110_ちがったふうに(Все, что мы знаем, - это загадка.)
「いいかい?」
声を聞き、クニカは目を開ける。視界は、霧のようなものに遮られていた。
「覚えておくといい」
再び声がする。ニフリートの声だった。
「ボクだけが、キミを救うことができる、愛することができる――」
霧の奥に、二人の人影が現れる。ひとりはニフリートで、もうひとりは――うずくまっているせいで、誰かは分からない。
クニカは目を凝らす。もうひとりを見ようと努めれば努めるほど、クニカは自分の集中力が発散していってしまうことに気付いた。まるで、外からの電波の干渉を受けて、回路を流れる電気の信号が、とぎれとぎれになってしまうような、そんな感覚だった。
「キミは……?」
ニフリートの言葉が、自分に向けられたものだと気付き、クニカは戦慄する。喉元に匕首があてがわれたかのようだった。
クニカを見ながら、ニフリートは目を細めている。この場に、自分と“もうひとり”以外の者がいることに、困惑しているようだった。
首を斬られるのを受け入れるのか、逃げるのか、戦うのか。――それは、クニカがみずからの意思で決めなければならないことだった。
「分かるでしょう」
クニカが選んだのは――立ち向かうことだった。ニフリートの正面に、クニカは立つ。
「わたしが誰なのか」
「いいえ」
ニフリートは首を振った。
「え?」
「キミは……ボクを知っている?」
何かがおかしい。――直感が、クニカにそう告げる。
ニフリートの態度も、動作も、クニカには真実のように見えた。しかし、目の前にいるニフリートが、みずからの作り出した幻覚ではないことを、クニカは直感していた。それはちょうど、ニフリートが自分のことを、紛れもない他者として認知しているのと同じだった。
そのとき、背中に蹴り飛ばされたような衝撃を味わい、クニカはその場でたたらを踏む。しかし、平衡を喪って、倒れそうになる矢先、クニカのかかとは地面から離れ、身体は何空中で釘付けにされる。――クニカの影は、ニフリートのつま先で踏みつけにされている。鬼の魔法により、クニカの影は留められていた。
「『今は許せ』」
足をばたつかせているクニカを眺めながら、ニフリートは言う。ニフリートの呪縛から離れようと、クニカは魔力をふり絞る。しかし、ふり絞ったそばから、魔力はニフリートの影へ吸い込まれていった。
「『われら、かく正しきことを尽く成し遂ぐるは、宜なることなり』」
何かを諳んじているかのような、ニフリートの口調。クニカは、それが『マタイによる福音書』の一節であると気付く。地球世界では正典とされ、この世界では偽典とされる、福音書のひとつ。
――どうして……!
うずくまっていた“もうひとり”が、声を上げた。その声をどこかで聞いたような、聞かなかったようなもどかしさに苛まれ、クニカはもがく。コップの水が、あと少しでこぼれそうになるようなもどかしさ。明晰な状態ならば、当然に気付けるはずのことを、気付けないままでいるような、そんな感覚。
――家族だったのに!
「分かってるさ」
“もうひとり”の肩に、ニフリートは手を掛ける。しかし、ニフリートの手の掛け方はぎこちなく、まるで、人を慰めるための手続として、そのようにすることが規約されているから、そのようにするのだとでもいうようだった。
「キミの正当な要求が水泡に帰すのを恐れるな」
“もうひとり”の身体に、ニフリートは腕を回す。普通の人びとがそうするように、しかしニフリートは手続的に、その人を抱きしめ、慰めようとしていた。
“もうひとり”はもう、二度とこちらには戻って来られないだろう。クニカはそう考える。
しかし、“こちら”とは?
“戻って来る”として、どこから?
クニカには、一切が謎のように思えた。
そして――背中側から、強い力に引きずられて、クニカは地面のひずみへと落ちていく。
「あっ――」
声を上げ、自分の身体が自由になったのだと気付いたときにはもう、クニカは奈落へと向かって、自由落下を続けているところだった。