105_ここには何もない(Здесь не на что смотреть.)
――而して我は、獅子の口の裡に居たり。されど、彼の者らの迷いと愚かさと消滅のための謀りに対し、我は、彼の者らのとおりには争わざるなり(私は獅子の口の中にいた。しかし、彼らが、みずからの迷いと愚かさと消滅のために企てた計略に対し、私は、彼らの計略のとおりには争わなかった)。【『大いなるセツ第二の教え』、第18節】
幼い頃に犯した罪を、目の前に突きつけられたかのような息苦しさを覚え、クニカは目を開ける。全身を包みこんでいたはずの夜の闇は、意識がはっきりするにつれて、どこか遠くへ、光の中へと逃げていってしまった。
ペルガーリアから逃れ、リンを遠ざけてから、クニカはベッドに潜りこみ、夜のとばりが降りるのを、眠りがみずからをいざなうのを、じっと待っていた。しかし、かたく目をつぶればつぶるほど、息を落ち着かせようとすればするほど、心臓の鼓動はうるさく、クニカを苦しくさせた。眠りでもなければ、覚醒でもないような意識の合間を、クニカは宙づりにされ続けた。
苦しみをどうすることもできず、クニカはとうとう身を起こした。隣のベッドに目線を移し、クニカはここで、リンがいないことに気づく。
「リン?」
クニカは声を発した。部屋のどこからも返事はなかった。
掛布が折り畳まれたままのベッドを、クニカは見つめる。それからクニカは、壁にかけられた時計に目をとめ、思いのほか時間が経っていなかったと知り、愕然とする。そろそろ朝を迎えるだろうと思っていたにもかかわらず、日付さえまたいでいない。
リンに会いたい――。唾を呑みこむと、クニカは目を閉じ、意識を集中させる。心臓の鼓動は相変わらず強く、息を殺している間に、破裂してしまいそうだった。
まぶたの裏の暗がりから、リンの“心の色”を、クニカは見いだそうとする。無数の“心の色”が、星河のように、星誕殿に瞬いていた。夜の暗さに、星誕殿に集う多くの人びとが、心を許しているようだった。
ひとつびとつの“心の色”に、それを宿す人格がある。自分のほかに、世界には大勢の人間がいる。それらの人々の中には、自分と異なる感情を持っている者もいれば、同じ感情を、違ったふうに抱く者もいる。考えてみれば当然だが、今のクニカには、それは不思議なことに思えた。
“花嫁の間”の側には、二つの“心の色”がまたたいていた。灰色のかげりを帯びるそれらの色を、クニカは眺める。灰色は、不安や、動揺や、あるいは直接に、後ろめたさを表す色である。他人をあざむくことはできても、自分の心をあざむくことはできないからだ。ペルガーリアとリンがそこにいるのだと、クニカは直感した。
クニカは部屋を抜け出す。ペルガーリアから逃げてきた道のりを、今度は逆に、“花嫁の間”まで進んでいく。
湿気の多い夜だというのに、廊下に横たわる夜気は冷たかった。
◇◇◇
突きあたりを曲がってすぐのところで、クニカは、リンが “花嫁の間”の前に立っているのを見た。
「リン――」
声を上げた矢先、“花嫁の間”の緑の鉄扉が、外側に向かって開かれた。反射的に壁に寄ると、柱の陰に、クニカは身を隠した。どうして隠れるのか、クニカ自身にも分からなかった。
リンの着る白いシャツが、月明かりに照らされ、まぶしくなる。鉄扉から抜け出したペルガーリアは、右手に錫杖を携えている。錫杖に連なる遊環が、通路に音を響かせた。
「どうした?」
リンを認めると、ペルガーリアが言った。
「寝てなかったのか?」
「ああ」
スニーカーのつま先を、リンは床にこすりつける。
「聞きたいことがあるんだ」
「ハハ……ご苦労なことだ」
ペルガーリアの表情は、影に隠れて見えない。
「呼んでくれれば、まねき入れたのに」
「そうやったのか?」
「え?」
「クニカにも、だよ」
所在なさそうに、リンは通路の窓辺に近づく。もともとリンは色白だったが、青ざめているように、クニカには見えた。
「アンタの口から聞きたいんだ。昼間に何があったのか。クニカは怯えてた」
唇を引きむすんだまま、リンは体を小刻みに揺らす。“心の色”は、相変わらずの灰色だったが、形は一様ではなく、輪郭はうごめいていた。リンは、良くない答えを予感していて――予感のとおりに答えを得られたとして、その後どうすれば良いのかまで含めて、戸惑っているようだった。
