127_悪人(Блудный сын)
「ウオーッ!」
艦橋(艦の司令室のこと)の小窓から外を眺め、カイが声を上げる。
白鯨――プヴァエティカが氷上にあらわれ、艦隊の関心がそちらへ向いた。その隙に、ミーシャとカイは、標的としていた巡洋艦に飛び乗った。
魔力で操った海流を、二人は艦内に殺到させる。搭乗員たちは海水にもみくちゃにされ、ほとんどが外へと押し流されてしまった。わずかに残った搭乗員たちも、大量の海水を呑み、気を喪っている。
「キャーッ!」
気絶している兵士のひとりに、ミーシャは近づく。兵士の胸元にぶら下がる徽章から、ミーシャはその人物が、戦艦の操縦者であると知る。
徽章に触れ、自分の額と相手の額を合わせると“空白”のテレパシーをミーシャは送る。自然は空白を埋め尽くさずにはいられない。記憶もまた然り。テレパシーは兵士の記憶を吸着し、発信者であるミーシャの脳内に、それらを流入させる。ほんのわずかな時間で、巡洋艦の操縦方法をミーシャはマスターする。
「みゅーん……」
喃語を口にしながら、配置されているレバーのひとつを、ミーシャは傾ける。艦尾から、低くうなる音が聞こえ、艦橋が小刻みに震える。
「キャー!」
レバーの隣に配置されているボタンを、ミーシャは押す。振動とともに、艦尾に備えられていた砲台から、一発の砲弾が発射される。
「ウオーッ!」
ミーシャの声と、砲声に呼応して、カイが再び声を上げる。
「ニンゲンを捕る漁師!」
「キャー!」
ミーシャの黄色い声。
巡洋艦の砲撃は、星誕殿にまっすぐ飛び、その断崖の一部を、きれいに撃ち砕いた。
◇◇◇
「やってくれた……!」
土煙を吸わないように、口元を袖で隠しながら――ニフシェは言った。
――あたしはさ、誰かを生かすために医者になろうと思ったんだ。
昨日のチャイハネとの会話を、ニフシェは思い出す。オリガから、自分の処刑を任されていたはずのチャイハネは、とうとうニフシェを殺さなかった。
――どこへ行く?
――自分の本心に嘘はつけない。そのときが来たらさ、ここを脱出するんだ。それで、クニカに合流してほしい。
――ずいぶんと簡単に言ってくれるな。
――何とかするよ。
軽口を叩くニフシェに対し、チャイハネは笑うだけだった。
――工夫してみる。
そして今、砲撃が舞い込み、ニフシェを閉じ込めていた鉄格子が、木っ端微塵になった。まるで、ニフシェがどこにいて、どの辺りを狙えば、ニフシェを傷つけることなく、鉄格子だけを粉砕できるのか、全て分かっているかのような狙い方だった。
硝煙の合間から、ニフシェはミーシャの霊気を嗅ぐ。地下牢を抜け出てすぐ、チャイハネはミーシャに事情を伝えたのだろう。作戦遂行の傍らで、ニフシェを助けるための機会を、ミーシャは見計らっていたのだ。
土煙の中から立ち上がると、現状とその解決策を、ニフシェは頭の中に並べてみる。状況が最悪なことに変わりはない。ニフシェは魔法を封印されており、おまけに丸腰である。星誕殿はリテーリアに掌握され、エリッサは斃されてしまった。何より、ニフシェは失明している。立ち上がったは良いものの、つまずかずに歩くことさえ、今のニフシェにはままならない。
活路があるとすれば、「自分が生きていることを、リテーリアが知らないだろう」ということだった。使徒騎士ほどの実力者になれば、魔法使いが持つかすかな霊気にも敏感になる。しかし、ニフシェの魔力は封印されているので、リテーリアは却って、ニフシェのことを感知していない可能性が高い。
となれば、ニフシェが採り得る可能性はひとつだけ――みずからの封印を解除し、すかさずリテーリアと対峙する――だった。
壁伝いに、ニフシェは歩を進めようとする。そのとき、海から吹き寄せる風の音とともに、何者がこちらへ近づいてくることに、ニフシェは気付いた。
