011_暗くて冷たくて(Темно и Холодно)
「脱走? どういうこと?」
お腹に腕を回された姿勢で、クニカはリンと空を飛ぶ。クニカの魔力は、リンの両腕を伝い、背中に生えた翼へと行きわたる。二人で飛ぶとき、クニカとリンは、いつもこの姿勢だった。
南からの冷気を、クニカは感じる。南の空、サリストク川の向こう側に連なる山の稜線から、雲が吐き出されている。雲はウルトラに迫り、上空をなめ取ろうとしていた。
クニカたちの身体を、風が撫でる。湿気から、クニカは雨の臭いを嗅ぐ。
「“お昼寝の時間”だったんじゃないの?」
「それで分かったんだ。まず、セヴァがいなかった。寝る前ウルサイからな、アイツ」
「ミーナは?」
「おーい!」
リンが答えるより先に、地上から声が届いた。ジュリだった。クニカたちとは反対の方向から、ジュリはトゥクトゥクを走らせ、ウルトラ中央病院まで向かってきたようだった。
街路に植えられているシダの木の根元に、ジュリはトゥクトゥクを停める。クニカは地上に降り立ったが、リンは勢いあまって、トゥクトゥクの屋根に足をつく。トゥクトゥクの屋根が「べこん」と音を立てた。
「ちょっと、リン!」
ジュリが唇をとがらせる。
「壊したら、クニカちゃんの身体で払ってもらうかんね」
「うるせえな」
肩をすくめると、リンはトゥクトゥクから降りる。いとこ同士で、年齢も同じのため、リンとジュリは互いに遠慮がない。
「二人は?」
クニカの質問に、ジュリは首を振る。
「ご近所さんに、子供の面倒は見てもらってるけれど」
「あのセヴァってガキ」
右手のげんこつを、リンは左手に打ちつける。
「男のやることじゃないよ。女の子を連れてくなんて」
「違うんだなァ、これが。ミーナなんだって、先に言い出したの」
「ミーナが?!」
クニカは驚いた。“ディエーツキイ・サート”の中でも、ミーナは大人しく、聞き分けがよい。幼馴染とはいえ、ミーナがセヴァを誘うのは、クニカには意外だった。脱走ともなれば、なおさらである。
「ミーナがねえ……」
ジュリは肩を落とす。
「ほかのちびっ子たちにビンタして聞き出したんだけどさ、セヴァとミーナが、一緒になって塀を乗り越えたんだって」
「で、どうすんだよ」
リンが言った矢先、市街全体にサイレンが鳴った。雨雲の到来を伝える“第一の警報”である。
〈発達した雨雲が、ウルトラに近付いています〉
二回のサイレンの後、女性の声が流れた。
〈市民の皆さまは、落ち着いて、屋根のあるところに退避してください。家主は、出掛けの人のために軒先を貸すよう、ゆずり合いの精神をもって臨みましょう。まもなく、市中全域に結界を展開します。発達した雨雲が――〉
「愚痴っててもしょうがねえな」
リンが腕を組む。
「手分けして探すぞ。オレは“サラワイ三世通り”を、クニカは“告死天使通り”を、ジュリは“六月通り”を探す。どうだ?」
「わかった!」
「よろしくね! 頼んだかんね!」
リン、ジュリと別れると、クニカは“告死天使通り”に向かう。
◇◇◇
“告死天使通り”とは、その名のとおり、告死天使に因んだ通りである。ウルトラの古い言伝えでは、始祖男性・アダムを形作ったのは告死天使とされているが、正式な教義とはされていない。
南大陸の教義において、死は忌むべきものとは捉えられていない。むしろ、「死もまた人生の一部」と、積極的に解釈されている。とはいえ、死はやはり不気味なものだった。墓地が多いために“告死天使通り”と呼ばれるようになったのか、“告死天使通り”と呼ばれるから墓地が多くなったのか。どちらが先かは分からない。とにかく“告死天使通り”の路地に一歩踏み込めば、そこはもう、死せる者の楽園だった。
「セヴァ! ミーナ!」
人気のなくなった通りを駆け、ときには枝分かれした路地の入口でつま先立ちをしつつ、クニカは二人の名前を叫ぶ。ひとりで通りを歩いていると、自分が世界から疎外されているかのようにクニカは感じた。
こうなったら、と、クニカは目を閉じ、まぶたの裏から“光”を探ろうとする。
クニカが探すのは、ただの光ではない。“心の色”とでも呼ぶべきものだ。誰かの感情が高ぶっているとき、または、クニカ自身が意識を集中させているとき、クニカは他者の情緒を、色として識別することができた。視界が遮られていても、“心の色”は見通すことができた。
まぶたの裏側に、クニカは意識を集中させる。塊となった“灰色”が、建物の外形に沿うようにして、周囲に散らばっている。“黒い雨”から避難した人たちが、「不安」を抱きながら、屋内で雨宿りしているのだろう。
クニカが探していたのは、動きを持った“黄色”だった。黄色は「焦り」を現している。それが動いているとなれば、二人の可能性が高い。
