまま、リンは拳を握りしめる。殴られた弾みで、クニカは地面に転がる。リンは馬乗りになり、クニカを殴り続ける。二発、三発、四発――。
腕で顔をかばいながら、クニカはただ、ごめんなさい、ごめんなさい、と泣いていた。誰のために泣き、誰のために謝っているのか、クニカは分からなかった。ただ、痛くはなかった。この世界ではない、どこか遠くの世界へいってしまいたい、このまま殴られ続け、死んでしまいたいとさえ、クニカは思った。死ぬよりも恐ろしいことが、この世界には確かにあるのだと、クニカは知った。
「ごめんなさい……」
鼻血が口に入り、クニカはむせ返る。殴るのを止め、リンが拳を解く。リンの手は、紫色に腫れていた。
リンの手を、クニカはじっと見つめる。ナイフを掴み合ったせいで、リンの手はズタボロになっている。唇が切れ、クニカの口の中に、鉄の味が広がった。
それからリンは、クニカをそっと抱きしめる。リンは何も言わなかった。リンの身体から伝わるぬくもりと、心臓の鼓動――。
「リン」
クニカは泣いていた。
クニカの額に、肩に、肘に、水滴が落ちてくる。水滴はたちどころに、街全体に降り注ぎ始める。
市街を覆っていた硝煙が空へと立ちのぼり、それが雲を形成して、陽射しを覆い、雨を降らせていた。“黒い雨”の呪縛のない、最初の雨だった。