125_鉄の雨(железный дождь)
――その時、新しいアイオーンが始まるであろう。そして彼らは動揺するであろう。彼らの王たちは炎の剣に酩酊するであろう。彼らは互いの間で戦争を引き起こすであろう。その結果、地は流される血によって酔いしれるであろう。【『この世の起源について』、第143節(*1)】
「行くぞ」
シノンのかけ声とともに、白鷹隊は水煙を突き抜け、空へ復帰する。制空権を取り戻すには、ニフリートが無力化されている今しかない。わずかの間に、一機でも多くの戦闘機・爆撃機を仕留める必要があった。
隊列には、もうアニカはいない。”鵟”の機動力の高さが裏目に出た。
〈もう泣くなよ――〉
側を飛ぶレイラに、シノンは念話で声をかける。
〈後輩を泣かせたら、アニーに笑われる。だから泣くんじゃない〉
〈分かってます……!〉
〈相変わらずだな〉
マルタが舌打ちする。視線の先では、帝国の戦闘機・爆撃機が、カラスの群れのように、渦を巻いて飛んでいた。
〈レイラ、さっき言ってたよな、搭乗者が泣いていた、って〉
シノンは尋ねる。その間にも、三人は散開して、相手の空軍に対峙する。
〈はい――!〉
〈操られている、ってとこか〉
マルタが言う。
〈だけど、何のために?〉
〈来るぞ――!〉
渦から分かれた戦闘機が、三機ずつ、二つの隊伍を形成して、白鷹隊に向かってくる。
みずからの翼に魔力を込めると、シノンはそれを、拳のように前に突き出した。魔力に覆われ、鋼の硬度を誇る翼は、左翼の三機を打ち砕く。
〈そっちへ行ったぞ!〉
〈はい!〉
右翼を構成していた三機は、レイラの方へ向かう。”孔雀”の翼を大きく広げ、レイラは衝撃波を生みだそうとする。
その瞬間、三機は進路を変えた。
「あっ?!」
念話を忘れ、シノンは声を上げる。レイラの手前で、三機はいきなり、高度を下げ始める。操縦による急降下でも、自由落下でもなかった。ほとんど垂直に軌道を変えていた。まるで、飛んでいる途中で透明の巨人に掴まれ、そのまま地面に投げつけられているかのようだった。
戸惑うレイラの足下で、三機の戦闘機は、まっすぐに市街に落下する。大通りを進軍する戦車の群れが、シノンの位置からも見える。三機は、大通りの側にあった商工会議所に突っ込み、周囲を火の海に変える。墜落の巻き添えを受け、戦車の数台が炎に巻かれていた。
ほんのわずかの間に、地上にあった建物が、全て根こそぎにされた。燃えさかる瓦礫が、戦車の残骸と混合しながら、溶岩のようになって、川へと注ぎ込む。
〈そんな……〉
レイラの念話が、シノンの脳裏に響く。レイラの脳裏に浮かぶイメージを、シノンは直感する。逃げ場のない空の上、見えない力による操り、コックピットから逃れようとする搭乗員たち、それを許さないニフリートの笑い声。
〈レイラ、考えるな!〉
急降下による重力、鼻や耳からの出血、失明、母の名を呼ぶ搭乗員たちの悲鳴、身も、心も焼き尽くしてしまう業火――。
〈考えるのをやめろ――!〉
〈これが答えか……〉
信じられないとばかりに、マルタが呟いた。
〈味方も容赦なしか。この街をめちゃくちゃにできれば、何でもいい――〉
渦の動きが変わった。渦の外側を形成していた戦闘機や、爆撃機たちが、一機、また一機と、遠心力に従うようにして落下していく。市街を焼くものもあれば、海に落下するものもあった。
〈地上のみんなが危ない……!〉
シノンは言った。
〈空で破壊するんだ、一機でも多く!〉
渦の周縁に向かって、白鷹隊の三人は、それぞれ軌道を変える。
◇◇◇
「フラン!」
シュムが叫んだ矢先、戦闘機が一機、一本向こう側の通りに墜ちた。きのこ雲が吹きあがり、強風に足を取られそうになる。
手近あった街灯を、シュムは反射的に掴んだ。熱風が遅れて押し寄せる。熱さのあまり、街灯の鉄骨に、手が焼き付いてしまうのではないかとシュムは思った。
戦闘機や爆撃機は、絶え間なく地上に降り注いでくる。シュムもフランチェスカも、作戦を遂行するどころではなくなっていた。自分の命を守るのに必死だった。遠くに映る鉄塔に、爆撃機が衝突する瞬間を、シュムは目撃する。衝突と同時に鉄塔はしおれ、炎の中に埋没する。黒い煙が水煙を圧倒し、戦車の群れにも殺到する。
