106_分裂(Раскол)
「用件は?」
「歳星の間に、準騎士たちが集まってる」
オリガの口調は、いつもより早い。
「ジイクやシノンが止めてるけれど、『星下を出せ』と言って退かない。疎開の話、納得がいってないらしい」
星誕殿中の“心の色”を再び見ようと、クニカは目を閉じる。瞼の裏に、赤い光が無数に浮かび上がる。赤は怒り、憤りを表す色である。それらの光は一点に結集していた。“歳星の間”のある辺りだった。
「イリヤだな?」
ペルガーリアが言った。
「イリヤだろう、こんなことをするのは?」
「誰がやったかは、この際重要じゃない」
オリガは苛立っているようだった。窓辺に寄ると、鈴の吊るされた紐を、オリガは引っ張る。回廊の遠くにいる者に、巫皇の到来を告げるためのものだった。
「分裂になる。こんな大事な時に――」
「分かってるよ」
口元をぬぐうと、ペルガーリアは言った。
「行こう」
「クニカ」
成り行きを見守っていたクニカに、オリガが呼びかける。
「ペルジェの傷、治してやってくれよ」
「ちょっと待て」
クニカが答えるよりも前に、リンが前に出る。
「何もなかったって、さっき言ってたろ? コイツのケガは――」
そう言いながら、リンはペルガーリアを指さす。
「コイツの身から出た錆だ」
「待てよ」
オリガが言い返す。
「『何もなかった』? そうだよ。お前たちが指をくわえて見守る中、ペルジェはすっ転んで口を切った? そうかもしれない。だとしたら、ペルジェを治さないことに理由がないだろ?」
「それは――」
「いいよ」
くい下がろうとするリンを、クニカは止める。リンはペルガーリアを憎んでいて、オリガは“何もなかった”ことを信じていない。
「大丈夫。ありがとう」
「お人よしだよ、お前は」
リンは腹を立てていたが、クニカを引きとめようとはしなかった。ペルガーリアに近づくと、クニカはそっと、頬に手を当てる。クニカの手から“救済の光”があふれる。ペルガーリアの口元の痣は、シミが漂白されていくかのように、跡形もなく消えていった。
「ありがとうな」
“救済の光”が収まると、ペルガーリアはみずからの頬に触れる。
「オレも、そんな光が使えるようになりたいよ」
どう答えれば良いのか分からず、クニカは視線を反らした。リンが、不機嫌そうに鼻をならす音が、やけに大きく聞こえた。
◇◇◇
――連署は私が預かる。
“歳星の間”の入口に差しかかったとき、扉の向こうから、くぐもった声が聞こえてきた。シノンの声だった。
――今日はもう退がるんだ。
――できません。
シノンの言葉を、誰かが打ち消す。イリヤの声だった。声は落ち着き払っていたが、シノンの言葉に答えるまでには、間があった。イリヤは首を振ってから、シノンの提案を断ったのだろう――と、クニカはそう思う。
――退がるべき今日も、向かうべき明日も、今の私たちにはありません。巫皇に、今この場で受け取っていただきたい。私たちの話を聞いていただきたい。それが私たちの総意です。
「ペルジェ」
ドアノブに手をかけたペルガーリアを見て、クニカは声をかける。
「わたしも、一緒に――」
「後悔するぞ?」
ドアノブを握り締めたまま、ペルガーリアは言う。
クニカは首を振った。イリヤと向き合う機会を、クニカはこれまでに二度逃している。今ここでイリヤと向き合わなければ、役目を果たす機会を、自分は永遠に喪ってしまうだろう。――クニカはそう考えていた。
ドアノブを左手で握りなおすと、空いた右手を、ペルガーリアはクニカに差し出す。
「手、つなごう」
クニカも左手を差し伸べ、二人は手を取り合う。後ろにいるリンとオリガの息を呑む音が聞こえた。
「入るぞ」
ペルガーリアの合図とともに、二人は扉を開け放つ。――ほの暗く照らされた“歳星の間”は、人々でごった返していた。その多くは準騎士たちで、彼女たちをせき止め、入口を守るようにして、使徒騎士たちが横一列に並んでいる。
「ペルジェ、クニカも――」
段差を降り、近づいてくる二人を振り向いて、シノンが困り顔になる。その背後では、準騎士たちがどよめいている。彼女たちの視線が自分に注がれているのを、もっぱら、つながれた自分たちの手に注がれているのを、クニカは感じ取った。
