122_一瞬の出来事(мгновенно)
――我は恐れ、亦た喜ぶなり。昼の光よりも明るき、新たな光を見しがゆえなり。【『ペトロの黙示録』、第6節】
視界の遠く、山の稜線の一端が光るのを、シュムは目撃する。陽の光でもなければ、電灯の光でもなかった。体験したことのない光を前にして、シュムは
「あっ」
と叫ぶ。しかし、叫んだという感覚さえも、錯覚だったかもしれない。まぶしさを感じた次の瞬間、視界が暗転する。風に叩きつけられ、シュムは地面を這いつくばる。一瞬の出来事だった。地面に倒れているのを忘れ、シュムは地面に伏せようとしてしまった。
空からほとばしる轟音を耳にして、シュムの全身に鳥肌が立つ。市街は一瞬、夜のように暗くなった。光線がまぶし過ぎるせいで、夜になったのだと、目が錯覚したのだ。
「今のは……」
声を絞り出すと、シュムは立ち上がる。光線の鮮烈さを前にして、五感がすべて漂白されてしまったようだった。
「フラン!」
同行者の名前を、シュムは叫ぶ。街路樹の脇にあった、ブルーのベンチに、フランは座っていた。風圧にさらされ、倒れかけたはずみで、たまたま側にあったベンチに、フランは座ってしまったようだった。
「しっかり!」
「ひとり死んだ」
「え?」
フランは上空を指さした。青空の中央、まばゆい白い翼が、木の葉のように渦を巻きながら、市街の一点に吸い込まれていく。隣では、青白く燃える火の玉が、小さな火の玉に分裂しながら、中空に散っている。
シュムの背筋を、冷たいものが走る。
「ひとり死んだ」
フランチェスカは繰り返す。
◇◇◇
極太の光線が空に放たれた瞬間を、クニカは目撃した。周囲から影は消え、世界がほの暗くなる。世界中の光が、空を走る光線に吸い寄せられてしまったのではと思うほどだった。
まぶしさに目を閉じ、クニカは、息ができないことに気づく。光線の勢いによって大気は圧迫され、風となり、その風の強さのために、息ができない。
風圧を前にして、クニカの重心が揺らぐ。全身を持っていかれそうになる恐怖に、クニカは叫び出したくなる。自分の身体が、木の葉のようにもてあそばれるなど、誰が想像できるだろう。ペルガーリアに庇われていなければ、議事堂の屋上から放り出されていても、おかしくなかった。
風が収まる。息ができるようになった。
「あっ……!」
空を見上げ、クニカは叫ぶ。上空の一点、白い翼が、主を持たない羽のようになって、地面に墜落している。その隣では、青い炎に包まれた焼け残りが、同じく地面へと墜落を始めている。
「シノン……!」
クニカは声を上げる。シノンの名前を呼んだ瞬間、彼女の姿が、クニカの心に浮かぶ。浮かんだと同時に、シノンの姿は、記憶の闇へと没していく。
それが喪失感なのだと、クニカは理解する。光線を正面から浴び、シノンは焼け死んだ――。
「ちがう」
クニカから身体を離すと、ペルガーリアが言った。ペルガーリアの半身は、相変わらず光に変じている。リテーリアの精神攻撃は、まだ続いている。
「シノンは大丈夫だ」
ペルガーリアが言った。その言葉は、喪失感の側を通り過ぎて、どこかへと抜けて行く。
シノン“は”無事だった。喪失感は嘘だった。だれも死ななかった。そんな確信を、クニカは得たかった。
「もう助からない」
だが、ジイクの言葉の方が早かった。ジイクの視線は、空に散った青い火の玉に向けられている。
光線の片鱗に触れ、炎に包まれた“誰か”がいる。
「アニカ……!」
アアリが表情をこわばらせる。青い火の玉に、クニカも釘付けになる。
「もう助からない」
ジイクが繰り返す。
そのとき、恐怖の感情が、突如としてクニカを襲った。捕食者の標的とされたときに、獲物が感じる本能に近いものであると、体験したこともないのに、クニカはそう思った。
北部の山の一点から、相手の視線は注がれている。周囲の空気が張りつめる。ペルガーリアも、ジイクも、アアリも、リンも、同じものを感じ取ったようだった。
「ニフリートだ」
リンが口を開く。言葉の影には、葛藤が潜んでいた。名を口にしてしまえば、それは呪文のように作用して、まぼろしだったはずの彼女の存在を、本当によみがえらせてしまうのではないか。しかし、見て見ぬふりをしたところで、その本質を直観したという自分の認識は、否定できないのではないか。リンの言葉には、そんな葛藤があった。
