108_はるかにいっぱいの(Слишком много)
――雲と其の裡なる光耀、而して其を円環る星を見よ。皆を導く星こそ、爾が歳星なれ(雲の内にある光、そして、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星こそが、お前の星である)。【『ユダの福音書』、第57頁】
「終わった」
最後の準騎士が、“歳星の間”を立ち去った瞬間、シノンが言った。“成し遂げた”というよりも、“戻ることはできない”という意味のように、クニカには聞こえた。
使徒騎士たちが、そっと息を吐いたり、長剣を鞘に収めたりする間にも、イリヤたちが去っていった扉を、クニカは見続けていた。決心がついてから、イリヤが去るまでは、ほんの一瞬だった。現にクニカの心臓は、ロシアンルーレットをたわむれに回していたときから変わらず、高鳴り続けている。
「クニカ」
背後から、クニカは声をかけられる。ルフィナがいた。
「あ……どうも……」
クニカは、あいまいな返事をする。星誕殿へやって来てすぐのときに、クニカはルフィナと会っている。しかし、直接に言葉を交わすのは、今回が初めてだった。
歩み寄ると、まごついているクニカの身体に、ルフィナは腕を回す。抱きしめられているのだと気付くのに、クニカは時間がかかった。
「ルフィナさん?」
「ありがとう。イリヤを止めてくれて」
ルフィナの言葉に、クニカの心も静かになっていく。ルフィナは、ペルガーリアの義理の妹であると同時に、イリヤの義理の姉でもある。
“歳星の間”に乗り込んだときも、ルフィナはシノンとともに、イリヤと対峙していた。あの厳しさは、イリヤに向けられたものであると同時に、ルフィナ自身にも向けられたものだったのだろう。
「わたしは、別になにも……」
こめかみに当てがった銃口のつめたさを思い出し――それをしたのは自分自身であるというのに――、クニカは身ぶるいする。あんな行動を、どうして取ったのか。あんな行動を取るだけの勇気を、どうして自分が持ち合わせていたのか。クニカは、自分でもよく分からなかった。
それでも、クニカは後悔していなかった。もう一度やり直すことができたとしても、何度も同じ時間を、自由に繰り返すことができたとしても、自分は同じ行動を取っていただろうと、クニカは思った。
「自分でもよくわからない、というか――」
「あなたは救世主です」
「――え?」
“救世主”の単語に、クニカはドキリとする。ルフィナの胸元から、クニカは身を離した。
「わたしが助けなくても……使徒騎士のみなさんが……」
「いいえ。あなたはあの子たちを救ってくれた。私たちも」
「ええっと――」
「そういうことだ」
傍らにいたペルガーリアが、口を開いた。
「ただ去らせるだけなら、オレたちでもできる。だけどそれをしたら、イリヤたちはきっと、今日が忘れられなくなる。悪い意味でな。そういう記憶はタチが悪い。忘れられない目に遭ったやつらは、将来において、今度は同じ目に、別の誰かを遭わせることになる――」
「それは間違いない」
ペルガーリアの言葉に、オリガはうなずく。
「そうだよな?」
オリガの言葉に、ジイクとアアリの姉妹も、シノンも、同じようにうなずいてみせた。
クニカはイリヤを救った。――クニカは喉の奥で、その命題を噛みしめる。ある一面において、ルフィナたちの言葉は正しいように思える。しかしそれは、イリヤたちの命を危険から遠ざけたという、せまい意味での救いにしかならないように、クニカには思えた。
イリヤが星誕殿を“去るべきだった”のは、彼女が希望だからだ。クニカやペルガーリアたちが、ニフリートと対決して命を落としたとしても、イリヤが生きてさえいれば、水平線から新しい太陽が昇るように、未来は生き残った人々の前に開かれる。
しかし、その陽射しが人々を勇気づけるためには、イリヤは使命を自覚しなければならないだろう。太陽としての使命を。
「プヴァエたちを呼んできてくれ、オリガ」
ペルガーリアが、オリガに声を掛ける。
「おそい時間だけれど、作戦の最終確認をしよう――」
「ちょっと待って」
クニカは、リンの側に近づいた。
「一瞬だけ、戻っていいかな? プヴァエたちが来るまでには、また来るから」
「わかった」
「リン、一緒にきて」
「何だよ――」
リンの手をつかまえると、“歳星の間”を、クニカは抜け出す。
「イリヤを探したいんだ」
「またルーレットか?」
「もうやらないよ」
「今度やったら、承知しないからな」
リンはぶつくさ言っていたが、背中にはすでに鷹の翼が生えていた。
「分かったってば」
そう言う間にも、クニカの足は地面から離れる。つないだ手を通じて、クニカはリンにぶら下がった。
クニカの魔力を受けて、リンの翼が、星誕殿の夜空をはためく。
“黒い雨”の脅威は南大陸から取り除かれている。中空に身を躍らせながら、クニカは夜空を見上げる。地球と同じような星河が、頭上にちりばめられている。
