137_世界(ми́р)
そのときだった。片一方のニフリートが、苦痛に顔をゆがめる。“影踏み”から脱却したリンが、持っていたナイフで、ニフリートに斬りかかったのだ。
「諦めんな!」
リンとニフリートが、地面に転がる。鞘を背負っているために、ニフリートは長剣を抜くことができない。
「諦めるんじゃない……!」
ナイフを突き立てようとするリンに、そのナイフを喉元から逸らそうとするニフリート。いつしか二人は、ナイフの刃が手に当たるのも構わず、お互いにナイフを押し合い始める。両手を血まみれにしながら、ニフリートとリンは戦う。
「もう十分だ」
もう一方のニフリートが、懐から銃を取り出す。
「諦めるべきほどのものは、初めから存在しない――」
リンに照準を合わせ、ニフリートが撃鉄を起こす。その瞬間、横たわっていたはずのペルガーリアが、猛然とニフリートに迫った。
銃を構えていたために、ニフリートの腕は伸びきっている。その腕を掴んで、ペルガーリアはたぐる。銃声。弾丸は、立ち上がろうともがいていた、もう一方のニフリートの眉間に命中する。がくりとうなだれると、ニフリートは膝からくずれ落ち、リンに覆いかぶさった。
残りのニフリートは、あと一人。硝煙を吐きながら、銃は石畳を転がっていく。鞘鳴りに続いて、湿った音が響いた。ペルガーリアの身体と、ニフリートの身体、それぞれの身体を、それぞれの長剣が刺し貫いている。
「ペルガーリア」
ニフリートの口から、血の泡がこぼれる。
「死んでいなかったのか……!」
「ニフリート、オレは幸せだ。なぜか分かるか?」
ペルガーリアは真っ青だったが、それでも不敵にほほ笑んでみせた。
「オレは、オレの憎しみゆえに、お前を殺すことができるからだ……!」
「やってみろ……!」
剣を構える手を、ニフリートはよじる。ペルガーリアの身体が持ち上がり、つま先立ちになる。ペルガーリアの腹部は縦に裂ける。蛇口の水がこぼれるような勢いで、おびただしい量の血が地面に溜まっていく。
「キミの最大のパワーを……ボクに試してみろ……!」
「オレじゃない」
ペルガーリアは言った。へたり込んでいたクニカの耳にも、その言葉は、異様な響きを帯びて飛び込んできた。
それは、ニフリートも同じようだった。目を細めていたはずのニフリートの、その表情がさっと変わった。ペルガーリアの真意を理解したようだった。
「分かるだろ? オレたちは、もうお呼びじゃないんだ」
長剣から手を離すと、ニフリートの背中に腕を回しながら、ペルガーリアは左足を、相手の右足の内股に掛ける。ペルガーリアの傷口は広がるが、ニフリートは、ペルガーリアから離れられない。重心を維持するだけで、精一杯のようだった。
――見えている。
思念が、声となって耳に響く。クニカの知る声だった。
――ボクには、見えている……!
ニフシェ――ニフリートの、腹違いの妹の声だった。
「今だ!」
ペルガーリアが叫ぶ。
次の瞬間――何が起きたか? まばゆい光が、一条の光が、空を突き抜けていく。クニカの全身が総毛立ち、地面が波打つ。ひとつの天体のような質量をもった魔力が、シャンタイアクティ市街を覆いつくす。共感覚が刺激され、静脈血のような、くすんだ赤色を帯びた幾何学模様が、クニカの頭の中に点滅する。
魔力の重心には、ニフリートとペルガーリアがいる。一方は暗い光、もう一方は輝く闇。白と黒、真実と偽り、愛とその反対。両極端に座標を占める、二人の“巨人”の引力を前にして、世界は、宇宙は引き裂かれ続けていた。――それが今、裂け目の中心に結ばれた新しい焦点の下において“楽園の鐘”の音色とともに、調和へと導かれていく。
“楽園の鐘”の音色が、星誕殿からもたらされる。それは人倫の天蓋を突破し、耳で聞く音ではなく、もはや音でさえなく、直観であり、直観を支える理知そのものだった。片鱗からこぼれる魔力の大きさに、音は七色の光を放っていた。
光の奔流が、ニフリートに、ペルガーリアに、殺到する。光を浴びたクニカは、叫びの衝動を前にして、声を限りに叫んでいた。この声こそが“楽園の鐘”であり――しかし同時に、その声の源は“楽園の鐘”からやって来た。自分の発した叫び声が、自分自身へと吸い込まれていく。クニカの目の前で、ニフリートの身体が、ガラスの破片のようにこなごなになる。
魔力に触発され、周囲の輪郭が、重力が、時間が、実存が、その本質を喪失する。
◇◇◇
クニカは目を開ける。頬と腹部に、石畳の冷たい感触があった。身を起こしたクニカは、西日がシャンタイアクティ市街を照らしているのを見た。北部の町並みは、相変わらず煙に呑まれている。
星誕殿から、大通りを抜け、市街の北部まで、一筋の荒地ができていた。“楽園の鐘”の音色が、通り抜けた道筋だった。
「勝ったか?」
隣で声がする。ペルガーリアが立っていた。ペルガーリアの身体の中心には、穴が開いていて、西日が漏れていた。
うん、と、クニカはうなずく。
「ハハ、そうか」
ペルガーリアは言った。
「最低だ」
そのまま、ペルガーリアは地面に倒れる。彼女が目を覚ますことは、二度となかった。