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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第6章:神の子は都(みな)沓(くつ)を履く(Каждый ребенок Божий носит обувь.)
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132_罪と罰(Преступление и наказание)

 喉に刺さったナイフを、リテーリアは抜き取り、床に投げ捨てる。間欠泉のように噴き出した鮮血が、リンのスニーカーのつま先を浸す。


 リンを見て、リテーリアは何かを言おうとする。それで喉が動いて、さらに血がほとばしる。リテーリアの着る橙色の長衣(アオザイ)は、血で真っ黒に染まっていた。


 とうとう、リテーリアは床に倒れる。陸に打ち上げられた魚のように、全身を痙攣させている彼女を眺めながら、血潮に沈んでいたナイフを、リンは拾い上げようとする。


 リンは逡巡していた。リテーリアを苦しみから解き放つためにも、いや、死にゆく彼女を見て、これ以上自分の心が荒まないようにするためにも、とどめを刺すのが人情なのではないか。しかし、自分は殺しのプロではない。とどめを刺し損ねて、さらなる苦しみをリテーリアに与えてしまうかもしれない。むしろこのままが良いのではないか。二つの考えの間を、リンの心は行ったり来たりする。


「苦しい……!」


 そのとき、声がした。それはリテーリアのいるところから聞こえてきたが、声はリテーリアのものではなかった。地獄(ゲヘナ)の底から湧き上がるような声に、リンは息を呑んだ。


「あァ、苦しい……苦しい……」


 床一面に広がった血が、うねり、奇妙な文様を描き始める。それが魔法陣を(かたど)ったものだと気付いたときには、魔法陣の中心で、リテーリアが立ち上がっていた。


 リテーリアの生命と肉体を“素材”に、魔法陣が展開する。リンの目の前で、リテーリアは変貌を遂げていく。まるで、地獄に堕ちた人間が、自らの裡に巣食っていた罪に喰らい尽くされ、怪物へ変身するかのようだった。


 象のような鼻、(さい)のような目、牛のような尾、虎のような爪と脚――一匹の獣が、“歳星の間”の中央に位置を占め、リンを見下ろしていた。(タピール)の怪物だった。


「苦しい!」


 人語を叫ぶと、怪物は前脚を振り上げる。リンが真後ろに飛びのいたのと、怪物の前脚が、リンのいたところを()いだのは、ほとんど同時だった。緑色の、大理石でできた床のタイルが、怪物の一撃を前にして、火花のように飛び散る。


 一撃の勢いに押されつつも、間近にあった扉から、リンは“歳星の間”を、一目散に飛び出した。


「苦しい!」


 怪物が壁を突き破り、リンを追いかけてくる。もはや怪物は、みずからが叫ぶ人語の意味を、解していないようだった。怪物の動きは緩慢だったが、巨体のため、歩幅が広い。リンが回廊を全速力で駆け抜けても、距離はいっこうに開かない。


 走るさなかに、リンはふと思う。その昔、自分が怪物になったときには、クニカや仲間たちが助けてくれた。ところが、こうして怪物に追いかけられる側になったときに、リンを助けてくれる人はだれもいない。それは皮肉なことのように思われ、こんな状況にもかかわらず、リンは噴き出しそうになってしまった。


 やがてリンは、行き止まりにたどり着く。そこには扉があったが、押しても引いても、びくともしなかった。


「苦しい! 苦しい!」


 怪物の叫び声が、リンに迫ってくる。


「クッソ――」


 扉を背にすると、回収したナイフを、リンは再び構える。その途端、背後で扉が動いた。扉は向こう側から、鍵がかけられていたようだった。


「あっ?!」


 リンは声を上げた。扉の向こうには、ニフシェがいる。


「殺されたんじゃ――」

「伏せて」


 言われるがまま、リンは床に伏せる。そのときにはもう、怪物は目と鼻の先まで迫っていた。


 苦しい! ――叫び声とともに、怪物が前脚を振り上げる。ニフシェが両腕を、怪物に向かって突き出す。手には音叉が握られていた。音叉は震えていなかったが、とてつもない魔力が籠められていることに、リンは気付いた。


 怪物が、これまでにない素早さで直立する。しかしそれは、みずからの意思ではなく、誰かに操られているかのようだった。怪物の胸の辺りに、白いシミができる。シミは怪物の全身に広がり、とうとう怪物は真っ白になった。


 怪物は動かない。死んだのだと気付のに、リンは時間がかかった。


「“音の炎”。奥義(ウパニシャッド)さ」


 ニフシェが言う。手に握られていた音叉が、リンの目の前で消えていく。どうやら音叉は、ニフシェがみずからの心象を、魔力によって具現化したもののようだった。


「超音波が振動して、標的の分子を焼き尽くす。有機物は燃え、無機物は自壊する。ミネラルだけが残る」


 立ち上がると、リンは怪物の前脚に触れる。指の腹が触れただけで、前脚は陥没し、塩の欠片が床に落ちた。


 リンに触れられたところを中心にして、怪物は崩れ落ちる。塩の山が床に積もる。


「出ておいで」


 背後を振り返りながら、ニフシェが言う。このとき初めて、リンは扉の後ろに、誰かが隠れていたことに気付いた。


「エリッサ?!」


 リンは叫んだ。エリッサがそこにいる。衣服は赤く染まっていたが、命に別状はないようだった。


「よかった……無事だったんだ……」

「リンさん……!」


 駆け寄ってきたエリッサのことを、リンは抱きしめる。ふとリンは、遠い昔に、妹を抱きしめた記憶を思い出す。


「クニカがほっとすると思うよ。ほかのみんなも――」

「そう、そのクニカのことだ」


 ニフシェが言う。


「リン、エリーをクニカのところまで連れて行ってほしい」

「ニフシェは?」

「別にやることがある」


 目を閉じたまま、ニフシェは答える。リンもようやく、ニフシェが失明していることに気付いた。


「大丈夫か? ひとりで?」

「心配いらない」


 ニフシェは笑った。

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