もしかしたら、地球世界で、自分と同じように星河を見ている者がいるかもしれない。そう考えると、クニカはみずからの生命が、自分のものであると同時に、誰かのものでもあるかような、不思議な感覚を味わった。
「クニカ、あそこ」
リンの声に、クニカはわれに返る。リンが指さす先は、星誕殿の正門、シャンタイアクティ市街との結節点だった。数台のバスが停まっていて、準騎士たちが次々と乗り込んでいる。
イリヤは、正門の脇の、灌木で覆われた小庭にいて、ほかの準騎士たちを見守っていた。
「イリヤ!」
リンが高度を下げたのを見はからって、クニカは声を上げた。
「あ……!」
クニカに気付き、イリヤは声を上げたが、すぐに顔をそむけた。火傷した手を庇うイリヤの様子は年相応で、“歳星の間”で見たときとは比べ物にならないほど弱々しく、小さくなっているように、クニカには感じられた。
イリヤの周りにいた準騎士たちも、ばつが悪いのか、めいめいに顔を見合わせている。そんな中を、クニカはイリヤのところまで近づく。イリヤの頬が涙で濡れていることに、クニカは気付いた。
――イリヤはな、いずれ巫皇になれる人材だと思ってる。本人は一人前のつもりで――まだまだ全然なんだけれどさ。
花嫁の間で、ペルガーリアはそう言っていた。友だち想いの勇気はあっても、ペルガーリアの言葉どおり、イリヤは未熟なのだ。
「手を貸して」
イリヤの前に、クニカは手を差し出す。クニカの指先を見つめ、イリヤは逡巡していたが、それからそっと、焼けただれた左手をイリヤは差し出した。イリヤの手は水ぶくれになっていたが、その表面には軟膏が塗り込まれていた。イリヤの友だちが、手当てをしていた途中だったのだろう。
深く息を吐きながら、クニカは手に力を込める。クニカの指が触れた瞬間、黄金色の光が、イリヤの手を包んだ。
“救済の光”で、イリヤの皮膚のただれは収まり、水ぶくれは小さくなって、まるで蒸発したかのように消え去っていく。わあっ、と、準騎士のリーリャが歓声を上げる。星誕殿へやって来てから、自分の能力を準騎士たちに示したのは、これがはじめてだったことに、クニカは気付いた。
“救済の光”が収まったときには、イリヤの手は元どおりになっていた。
「すごい……!」
隣で見守っていた準騎士のサーシャが、声を上げる。
「クニカ様は……本当に救世主なんだ……!」
「ありがとうございます」
左手を何度も握り締めたり、開いたりしながら、イリヤが言う。
「その……何て言えばいいか――」
「イリヤ、もう一回」
目を白黒させるイリヤをよそに、クニカは強引に、イリヤの両手を握り締める。
「エリカ、キーラ、サーシャ、それにリーリャも――」
その場に居合わせた、ひとりびとりの準騎士たちの名前を、クニカは呼ぶ。
「いい? 先輩たちには内緒だよ? だけど、あなたたちには証人になってほしい」
イリヤの両手をつかんだまま、クニカはその手をたぐり寄せ、イリヤの身体を抱きしめる。
「クニカ様……?」
「イリヤ……イリヤ・ホークハイエスト=ラァ」
周りにいる準騎士たちにも、背後にいるリンにも聞こえるほどの声で、クニカははっきりと告げる。“救済の光”と同じ光が、雲のようになって、クニカとイリヤを包む。
「わたしは……クニカ・カゴハラは、あなたを祝福します」
光は発散し、周囲は再び、夜のとばりに呑まれる。光がまばゆかったために、夜は暗さを増したようだった。
その暗さの中心に、クニカとイリヤは、二人で立っていた。
「クニカ様」
イリヤは言う。ぼろぼろと泣いていた。
「よく聞いて」
イリヤの手を握り続けたまま、クニカは言う。
「この祝福はね、イリヤだけのものじゃないんだ。わたしの代わりに、イリヤと一緒に南へ行く子たちに、祝福を与えてほしいんだ。それから、これからイリヤが出会う、すべての人たちにも――」
「そんな……私だけじゃ……」
「大丈夫だよ」
イリヤのことを、クニカは励ました。
「さっきまで、あんなに勇気出してたじゃん。わたしの代わりにさ、わたしの分まで――はるかにいっぱいの祝福を、みんなに贈ってあげてほしいんだ。イリヤならできるからさ。ね? 約束だよ」
「約束します……」
そう言いながら、イリヤは泣きじゃくる。
「必ず……」
「必ずだからね、約束だよ!」
イリヤから手を離すと、クニカは後ろへさがる。
「さようなら、もう戻るからね――」
リンと手をつなぐと、“歳星の間”へ、クニカは戻ろうとする。
「飛ばないのか?」
自分よりも前を歩き、その手を引っ張ろうとするクニカに、リンは尋ねる。
「うん。走りたい」
「何だよ、それ」
「いいじゃん。たまにはさ――」
「――いいのか?」
リンの言葉につられて、クニカは後ろを振り向く。準騎士たちに囲まれながら、イリヤは地面に膝をついて泣いていた。
「大丈夫だよ」
クニカは答える。
「あとは、わたしの問題だから――」
「なら、いいけどな」
それ以上は、リンも何も言わなかった。




