117_ぞっとするほどのどか(ужасно спокойный)
開け放たれた扉から、エリッサは外の様子を眺める。
シャンタイアクティ市街の北部、サリシュ=キントゥス帝国軍の迫る最前線から、エリッサのいる星誕殿までは、距離がある。それでも、“楽園函数”により展開された結界の表面に、無数の爆炎が走るのは、エリッサの位置からも見て取ることができた。
“羊”の魔法属性であるエリッサは、無限の魔力を有する代わりに、自力で魔力を引き出すことは、ほとんどできない。“楽園函数”の生成のために、それができているのは、“歳星の間”の床に描かれた魔法陣と、クニカの“竜”の魔法属性のおかげだ。
爆炎が点滅するたびに、結界はエリッサの共感覚を刺激する。虹色や、音色が、エリッサの網膜や、鼓膜に返ってくる。それらを見、それらを聞くたびに、エリッサは心がざわめくのを感じていた。今はまだいい。しかし、光がかすみ、音が不協和音へと変じるときが、訪れるかもしれない。それは、“楽園函数”が綻びを見せたときであり――とりもなおさず、クニカか、自分自身が失敗したときである。
サリシュ=キントゥス帝国――それを指揮するニフリート――にとって、“楽園函数”は厄介だろう。それを蒸発させるためには、結界を出力しているクニカか、魔力の供給源であるエリッサの、いずれかを無力化するしかない。
ところで、ニフリートの目的は、クニカを捕らえることにあるという。エリッサは、ペルガーリアからそのように聞いた。また、ニフリートは一度、チカラアリでクニカに敗れている。そして、エリッサは非戦闘員である――これらを踏まえれば、クニカよりもエリッサの方が狙われやすいと、皆が思うのは当然だった。エリッサが、前線から最も遠い位置にいるのは、それが理由だった。
ただ、戦場から離れているにしても、油断はできない。砲撃などの物理的な干渉は楽園函数で防御できても、魔力を用いた精神的な干渉は、“楽園函数”では防御しきれない。
ここで、エリッサとともに星誕殿に残っている、リテーリアの出番になる。“獏”の魔法属性であるリテーリアは、他人の無意識に侵入して記憶を書き換えたり、白昼夢を見せて標的を幻惑したりできる。精神に対する魔法攻撃への対処も、リテーリアの専門だった。万が一ニフリートが、エリッサへの精神攻撃を企てたとしても、リテーリアが割って入ることができる。
ところでリテーリアは
「ちょっと離れるよ」
と席を立ったきり、戻って来なかった。その間に、“楽園函数”は発動し、結界は展開され、戦争が始まっていた。戦闘員であるはずのリテーリアはおらず、戦闘員でないはずのエリッサが、こうして“歳星の間”に釘付けにされている。
持ち場を離れるわけにはいかず、エリッサは立ち尽くすしかない。砲撃の音は、遅ればせながら、“歳星の間”にまで響いてくる。楽園函数の表面を、爆風と硝煙が舐めているのが見える。
それでいて、エリッサの周辺は静かで、砲撃の合間には鳥のさえずりさえ聞こえる。朝の陽射しは穏やかで、吹き寄せるそよ風が、中庭にある花の香りを運んでくる。外から迷いこんできた一匹の青い蝶が、“歳星の間”の天井付近を舞っている。エリッサの周辺は、ぞっとするほどのどかだった。
自分の息がうるさく聞こえ出した矢先、エリッサは、背後に誰かが立っていることに気付いた。リテーリアだった。
「リテーリアさん……」
エリッサの下まで、リテーリアは近づいてくる。エリッサはといえば、安どのあまり、その場にへたり込んでしまいそうだった。
「よかった。うまくいきました。“楽園函数”が成功して――」
目の前で、リテーリアが腕を開く。その瞬間、エリッサの腹部に、何かがぶつかった。視線を落としたエリッサは、腹部に当たったものの表面に、自分の顔が映りこんでいることに気付いた。
エリッサの身体は、長剣に刺し貫かれている。