「分かってる!」
一歩前に出ると、アアリが口を開く。口元に光が集まり、光球を形成する。チカラアリでの戦いが、クニカの記憶によみがえる。“神の鉄槌”――アアリの会得する奥義だ。
男が大笑いするような音とともに、光球が解き放たれる。放たれた光球は、直線となって北部の山に殺到する。“神の鉄槌”は山を叩き、発散した光が、周囲に羽を広げる。付近を飛んでいた戦闘機は巻き添えになった。木々は灰となり、山肌はえぐられ、土砂が噴き上がる。大気にひびが入ったかのような不吉な音とともに、焦げたにおいと、饐えたにおいとが、クニカのところまで漂ってくる。
ニフリートはどうなったのか? 答えを知るために、山の崩落を最後まで見届ける必要はなかった。
ニフリートの視線が、別の方角からクニカを刺した。シャンタイアクティの西北西、市街の辺りから、クニカはニフリートの気配を感じ取る。ニフリートは、瞬間移動したようだった。
向き直ると、アアリが再び口を開ける。瞬く間に光球が形成され、大きくなっていく。
アアリの後ろにつくと、手を取って、ジイクが背中を支える。
先ほどよりも規模の大きな光球が、市街に放たれる。光球は稲妻を轟かせ、矢のようになって、ニフリートに肉薄する――。
その瞬間、西北西の市街全体が夜に沈み込んだかと思えば、放たれた青白い光線が、アアリの“神の鉄槌”に、正面から衝突する。光と光の衝突により、錯覚が錯覚で上書きされる。隣ではリンが声を上げているが、それも不協和音に呑み込まれる。
世界全体が明滅し、クニカの視界には、細切れになった映像が飛び込んでくる。連写された写真が、不規則な頻度で、脳裏を横切っていくような感覚だった。ニフリートの光線と、アアリの光線が衝突する。時間は磁場を喪い、空間は中和される。家屋や建物は細切れになるが、飛び散る代わりに、空に舞い上がる。コップから水がこぼれ落ちる間際のような、張りつめた一瞬の中で、誰もが、光線が衝突した点から、水平方向に衝撃波が走るであろうことを直感する。
それに並行して、別の影像が流れを作り、クニカの脳裏に押し寄せる。光線同士が衝突した、まさにその瞬間、アアリの光線は――真逆に押し返される。“神の鉄槌”が、アアリ自身に殺到する。
アアリの姿が点滅する。アアリの目や、鼻や、耳から、稲妻が漏れる。アアリ! ――妹の名を、姉のジイクが叫ぶ。
鈍い音とともに、アアリの身体が、元老院議事堂を舞った。アアリの表情は苦痛にゆがみ、身体は小刻みに放電している。後ろで支えていたジイクも、アアリとともに倒れ込む。
「アアリ! しっかり!」
「痛い……!」
アアリが言った。その声は割れていて、複数人が喋っているようだった。アアリの身体のあちこちからは、電気が不規則にほとばしっている。
「身体が動かない……!」
クニカの全身から、汗が吹き上がる。クニカが振り向いたのと、西北西の市街の一角が再び光ったのは、ほぼ同時だった。カメラのフラッシュのような光が、クニカの目に焼き付く。ニフリートの光線が、元老院議事堂めがけて殺到する。
もうダメだ。光線を前にして、クニカの全身は硬直し、目をつぶることさえできなかった。
その瞬間、クニカの視界の端から、何者かが正面に飛び出してくる。ジイクだった。
両腕を大きく広げ、ジイクは光線を受け止める。青白い光線は、ジイクに衝突するやいなや、小さくしぼんでいく。まるで、ジイクの身体に、光線が収束していくかのようだった。
小さくなった光線の尾を、ジイクは抱きかかえる。ジイクの身体の前で、光線は完全に消え去ってしまった。
そして――ジイクはその場に、音もなく倒れる。倒れたジイクを、クニカは凝視する。
「ジイク……?」
アアリが、双子の姉の名前を呼ぶ。
ジイクは動かない。
「ちょっと」
地面を這って、アアリがジイクのところまで近づく。うつぶせになっていたジイクの身体を、アアリが起こした。腕はだらりと垂れ下がり、ジイクは目を閉じたままだった。
一瞬の出来事だった。
「ジイク!」
アアリの叫び声が、周囲に響き渡る。