「どうして……」
戦闘機の特攻に、地上の軍隊が巻き込まれている。命を顧みない相手の攻撃が、シュムには理解できなかった。
「立てますか、フラン?」
シュムの問いに、フランチェスカは小さくうなずいた。「エリッサはどうなるの?」――あの言葉以来、フランチェスカは押し黙ったままだった。
いったん退きましょう――シュムがそう提案しようとした、そのとき。重い質量をまとった何かが、空気をかき分けながら、シュムのところまで近づいてくる。それはシュムたちの頭上を飛び越え、地面にさく裂し、閃光と爆風を巻き上げる。砲撃を受けたのだと、シュムもフランチェスカも同時に悟る。
「今のは――」
「海から――」
声を上げると、フランチェスカはいきなり、東へと駆け出した。
「フラン?!」
疲れていたが、シュムも身体を前に突き出し、のめるようにしてその後を追う。
シュムたちは今、シャンタイアクティの北西部にいる。この辺りは住宅街で、海抜が高く、西から東へと、なだらかな勾配になっていた。
シュムの耳に、砲声が響いた。坂の向こう、海からのものだった。風を切る汽笛のような音とともに、坂を下りきった先にある建物が、シュムの視界の中で弾けた。爆風のあおりを受けて、周囲の建物も炎に包まれる。
シュムは戦慄する。戦闘機の墜落だけでなく、海からの砲撃が、地上に押し寄せている。
「フラン!」
フランチェスカの姿が、砲煙の向こう側に消えてしまっていた。シュムは焦った。疲れていたことなどすっかり忘れ、砲煙の中を駆け進んだとき、シュムはふたたび、前を走るフランチェスカの姿を見た。
「待ってください!」
シュムは再び叫んだが、フランチェスカは振り返らなかった。フランチェスカが駆け抜けていく家並の瓦が、炎の熱に耐えかねて、地面に滑り落ち、砕ける。
「フラン……!」
シュムが三度叫んだとき、フランチェスカは不意に立ち止まった。それでも、フランチェスカは振り返ることをせず、東を――海の方角を――見つめていた。
やっとの思いで、シュムは追いすがる。追いすがった矢先、シュムは自分の耳に、汽笛のような音が一瞬響いたのを知覚した。それが、本当には何の音であったのかを確かめるより前に、閃光がひらめいた。地獄が口を開いたかのようだった。シュムの目の前は真っ白になり、突風の中で、たちまち赤くなっていく。息をつくことさえままならず、シュムは、自分の心と体が離ればなれになってしまったかのように感じた。
シュムはどこかに吹き飛ばされていた。吹き飛ばされている間、死んだ、とシュムは思った。しかし同時に、死んだなんてとんでもない、とも思っていた。足をばたつかせても、前には進まず、頭を掴まれて、後ろへ引きずられているかのようだった。
気付いたときには、シュムはがれきに座り込んでいた。先ほどまで外にいたのに、今は建物の中にいる。どこまで吹き飛ばされたのか、シュムには分からなかった。リノリウムの床はずたずたに引き裂かれ、引き裂かれた梁材が、折れそこなった柱に食い込んでいる。もともとは、料理屋か何かだったのだろう。厨房も卓もめちゃくちゃになっていた。誰かの写真と焼け残った線香が、シュムの近くに飾られており、そこの部分だけは、かろうじて無事だった。
傍らに目を向け、シュムは戦慄する。フランチェスカが横たわっていた。フランチェスカは目を閉じ、微動だにしない。
「フラン――」
フランチェスカの肩を、シュムは掴む。指に生暖かい感触を覚え、シュムは反射的に、伸ばした手を引っ込める。指には、血糊が付いていた。
「起きてください」
もう一度、シュムはフランチェスカに呼びかける。頭の片隅では、自らの営みに意味がないことを、シュムは理解していた。フランチェスカは、目を覚ます気配を見せない。シュムの頭は真っ白になる。
耳に響く砲声は、ますます大きくなる。このままここにいても、死を待つばかりである。今は逃げなければならない。しかし、フランチェスカは?
そのとき、砲撃が突如として止んだ。シュムがその理由を確かめようとする前に、地面全体が大きく揺さぶられる。
(*1)大貫隆訳・著(2014)『グノーシスの神話』、講談社学術文庫p.170より引用