「来なくてよかった」
立ち尽くしているシノンの隣で、典礼担当の使徒騎士・ルフィナが言った。ルフィナの声は張りつめていて、星誕殿にいるすべての人びとの緊張が、声として具象化したかのように、クニカには感じられた。
「あなたたちは……来ないことができたはず」
「逆に言えば、『来ることもできた』」
せせら笑うようにして、ペルガーリアは答える。
「違うか? オレたちは、それを実行しただけにすぎない」
唇を引き結んだまま、ルフィナは二人に進路を譲る。シノンもルフィナに倣った。
二人の正面に、ひとりの準騎士が立っている。二房に束ねられた金髪、透きとおるような白い肌、深い緑色の瞳――イリヤが、紙の束を手に持ち、立っている。
差し出された紙の束を、ペルガーリアは受け取る。このとき、クニカとペルガーリアは、ようやく手を離した。
「南から、バスがやってきました」
ペルガーリアが紙をめくる間、イリヤが説明する。
「はじめ、私たちはそのバスに、ダカから戻ってきた先輩たちが乗り込んでいるのだと、無邪気に信じていました。皆で戦列を組んで、帝国と戦うときが来たのだと、そう思っていました。しかしそうではなかった」
イリヤは続ける。
「バスには、わずかな先輩たちしかいなかった。私たちを迎えにきたのだと、先輩たちは言いました。敵を目前にして、先輩たちを残して、自分たちだけ安全な場所に避難する――」
紙面に一通り目を通すと、ペルガーリアはそれを、クニカに渡した。シノンの言葉のとおり、それは連署だった。イリヤを先頭にして、紙面には名前が書き連ねられている。
「そんなことは、私たちにはできません。力は及ばずとも、私たちだって星誕殿に連なる者、星室の藩屏です。どうか私たちを戦わせてください。署名は、ここにいるみんなの思いです」
紙をめくるうちに、クニカは、その紙面が奇妙に湿り、生臭さが漂っていることに気付いた。書かれた名前のひとつを、クニカは凝視する。インクの黒色の片鱗に、赤色が滲んでいる。日蝕で黒くなった太陽の輪郭から漏れる、かすかな光のように、その赤色はクニカの心を捉えた。名前はすべて、血で書かれていた。
「首魁はお前だな、イリヤ?」
イリヤの正面で、ペルガーリアは腕を組んでいる。
「連署はな、普通、放射状に名前を書く。主犯が誰か分からないようにするために」
「誰がやったのかは、この際重要ではありません」
イリヤが答える。オリガの咳払いが、クニカの背後から聞こえた。
「どうぞ、私たちの総意としてお受け止めください、星下」
私たちを戦わせてください、お願いします――イリヤの言葉に呼応するようにして、“歳星の間”のあちこちから、準騎士たちの声が上がる。
使徒騎士のリテーリアが、一歩前に進み出ると、散発的に声が上がった箇所をにらむ。声は止んだが、“歳星の間”を覆う空気は、張りつめたままだった。
「もしオレが、お前たちの総意を聞き届けなかったら?」
答える代わりに、イリヤは懐から何かを取り出すと、それをみずからのこめかみにあてがった。
「やめなさい……!」
「キャー。」
アアリが声を上げる。その声をかき消すように、ミーシャの甲高い声が続いた。ミーシャの声はこの場に似つかわしくなく、クニカは背筋が寒くなる思いだった。
銃をこめかみに当て、イリヤは笑っていた。
撃鉄を起こす音と、わずかな光を受けて輝く白刃とが、“歳星の間”を交差する。ある準騎士は、イリヤと同じように、銃をみずからのこめかみにあてがい、また別の者は、短刀をみずからの喉に添える。
「『屍を見出したる者に、現世は如かざるなり』。私たちは死を怖れない」
歳星の間が、水を打ったように静まりかえった。
「騎士諸賢」
ややあってから、ペルガーリアが口を開く。
「“四天女の間”へ。話したいことがある。クニカ、キミにはここにいてほしい」
ペルガーリアの言葉に、クニカはうなずいた。
クニカの脇をすり抜けて、使徒騎士たちは無言のまま、“四天女の間”に入っていく。イリヤを先頭にして、準騎士たち全員と、クニカは対峙する。
「クニカ様」
イリヤが口火を切る。