124_才能(Таланты)
水煙の中で、ルフィナは目を閉じている。その間にも、魚たちは天から降りそそいでくる。ある一匹は、店の軒先にかぶさる天幕へと当たり、弾んで石畳に転がった。別の一匹は、噴水に落ちて息を吹き返した。
水煙は、虹色の輝きを帯びている。光の片鱗から、ペルガーリアの霊気を、ルフィナは嗅いだ。砂漠の夜空に瞬く星のような、白くて孤独な光が、ペルガーリアの持ち味である。それが今は、精神分裂病者のような極彩色と、けたたましさとに、取り囲まれている。
水煙の渦を切り裂き、ルフィナめがけ、何かが殺到する。それは、ルフィナの身体に当たると、その全身を炎で包んだ。水煙の奥から、砲塔が付きだしてくる。戦車の一群が、ルフィナに迫っていた。
もし、今ここで斃れたら。――目を開くと、ルフィナは魔力を解き放つ。放たれた炎を前に、ルフィナを包み込んでいたはずの炎が、またたく間に塗りつぶされていく。
「だれが後輩たちを守るというの……!」
ルフィナは声を上げる。全身が、白い炎に満たされた。石畳は溶けて、足下で芋粥のように爛れる。凝結しかけていた水煙も、再び気化して、渦を巻き始める。
“蜥蜴”の魔法属性であるルフィナは、炎と熱を操ることができる。彼女の前には、火炎も爆撃も無力だった。
手を伸ばすと、ルフィナは街灯を掴む。鉄製の街灯は熱に舐め取られ、白濁した液体に変わる。なおも熱を送りながら、ルフィナはそれを、戦車に射出した。鉄の蒸気に曝され、戦車の群れが、卵のように弾ける。
炎を身にまといながら、ルフィナはひとり、前線へと入り込んでいく。
◇◇◇
「立てるか、クニカ?」
「うん」
リンに促され、クニカはうなずいた。
今、クニカの全身からは、光がほのめいている。リテーリアからの精神攻撃により、脳に流れ込んでくる電気信号を、クニカは自力で、光に変えていた。
――いいか、クニカ。
直前までのやりとりを、クニカはふり返る。シノンとルフィナの機転で、市街全体が水煙に包まれた矢先、ペルガーリアが言った。
――俺の魔法を、獣皇の属性を使えるように、祈るんだ。そうすれば、リテーリアの攻撃をかわせる。
――ペルジェは……どうするの?
記憶を反芻しながら、クニカは傍らに目を向ける。クニカの光に照らされて、うずくまるアアリと、横たわるジイクの影が、元老院議事堂の屋上をたなびいている。
――ニフリートを叩く。
そう答え、ペルガーリアは顔を上げた。水煙が、霧のようになって市街を覆っているというのに、ニフリートがどこにいるのか、ペルガーリアにははっきりと分かるようだった。
――準備はいいな?
ペルガーリアの問いに、クニカは黙ってうなずいた。ただ、態度とは裏腹に、クニカはずっと、ジイクとアアリのことを考えていた。
そして今、ペルガーリアはいない。
立ち上がると、クニカはアアリに近づく。横たわるジイクの手を、アアリはじっと握り締めている。
ニフリートの“神の鉄槌”は、ジイクを直撃した。ジイクが生きているのか、死んでいるのか、クニカには分からなかった。それでも、ジイクを助けられる存在は、クニカしかいなかった。“救済の光”を使えば、ジイクは蘇生するかもしれない。
アアリの隣にしゃがみ込むと、ジイクに向けて、クニカは手を伸ばす。
「いいのよ」
――その矢先、アアリが言った。
「アアリ」
クニカは、慎重に言葉を選ぶ。
「その……わたしにチャンスを与えてくれないかな? ジイクを助けるチャンスを」
「もう助からないわ」
「――やってみなきゃ分からないだろ?」
傍らに立っていたリンが、声を荒げた。べそをかいているかように、クニカには聞こえた。リンには妹がいたことを、クニカは思い出す。双子の姉を喪おうとしているアアリを前にして、リンはどうしても、自分の境遇を重ねてしまうのだろう。
「やってやれよ、早くしないと――」
「まだまだ、魔力を温存しなければいけないわ」
リンの言葉を遮るようにして言うと、アアリは咳き込んだ。ニフリートと対峙した結果、アアリも重傷を負っている。喋っているだけでも、アアリには精一杯のようだった。
「目的は、ニフリートを斃すことよ。ジイクを救うことじゃない」
「分からず屋だ――」
アアリに向かって、リンは腕を伸ばす。アアリがクニカたちの方を向いて――クニカは息を吞んだ。アアリの目から、涙があふれていたからだった。俯いていたのと、口調が変わらなかったせいで、クニカもリンも、アアリが泣いているとは気付かなかった。
「気持ちだけ貰っておくわ」
アアリの声は震えていた。ばつ悪そうに、リンはアアリから手を離す。
「騎士になった以上、戦場で死ぬことはある。覚悟はできていたつもりよ。ジイクに笑われちゃう。目的を果たさないと」
自らに言い聞かせるようにして、アアリは繰り返す。
「だったら……オレたちは、何をすればいい?」
リンが尋ねる。
「星誕殿を奪還しないと」
クニカは星誕殿に目を向ける。星誕殿を覆うドーム状の結界は、青白い色から、鉛色へと変化していた。
「あの結界はどうするんだ?」
「あれは、魔法を防御するための結界よ。物理的には侵入できる」
「行けそうか、クニカ?」
「ダメよ、リン」
クニカが答えるより前に、アアリが言った。
「リテーリアがいることを忘れないで。向こうの標的はクニカよ。クニカを向かわせることはできない」
「どうしよう……そしたら……」
「何だよ、簡単じゃないか」
戸惑うクニカをしり目に、リンが口笛を吹く。
「な? クニカ?」
「リン……?」
「オレが行くよ」
クニカもアアリも、すぐに答えることができなかった。
「本気なの……?!」
詰問口調で、アアリが言う。
「当たり前だろ」
「相手は使徒騎士なのよ?」
「知ってるよ、そんなこと」
「あなたよりも断然強いのよ」
「じゃあ、誰が行くんだよ」
「私が――」
アアリが言いかけた矢先、シャツの下から、リンは何かを取り出した。クニカが目で追うよりも早く、リンはそれを、アアリの胸元に突き立てる。リンの動きに、アアリは対処できていなかった。
リンの手には、ナイフが握られていた。――ただしその刃は、鞘に収まっている。
「オレが行った方がいいよ」
うなだれるアアリを前にして、リンが言う。
「才能あるんだろ? 任せてくれよな」
――結構効いたわよ、あなたの一撃。
――才能あるんじゃない? 騎士団に入ったら……。
チカラアリで、ニフリートを撃退したときの記憶が、クニカの中に蘇る。誤って自分を刺したリンに、アアリはそう嘯いていた。
「こんどはしくじらずに、ちゃんと刺すよ」
「バカね――」
「クニカのこと、頼んだぜ」
きびすを返すと、水煙の中で、リンは鷹の翼を広げる。シノンのような、白くて大きな翼ではなかったが、クニカのよく知る翼だった。
「リン……!」
「死ぬんじゃないぞ、クニカ」
「そんな……リンだって……!」
「オレが返ってくるまで、死ぬんじゃない――」
大理石のタイルを踏み切ると、リンが跳躍する。羽ばたきとともに、リンの姿は、まだら色の光の中へ消えていく。深い霧の中で、“救世主”であるはずのクニカは、できることがないまま、取り残された。