136_僕だけの王国(Мое собственное королевство)
「どうした、笑えよ?」
クニカを見下ろしながら、ニフリートが立っていた。エリッサの死体の脇に、ニフリートは何かを投げ捨てる。ペルガーリアが、緑の黒髪を振り乱して、ニフリートの足元に転がる。
「ペルジェ……?」
クニカが呼びかけるも、ペルガーリアから返事はなかった。それどころか、息をしているそぶりさえない。身じろぎひとつせず、ペルガーリアは、クニカに背を向けたままだった。
「離せ……!」
クニカの視界の端で、何かが動く。振り向いてみれば、ニフリートに胸倉を掴まれ、リンが街灯に押し付けられている。
リンを取り押さえる者と、クニカを見下ろす者――ニフリートは二人いた。
「キラーイの火山に落ちて、オリジナルのボクは焼け死んでいる」
クニカの正面に立つニフリートが、そう言った。
「そのときにはもう、ボクは帝国の技術で複製されていた。クローンという技術だ。チカラアリで会ったろう? あれはα、正真正銘、オリジナルの複製だ」
「そして、ボクは繰り返される。なお『良く生きる』ことを宿命づけられて」
リンの“影”を踏みながら、もう一方のニフリートが、クニカに近づいてくる。
「ボクたちはβ。オリジナルの改良版だ。使徒騎士たちではもう、ボクを止められない。ペルガーリアでさえも」
地面に倒れ、土ぼこりにまみれているペルガーリアを、ニフリート“たち”は見下ろす。
「絶望したかい?」
制御を喪失した戦闘機が一機、クニカたちの頭上すれすれを通り抜ける。元老院議事堂の正面に突っ込むと、戦闘機は燃え上がった。炎に遅れ、雷が空を撃つような音が、周囲に響く。あとはただ、静寂だけが残された。
「わ、わたしを……」
エリッサは死んでしまった。
ペルガーリアは動かない。
リンは磔にされている。
ニフリートは二人いる。
「わたしを……どうするつもり……?」
「どうもしない」
風が吹いて、煤が周辺を舞う。
「目的は、もう果たされていた。この戦いが始まる前から」
「“霊長”が、間もなく復活を遂げる」
ニフリートたちが言う。“霊長”と“竜”。この世界の創世神話が、クニカの脳裡をよぎる。
「“霊長”を前に、世界は生まれ変わる。皇帝は、その鍵を手にした。邪魔が入るとすれば、星誕殿と、“竜”の魔法使いだけ。時間稼ぎなんだ、クニカ。何もかもが」
「ちがう」
「暇つぶしにすぎない――」
「ちがう……」
崩壊した街、死んでいった人びと。喪われていったものを前にして、クニカにできることといえば、喪われたものは無価値でないと言明することだけだった。
ただ、時間稼ぎが“ちがった”として? 暇つぶしが“ちがった”として? すべてを否定し去ったあとに、何が残るというのだろう。残されたのが“正解”だったとして、それには、どれほどまでの価値があるのだろう。
「ちがうよ……」
クニカは泣いていた。
「なら、証明するといい。『ヨナの徴のほかには、徴は与えられない』。福音が誤りであることを、キミ自身が明かせばいい」
『マタイによる福音書』、第十六章第四節。
「αも言ったろう? キミをコピーできれば、どんなにか面白いだろう、って。皇帝が望むところのものに、ボクは興味がない――」
クニカの手首を、ニフリートが掴む。指先は氷のように冷たい。骨の山、首を吊った若者たちの列、死に至る病、水の中でもがく女性、心臓に穴の空いた嬰児、老人、炎に包まれる僧侶、青白い光、鉛の味――。夢の中で、初めて出会ったときにのぞき込んだニフリートの心の内側が、クニカの脳裡に繰り返される。
「面白いだろう? キミをコピーすれば、ボクの思念は、竜の魔性によって実体を帯びる」
白く、細い歯を見せながら、ニフリートは笑った。
「そのときには、皇帝といえど、ボクには勝てないだろう。世界のすべてが滅び去り、ボクだけが世界に取り残される。ボクだけの国だ。そのときはじめて……ボクは笑うことができるのだ!」
最後のニフリートの言葉は、ほとんど叫び声に近かった。アア、ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――?! ニフリートの隣では、ニフリートが、甲高い笑い声を上げている。
知らず知らずのうちに、クニカは、ニフリートの瞳の奥を凝視していた。すべての執念を注ぎこみ、すべての力を手に入れたとして、ニフリートは最後に、世界が滅び去るのを望んでいる。それさえも、破滅の欲求ではない。空虚がそこにあるだけだった。
「それでもだ、それでもボクを望まないというのなら――救世主よ、みずからの手で、自分を救ってみろ」
クニカから手を離すと、ニフリートは一点を指さす。エリッサの死体が、そこには転がっている。
ニフリートを斃さなければならない。そのためには、楽園函数を復活させなければならない。そのためには、エリッサを生き返らせなければならない。――クニカはただ、そのことだけを考える。
エリッサの胸もとに、クニカは手を当てる。ダメだ、という声が、クニカの耳に届く。リンの声だった。その声を聞いて、しかしクニカは迷わなかった。もうほかに道はない。クニカはそう思っていた。
クニカの手の下で、エリッサの心臓が再び動き始める。穏やかな光の下で、エリッサの身体に命が吹きこまれる。なぎ払われた頭部の辺りから、骨が、肉が、血が生み出されていく。それはエリッサのものであり、しかしエリッサのものではなかった。
クニカの目の前で、エリッサの身体そのものが、新たな生命として再構築されていく。生み出された嘴から、エリッサが鳴き声を上げる。ひっくり返った腕と脚を使って、その生き物は四足で立ち上がろうとする。身体はもろく、関節のあちこちから、血が垂れていた。瞳はあったが、まぶたはない。虚空を見つめながら、生き物はまた鳴く。嘴の奥から、脳が露出する。羊の鳴き声だった。鳴いた弾みで腱が切れ、生き物の頭が地面を這う。
エリッサの身体に吹き込まれた命は、エリッサのものではなかった。意思を持たず、虚空に鳴く不完全な生命を、クニカはただ見つめるだけだった。
「ウ、フ、フ、フ、フ――」
ニフリートが笑い出す。初めからニフリートは、こうなると分かっていたようだった。
「アア、ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――?!」
二人のニフリートが、一斉に笑い声を上げる。頭を地面にこすりながら、生き物も鳴き声を上げる。取り返しのつかないことをしまった。生命をもてあそんでしまった。最後に耳に届いたのは、クニカ自身の悲鳴だった。