132_罪と罰(Преступление и наказание)
喉に刺さったナイフを、リテーリアは抜き取り、床に投げ捨てる。間欠泉のように噴き出した鮮血が、リンのスニーカーのつま先を浸す。
リンを見て、リテーリアは何かを言おうとする。それで喉が動いて、さらに血がほとばしる。リテーリアの着る橙色の長衣は、血で真っ黒に染まっていた。
とうとう、リテーリアは床に倒れる。陸に打ち上げられた魚のように、全身を痙攣させている彼女を眺めながら、血潮に沈んでいたナイフを、リンは拾い上げようとする。
リンは逡巡していた。リテーリアを苦しみから解き放つためにも、いや、死にゆく彼女を見て、これ以上自分の心が荒まないようにするためにも、とどめを刺すのが人情なのではないか。しかし、自分は殺しのプロではない。とどめを刺し損ねて、さらなる苦しみをリテーリアに与えてしまうかもしれない。むしろこのままが良いのではないか。二つの考えの間を、リンの心は行ったり来たりする。
「苦しい……!」
そのとき、声がした。それはリテーリアのいるところから聞こえてきたが、声はリテーリアのものではなかった。地獄の底から湧き上がるような声に、リンは息を呑んだ。
「あァ、苦しい……苦しい……」
床一面に広がった血が、うねり、奇妙な文様を描き始める。それが魔法陣を象ったものだと気付いたときには、魔法陣の中心で、リテーリアが立ち上がっていた。
リテーリアの生命と肉体を“素材”に、魔法陣が展開する。リンの目の前で、リテーリアは変貌を遂げていく。まるで、地獄に堕ちた人間が、自らの裡に巣食っていた罪に喰らい尽くされ、怪物へ変身するかのようだった。
象のような鼻、犀のような目、牛のような尾、虎のような爪と脚――一匹の獣が、“歳星の間”の中央に位置を占め、リンを見下ろしていた。獏の怪物だった。
「苦しい!」
人語を叫ぶと、怪物は前脚を振り上げる。リンが真後ろに飛びのいたのと、怪物の前脚が、リンのいたところを薙いだのは、ほとんど同時だった。緑色の、大理石でできた床のタイルが、怪物の一撃を前にして、火花のように飛び散る。
一撃の勢いに押されつつも、間近にあった扉から、リンは“歳星の間”を、一目散に飛び出した。
「苦しい!」
怪物が壁を突き破り、リンを追いかけてくる。もはや怪物は、みずからが叫ぶ人語の意味を、解していないようだった。怪物の動きは緩慢だったが、巨体のため、歩幅が広い。リンが回廊を全速力で駆け抜けても、距離はいっこうに開かない。
走るさなかに、リンはふと思う。その昔、自分が怪物になったときには、クニカや仲間たちが助けてくれた。ところが、こうして怪物に追いかけられる側になったときに、リンを助けてくれる人はだれもいない。それは皮肉なことのように思われ、こんな状況にもかかわらず、リンは噴き出しそうになってしまった。
やがてリンは、行き止まりにたどり着く。そこには扉があったが、押しても引いても、びくともしなかった。
「苦しい! 苦しい!」
怪物の叫び声が、リンに迫ってくる。
「クッソ――」
扉を背にすると、回収したナイフを、リンは再び構える。その途端、背後で扉が動いた。扉は向こう側から、鍵がかけられていたようだった。
「あっ?!」
リンは声を上げた。扉の向こうには、ニフシェがいる。
「殺されたんじゃ――」
「伏せて」
言われるがまま、リンは床に伏せる。そのときにはもう、怪物は目と鼻の先まで迫っていた。
苦しい! ――叫び声とともに、怪物が前脚を振り上げる。ニフシェが両腕を、怪物に向かって突き出す。手には音叉が握られていた。音叉は震えていなかったが、とてつもない魔力が籠められていることに、リンは気付いた。
怪物が、これまでにない素早さで直立する。しかしそれは、みずからの意思ではなく、誰かに操られているかのようだった。怪物の胸の辺りに、白いシミができる。シミは怪物の全身に広がり、とうとう怪物は真っ白になった。
怪物は動かない。死んだのだと気付のに、リンは時間がかかった。
「“音の炎”。奥義さ」
ニフシェが言う。手に握られていた音叉が、リンの目の前で消えていく。どうやら音叉は、ニフシェがみずからの心象を、魔力によって具現化したもののようだった。
「超音波が振動して、標的の分子を焼き尽くす。有機物は燃え、無機物は自壊する。ミネラルだけが残る」
立ち上がると、リンは怪物の前脚に触れる。指の腹が触れただけで、前脚は陥没し、塩の欠片が床に落ちた。
リンに触れられたところを中心にして、怪物は崩れ落ちる。塩の山が床に積もる。
「出ておいで」
背後を振り返りながら、ニフシェが言う。このとき初めて、リンは扉の後ろに、誰かが隠れていたことに気付いた。
「エリッサ?!」
リンは叫んだ。エリッサがそこにいる。衣服は赤く染まっていたが、命に別状はないようだった。
「よかった……無事だったんだ……」
「リンさん……!」
駆け寄ってきたエリッサのことを、リンは抱きしめる。ふとリンは、遠い昔に、妹を抱きしめた記憶を思い出す。
「クニカがほっとすると思うよ。ほかのみんなも――」
「そう、そのクニカのことだ」
ニフシェが言う。
「リン、エリーをクニカのところまで連れて行ってほしい」
「ニフシェは?」
「別にやることがある」
目を閉じたまま、ニフシェは答える。リンもようやく、ニフシェが失明していることに気付いた。
「大丈夫か? ひとりで?」
「心配いらない」
ニフシェは笑った。