「誰だ」
相手からの返事はない。なおも尋ねようとした矢先、ニフシェの鼻孔を、血のにおいがくすぐった。風の音にまぎれ、相手の浅い息が聞こえてくる――。
「エリッサ……?」
「ニフシェさん……」
相手はエリッサだった。地面に膝をつく音が、ニフシェの近くで聞こえてくる。
「良かった……」
「どうしてここが?」
音のする方向に歩み寄ると、ニフシェはしゃがみ、エリッサに手を伸ばす。ニフシェの指が、エリッサの肩に触れた。
エリッサの腹部にまで、ニフシェは指をそっと下ろす。ニフシェの指先が、冷たくて固いものに触れ、そこからの霊気が、ニフシェにリテーリアの存在を告げ知らせた。リテーリアの長剣だった。
「砲撃がして……目が覚めて……」
エリッサの全身は、血糊で湿っていた。
「もしかしたら……ニフシェさんが……生きてるかもって……」
「喋らないで、エリー。傷にさわる」
上着を脱ぎ捨て、ニフシェは上半身をはだける。
「じっとして」
「ニフシェさん……?」
エリッサの前で、寝そべるような体勢になると、ニフシェはみずからの背中に、エリッサの身体に刺さったままの、長剣の尖端を這わせようとする。
「やだ……」
ニフシェの意図を察したらしく、エリッサが泣きべそをかく。
「死んじゃう……」
「キミに言われちゃおしまいだ……!」
長剣の先端を、ニフシェは自分の背中にあてがう。ニフシェの背中の肉が切り取られ、背中全体が、湯がかかられたよう温かくなる。それが湯でないのは、激痛と、血なまぐささが証明している。
痛みとは別に、耳を覆っていた見えない膜が、完全に取り払われたかのようになる。魔法陣は肉ごと切り取られ、ニフシェは魔力を完全に取り戻す。
「エリー、ありがとう……!」
自分の皮膚の一部を地面に投げ捨てると、ニフシェは上着を着て、立ち上がる。目は見えなかったが、魔力を取り戻した以上、怖れるものは何もなかった。麒麟の魔法使いは、音を操ることができる。ニフシェはみずからの才能のために、音の逆、超音波をも操ることができる。足音や、相手の息づかい、風のうねりから、建物の構造を看取することなど、ニフシェには造作もないことだった。
「じっとしていて、エリー」
そう声をかけると、エリッサの身体に刺さる長剣に、ニフシェは手を掛ける。
「い、いや……!」
エリッサが声を上ずらせる。今の状態で、長剣を引き抜かれたらどうなるか。エリッサにもそれが分かるようだった。
しかしニフシェはお構いなしに、エリッサから長剣を抜き放つ。と同時に、ニフシェはエリッサの傷口に向かって、みずからの手を開いた。
「あ……?!」
エリッサは息を呑む声が、ニフシェの耳にも聞こえてくる。その声で、ニフシェは自分の企みが成功したことを理解した。
ニフシェが放ったのは、”救済の光”。――今の世代では、”竜”の魔法属性である、クニカだけが使えるはずの奥義だった。
「完全に失われていなければ、治せるみたいだ」
光が収まったのを感じ取ると、ニフシェはエリッサの腹部に触れる。傷口は跡形もなくなり、血も乾ききっている。
「だから、自分の目はもうダメ。そもそも自分自身は、救済の対象にはなり得ない。そんな感じか」
「ど、どうして……?」
エリッサが声を震わせる。エリッサの声は、相変わらずか細い。しかし、声の芯から死の恐怖が取り除かれたことを、ニフシェは聞き取った
なぜ、ニフシェはいきなり”救済の光”を使うことができたのか?
「説明する時間が惜しい」
みずからの背中に、ニフシェは手をあてがう。”救済の光”を自分自身に使うことはできなくとも、一般的な沈痛・止血のための療術魔法は、使うことができる。
「隠れていて、エリッサ。けりをつけてくる」
あっけにとられた様子のエリッサの視線を背後に感じながら、ニフシェは階段を駆け上がり、星誕殿に復帰する。




