133_愛が大きすぎて(Потому что Любовь слишком велика)
「チャイ……?」
正面に立つ人物の名を、シュムは呼ぶ。後ろで無造作に束ねられた、色素の薄い金髪、古ぼけた眼鏡に、ベージュのトレーナー。目の前の人物の、ありとあらゆる特徴が、彼女がチャイハネであることを告げ知らせていた。それらを知覚しつつも、シュムはなお、チャイハネがいることが信じられなかった。
「どうして?」
「大変だったんだよ? 気付かれないように、キミたちの後を追うのは」
シュムの方まで近づきながらも、チャイハネの視線は、がれき間に横たわるフランチェスカに注がれていた。
「フランが――」
「待った。分かってるけど」
シュムの言葉を遮ると、チャイハネは、シュムの正面にしゃがみ込む。膝立ちになっていたシュムの手を、チャイハネはうやうやしく取った。
「今だけは、順序がある」
「いったい――」
「キミを愛しに来た」
シュムの手の甲にキスをすると、チャイハネは頭を下げ、みずからの額を、シュムの手に当てがう。言葉にも、行動にも、チャイハネは迷いがなかった。家族の苦い記憶も、置き去りにされた悲しみも、海の潮が退くようにして、シュムの心から消え去っていく。あとにはただ、愛されているのだという、小さな実感だけが残った。
「お勉強を教えてあげたろう、シュム? だからさ、代わりにね、生き方を教えてほしい」
「ばか……」
シュムは顔をそむける。泣き顔を見られるのは嫌だった。
「チャイは、ばかです……!」
「あっ!」
そのとき、建物の入り口から声がした。シュムはとっさに、チャイハネの後ろに隠れる。オリガがそこにいた。
「どうしてここに……?!」
オリガの視線は、チャイハネに注がれている。
「先に謝っとくよ、オリガ」
「水くさいな、無事で良かった――」
「そういうことじゃないんだ。悪いけどあたしは、星誕殿には入れない」
何かを言う代わりに、オリガはつま先立つと、チャイハネの後ろを見やる。シュムは、オリガと目が合った。
「ハハハ……」
オリガは笑うが、目は笑っていなかった。チャイハネもシュムも、何も言わなかった。
真顔に戻ると、オリガはため息をつく。部屋の奥、崩れた窓枠の側に寄り掛かり、オリガは腕を組む。
「破滅するかもしれない。分かってるよな?」
「分かっていても、愛を止めることはできない」
チャイハネは言った。
「――マ、どんな愛も大きすぎて、人が引き受けるには足りないんだけど」
「ハッ! それいいな」
オリガが吐き捨てる。
「明日使えるように、日記に書いとくよ。で、フランは?」
「あたしが助ける」
「できんのか?」
「誰かを助けたいと思うから、あたしは医者を目指してんだ」
「ハーン?」
オリガは何かを読み取ったようだった。
「お前、ニフシェを殺してないな?」
チャイハネは答えなかった。
そんなチャイハネに胡乱な視線を送りながら、“鯰”の能力で壁を透過すると、オリガは外へ出る。サリシュ=キントゥス帝国の地上軍に応戦し、フランチェスカを救護するための時間を稼ぐつもりなのだろう。
「いいんですか、チャイ?」
「結果オーライだよ」
そう言うと、チャイハネはしゃがみ込む。
「聞こえるかい、フラン?」
フランの肩を、チャイハネはたたく。たたき方は無造作で、しかし迷いがなかった。不安と安堵の感情が、シュムの中でないまぜになる。
「フラン! 会うんだろ、エリーに?」
そのとき、フランチェスカがうめいた。声は寝息のような小ささだったが、シュムは確かにそれを聞いた。
「大丈夫、すぐに良くなる」
一語一語をはっきりと区切りながら、チャイハネはフランチェスカに話しかける。その間にも、チャイハネは全体重を膝に預け、フランチェスカの脚の止血に取り掛かっていた。




