115_常識の園(Сад здравого смысла)
「目を開けて」
そう言いながら、イリヤ自身も目を開ける。
目の前には、星誕殿から落ち延びた準騎士たちがひしめいている。準騎士たちは、みなイリヤの方を向いていたが、それはどちらかと言えば、目を閉じてから、開けるまでに生じた変化に気付かないふりをするため、といった様子だった。
一行は、シドッチと呼ばれる小さな町の、祠の中にいた。
「ありがとうね、残ってくれて」
蓮華坐の姿勢のまま、イリヤは言葉を慎重に選ぶ。
「それと……もし、お友達がそばを離れていても、そのことを悪く思ったり、恨めしく思ったりしないでほしいんだ。その子たちも、もしかしたら、ここを離れることに勇気が必要だったかもしれない。その勇気は、尊重してあげてほしいんだ」
言葉を切ると、イリヤは頭上を仰ぐ。
「みんなは、この町の歴史、もしかしたら聞いたことがあるかもしれないよね。南北朝時代の最後に現れた、四人の巫皇のひとり、“天女の中の天女”と呼ばれるファイリエラ巫皇は、“殺戮天女”との死闘の末、この祠で最期を遂げたと言われている――」
“黒い雨”と、その後の混乱のために、祠を参拝する人は途絶えた。往時に飾られていた提灯やレリーフは、地面で泥まみれになっている。荒れ果てた祠の中で、イリヤの打坐する中心部だけが、祠の天井に開けられた穴から降り注ぐ陽の光で、まだらに照らされていた。
「それで……みんなはたぶん、ファイリエラについて、こう聞かされたと思うんだ、『天女の中の天女は、魔法が使えなかった』って。どう?」
サーシャがうなずいた。
「そうだよね。だけどね、それは半分正しくて、半分間違ってる」
イリヤの言葉に、準騎士たちは顔を見合わせる。
「イリヤ、どういうこと?」
そう尋ねたのは、キーラだった。
「ファイリエラが、自分で魔法を発揮する能力がなかったのは、本当のこと。だけど、その代わりファイリエラは、みずからを媒介として、他者の魔力を引き受けて、それを何倍にも増幅させて発揮することができた。それはチャネリングの変質で、ファイリエラが“巨人”だったからできたことなんだけれど、彼女は弟子たちにその秘跡を伝授していて、弟子のひとりが奥義として、その術を後世に遺した。その奥義は“常識の園”と呼ばれていて――今から私がやろうとしているのも、それなんだ」
「そうだったんだ」
イリヤの言葉に、リーリャがうなずいた。ほかの準騎士たちと同様に、リーリャは両手を合わせ、薬指に糸を結わえていた。糸は、イリヤの手の薬指までつながっている。
祠に残るすべての準騎士たちと、イリヤは結びついている。“常識の園”を発動するために、必要な準備だった。
「この奥義はね、そんなに難しくないんだ。むかしの、まだ人々の精神がおおらかで、純粋だった頃の奥義だから」
両手を頭の高さまで掲げながら、イリヤは言ってみせる。
「みんなは目を閉じて、指に結んだ糸のことだけを、一心に考えてくれればいい。私は、星誕殿に残った――クニカ様や、星下や、先輩たちのことを考える。みんなの魔力が、私を媒介にして、シャンタイアクティに残った人たちのところまで届けられる――」
イリヤは続ける。
「だけど、奥義を発動する前に、みんなには言っておかなければいけないことが、ひとつだけあるんだ。この奥義はね、実は、シャンタイアクティの御三家の人たちしか、知らない奥義なんだ。それは……だれでも簡単にできる代わりに、危険な奥義だから。奥義を発動している間、私の思念は“常識の園”をさまようことになる。天の正気は人の狂気で……もしかしたら、私の命も吸い取られてしまうかもしれない……」
「死ぬかもしれない、ってこと?」
ざわめく準騎士たちの中から、エリカが声を上げる。
「ダメだよ、そんなの」
エリカの言葉に、周囲にいた幾人かの準騎士たちも、首を縦に振る。
「こんなこと止めるべきだよ! イリヤの自己満足になっちゃうよ!」
エリカの言葉に、祠の中は、水を打ったように静まり返った。
隣にいたキーラが、エリカの背中を手でさする。エリカは泣いていた。
「ごめんね……イリヤ……」
「私は大丈夫だよ。心配してくれてありがとうね」
イリヤは答える。イリヤの心の中では、結論はすでに出ていた。
「星誕殿を去るとき、クニカ様が来てくれたよね? あのとき、私のケガを治して……それから、私のことを祝福してくれた。私は約束したんだ、これから先、私が出会ったすべての人たちに、はるかにいっぱいの祝福を与える、って」
イリヤは続ける。
「それからずっと、シドッチに着くまで、私は考えたんだ。自分たちがやらなきゃいけないことはなんだろう、って。生き残るだけだったら、そんなに難しいことじゃないと思う。だけど、本当に必要なことは、先輩たちとは違ったやり方で、未来を繋ぐだと思うんだ。本当はこんなやり方よりも、もっといいやり方があるかもしれないけれど……今ここで頑張らなかったら、生き残ったとしても、一生後悔すると思うんだ」
言葉を切ると、イリヤは周囲を見回した。もはや、あえて何かを言う準騎士はいなかった。
「ありがとうね、みんな。ファイリエラ巫皇が命を賭けたのも、もしかしたら同じ理由だったんじゃないかって、今ならそう思えるんだ。――それじゃ、いくよ」
イリヤと、残りの準騎士たちは、一斉に目を閉じた。