「クニカ!」
そのとき、クニカの背中に声がかかる。クニカのよく知る人物の声だった。
「シュム?!」
「よかったです」
声は、仲間のひとり・シュムだった。ウルトラを目指す冒険の途中で、チャイハネと一緒に仲間に加わったのが、シュムである。
クニカはすぐに、シュムが女の子を背負っているのに気付く。ミーナだった。
「ミーナ!」
「おねえちゃん……」
シュムの背中から降りると、ミーナはクニカのシャツにしがみつき、泣きべそをかく。
「街をパトロールしていたら、偶然出会ったんです」
「シュム、ありがとう」
「フフン、『“お散歩の時間”ではないから、きっと迷子だろう』という、私の勘は当たりました」
うずくまるミーナを、クニカは撫でる。リンが“幼稚園”をクビになる前は、シュムが“幼稚園”でアルバイトをしていた。だからシュムは、“幼稚園”のスケジュールを知っている。
「セヴァは知らない?」
「いいえ。見ませんでした」
「ミーナ、セヴァは?」
泣いているミーナの顔を、クニカは覗き込む。
「お堂に……行ってる」
「お堂?」
ミーナの言葉に、クニカとシュムは顔を見合わせる。この辺りで“お堂”といえば、。アンナハンマン聖堂しかない。
「まずいですね」
ミーナをあやしながら、シュムが言う。
「あの聖堂、中州にあります。“雨”が降ってきたら――」
結界に遮られるため、雨が直接、市街に降ることはない。その代わり、雨の黒さに塗りつぶされ、街は闇に覆われる。いくらセヴァが向こう見ずといえども、暗さと冷たさを、ひとりで乗り切れるとは思えない。
「ミーナ。どうしてお堂に行こうとしたの?」
「セヴァと約束して……でも、サイレンが怖かったから……そしたら、『ここで待ってろ!』って……」
聖堂へ行くために、セヴァとミーナは“幼稚園”を脱出した。だが、途中で警報が鳴り始め、ミーナは怖くなってしまったのだ。そんなミーナを待たせ、セヴァはひとり、聖堂に向かっている。
「どうします、クニカ?」
「聖堂に行ってみる」
水色のパーカーの裾を、クニカは捲くる。
「シュムはさ、ミーナと一緒に“幼稚園”まで戻ってて」
「いいですけど、もっと感謝してくれてもいいんですよ?」
「はい?」
ななめ上からのシュムの言葉に、クニカは思わず、変な返事をする。
ミーナと手を繋いだまま、シュムはクニカににじり寄ってくる。
「ええっと」
言いよどんでいるクニカに対し、シュムは上目づかいで、クニカをじっと見つめてくる。シュムの紫水晶色の瞳の中に、たじたじになっている自分の姿が映り込んでいるのに気付き、クニカは落ち着かなくなった。
クニカの仲間の中で、唯一クニカよりも背が低いのが、シュムである。だが、シュムは決してか弱い乙女というわけではない。シュムは体を鍛えるのが趣味で、褐色の肌は筋肉質であり、それでいながら引き締まり、女性らしい稜線がある。
もしクニカが男の子で、こんな上目遣いをされようものなら、イチコロだった。ただ、今でこそクニカはシュムと同性だが、シュムの仕草にどぎまぎしてしまうことだけは、どうしようもなかった。
「シュム、近くない?」
「フフン。今はいいです」
思わせぶりに言うと、シュムはさっと、ミーナをおんぶする。豹の魔法属性であるシュムは、俊敏な上、力も強い。
「幼稚園まで、ミーナを送ります」
クニカに振り向くと、シュムはウィンクしてみせる。
「“おおさじ亭”に戻った後、きっとクニカが、あんなことやこんなことを――」
「あのさ、シュム」
「何です?」
「反対だよ、そっち」
“そっち”方面の通路を、シュムは一瞥する。も
「わ、分かってますよ、もちろん私は、大丈夫です!」
「うん。あとさ」
「何です、クニカ?」
「シャツなんだけどさ、表裏、逆になってるよ」
「え?」
表裏が逆になっているだけではない。シュムは、前後も逆にシャツを着ていた。背中についているタグが、シュムの喉元の辺りにぶら下がっていた。
“猫”や“豹”といった魔法使いは、日常生活ではポンコツなことが多い。シュムも例に漏れなかった。左右違う靴を履いたまま外出しようとしたり、電池のプラスとマイナスを平気で間違える。
シュムが“幼稚園”をクビになったのも、そのあたりが理由だった。
「にゃーん……」
「それ、確かチャイからもらったやつだよね? 怒られるんじゃない?」
「にゃーん……」
しおらしくなったシュムだったが、“チャイハネ”の名前が出た途端、ますます小さくなった。シュムは、チャイハネとは同性愛の関係にある。力関係はチャイハネが上だった。
「ちゃんとミーナを送り届けてよね。あと、チャイハネにバレないうちに着替えるんだよ!」
シュムを励ましつつ、聖堂までの道のりを、クニカは駆けていく。