109_連理の枝(лучший друг)
告解室の、応談者側の席に座りながら、シノンは頬杖をついていた。
小窓から射し込んだ月光が、机に置かれたガラスのコップを映し出す。コップの底には、つま先ほどの大きさの丸薬があった。
サリシュ=キントゥス帝国の進軍を偵察していた斥候の騎士たちも、次々に前線から離脱して、南部へ退避している。明日の朝には、帝国軍はシャンタイアクティの北部にたどり着くだろう。
丸薬は、星誕殿に残ることになった、わずかばかりの者たちに配られたものだった。これを飲めば、たちどころに深い眠りに誘われる。それでいて、所定の刻限になれば、尾を引くことなく目覚めることができる。
丸薬を飲むことに、シノンは踏み切れないでいた。決戦に備えるために、深い眠りが必要なことは、シノンも分かっている。しかし、薬の力で無意識へと引きずり込まれ、覚醒したときには、目と鼻の先に“戦争”がある。――それは、シノンには奇妙なことに思えた。
むしろ緊張を覚えながら、眠れない自分に苛立ちながら、悶々として朝をむかえた方が、今の自分にはふさわしいのではないだろうか。いざというときに薬に頼らなくて済むために、自分は星誕殿で修業を積んできたのではなかったか。――そんな考えが、シノンの頭をめぐっていた。
そのとき、相談者側の方向から、誰かがノックする。
「シノン」
ルフィナの声が聞こえたのと、ノックの音から、相手がルフィナと分かったのは、ほぼ同時だった。
シノンもルフィナも、シャンタイアクティの貴族の出自であり、家格も年齢も同じだった。
何より、シノンのお母さんもルフィナのお母さんも、若い頃はシャンタイアクティの騎士であり、ルフィナのお母さんが先輩、シノンのお母さんが後輩、という関係だった。
そんな縁もあって、シノンとルフィナの二人は、幼いころからいつも一緒だった。騎士に昇叙したタイミングも、使徒騎士に昇叙したタイミングも同じだった。相手が今何を考えていて、どんな感情で、何を大切にしているのか――シノンとルフィナは、そのことがお互いに、手に取るように分かっている。
「ルフィナ」
「眠れないの?」
壁をはさんで、ルフィナが椅子に腰かける。
「ルフィナもかい?」
「いろいろ考えちゃって。シノン、私は懺悔がしたいの」
「懺悔?」
「そのための場所でしょう?」
ルフィナの口調は真剣だった。シノンは背筋を伸ばす。
「聞き届けましょう」
「守れない約束を、後輩と行いました」
菩提樹の下で泣くイリヤと、その細い肩を抱きしめるルフィナの姿が、シノンの心に、鮮烈なイメージを伴って現れた。そのイメージがふくらみ、様々な感情を伴って、言葉として噴き出しそうになるのを、シノンは押しとどめる。
「ルフィナ」
「イリヤに、弱さを引き受けてあげると言いましたが、私は――」
「ねえルフィナ、聞いて」
親友の声を、シノンはさえぎる。そうでもしなければ、シノンはみずからの激情におぼれてしまいそうだった。
「覚えてる? いちど、キミの家で遊んでいて、私は花瓶を割った。キミの家の家宝で――確か、菖蒲の花がかたどられた、琺瑯の花瓶だった」
ルフィナは黙っている。
「私が泣きながら謝ったとき、キミのお母さんは言ってくれたんだ。『人の真価は、何と戦い、何を勝ち得たかではなくて、何を許したかで決まる。大人とはそういうもの。だから、あなたを許させてくれて、ありがとう』って。今でも覚えてる」
「なら、私を許して」
「いや」
シノンは首を振った。
「キミを許すくらいならば、私は子供のままでいたい」
「もしかして――聞いてたの?」
ルフィナが言う。今度は、シノンが答えない番だった。
「やだ、恥ずかしい。来てくれれば良かったのに」
「イリヤだけじゃない。キミの言葉が刺さったのは」
正面の壁を見つめながら、シノンは答える。壁には暦が掲げられていて、それは昨年のものだった。誰かが新しくするのを忘れたまま、“黒い雨”が降りはじめ、忘れ去られたままなのだろう。
「キミが懺悔するべきなのは、嘘をついたことじゃない」
シノンは続ける。
「約束を守れないと考えてしまう、キミ自身の弱さだよ。それは煩悩だ」
「分からないあなたではないでしょう」
ルフィナが言いたいこと。シノンにはそれが分かる。サリシュ=キントゥス帝国の戦車も、戦闘機も、戦艦も、シノンたちにとっては恐れるに足らない。真に怖れるべきは、“巨人”・ニフリートの存在だった。
ニフリートを前にして、誰が生き残るのか。
誰も生き残ることはできないのか。
シノンにも、ルフィナにも、それは分からなかった。
「もし、キミとイリヤとの会話を聞かなかったとしても、私はキミを許さなかったと思う。でもね、ルフィナ」
シノンは続ける。
「イリヤとの会話を聞いたからこそ、私は新しいことが提案できると思う。約束が重いというのなら、一緒にそれを担おう」
「シノン……」
「手を貸して」
籐でできた壁の一部は、めくれるようになっている。壁をめくると、ルフィナに向かって、シノンは手を伸ばす。
もう、シノンったら――と、困ったような口調で、ルフィナはシノンの手に触れる。これまでに何度も味わい、何度も記憶したルフィナの手のぬくもりが、シノンに伝わってくる。
「イリヤとの約束を分かち合うんだ」
シノンは言った。
「ひとりでは難しいことも、二人でならば乗り越えられる。私はそう思う」
「ありがとう。弱さを引き受けてくれて」
「こちらこそ、助けさせてくれてありがとう」
それからしばらく、二人は何も言わなかった。夜陰に紛れて鳴く虫の音に耳を澄ませながら、シノンもルフィナも、互いの手を取りあっていた。
「信じられる?」
やがて、ルフィナが口を開く。ルフィナは笑っていた。
「昨年までは、まだみんながいた。ニフリートも、私たちの仲間だった。千年も昔のことのよう」
「そうだね。本当に」
コップの底に転がっている丸薬を、シノンは見つめる。今の自分には無用なもののように、シノンには感じられた。