「リン」
ペルガーリアは口を開く。
「キミはクニカに優しいと、オレは以前に言った。けれど違うな。キミはクニカを愛している」
答える代わりに、リンはただじっと、ペルガーリアを見つめる。
「クニカもキミを愛している。いいな。うらやましい」
「なあ、オレは――」
リンが言い寄ろうとした矢先、ペルガーリアは左手を伸ばすと、指を鳴らした。次の瞬間、リンはもだえ、そのまま後ろへ倒れこむ。
クニカは叫びそうになり、自分の口を手で覆う。指を鳴らしたとき、ペルガーリアはリンの頭の中に、影像を投げかけたのだろう。
ペルガーリアの足下に横たわったまま、リンは両手で頭を抱え、声を上げていた。足をばたつかせ、大理石の床をかかとでこすりながら、立ち上がろうと、リンはもがいている。
「刺激が強過ぎたか?」
首を振りながら、ペルガーリアがリンを見下ろす。
「お前がクニカを愛しているというのなら、最初の相手はお前に譲ってやる」
声を上げると、リンは立ち上がり、ペルガーリアに向かって腕を振りまわした。錫杖から手を離すと、ペルガーリアはリンの腕を、右手で受け止める。リンはなおもペルガーリアに迫ろうとしていたが、ペルガーリアの方が上手だった。ペルガーリアが右手を突き放すような仕草をすると、リンはぐらついて、再び床に倒れこんだ。
「リン!」
そのときにはもう、クニカはいても立ってもいられなかった。かけ寄ると、クニカはリンにしがみつく。
錫杖が、遅れて床に倒れ、音を響かせた。
「クニカ?!」
「もういいよ」
「離せ」
クニカはリンを止めようとしてもがき、リンはクニカから離れようとしてもがく。二人とも声を発さず、辺りは静かだった。
「いいんだって」
「いいわけないだろ?!」
リンが叫ぶ。リンの目は血走っていて、体から伝わってくる鼓動は、クニカのものよりも激しい。それでもクニカは、リンの態度のすべてから、怒りよりも真摯さを、憎しみよりも愛を、感じ取ることができた。それは、クニカが今、リンから欲していたもののすべてだった。
「お前のことなんだぞ、クニカ?! 家族が侮辱されて黙ってろって言うのかよ?! 絶ッ対に赦さねえからな、こんな奴――」
「妹……」
右手のひらを見つめながら、何かを思い出したようなそぶりで、ペルガーリアが呟く。リンのこぶしを受け止めたとき、リンの妹を――命を落としたリヨウの記憶を――ペルガーリアは引き出したようだった。
「妹がいたのか」
リンに腕を振りほどかれ、クニカは尻餅をつく。立ち上がったリンは、肩で息をしていた。クニカの目の前で、リンのこぶしは再び握りしめられ、指の関節が真っ白になる。
「オレにも妹がいる」
「殴らせろ!」
固められたリンのこぶしが、ペルガーリアの頬に迫る。リンのこぶしがペルガーリアの影をかすめた瞬間、湿った、沈みこむような音が、クニカの耳に届く。
「あっ」
クニカは声を上げた。リンの一閃が、ペルガーリアにさく裂した。倒れこそしなかったものの、殴られた勢いで、ペルガーリアは顔を背ける。緑の髪が流れ、ペルガーリアの顔を隠した。
ペルガーリアの正面に立ち尽くしたまま、リンはこぶしを開くと、ペルガーリアを凝視する。
「お前……!」
リンが声を震わせる。その声は、怒りのためというよりも、怖れのために震えているようだった。心のどこかで、ペルガーリアはリンのこぶしを避けるだろうと、クニカは考えていた。――同じことを、リンも考えていたのだろう。
「避けなかったな……!」
「フェアじゃないだろ?」
――その方がフェアだろ?
昔の記憶がよみがえり、クニカははっとする。チャイハネたちが仲間になる前、ウルノワの病院で敵対していたとき、チャイハネは、今のペルガーリアと同じようにリンに殴られ、ペルガーリアと同じように答えていた。
あのときのチャイハネは、死にかけていたシュムを救うために、手段を選ばなかった。
リンもまた、ウルノワでの一件を思い出していたにちがいない。リンは相変わらずペルガーリアを凝視していたが、挑みかかるような気配は、なりを潜めていた。
そんなリンをしり目に、ペルガーリアは自身の髪を払いのけ、床に落ちた錫杖に手を伸ばす。ペルガーリアの口元は、すでに痣になっていた。
「もっと楽しく――ウウン」
咳ばらいをすると、ペルガーリアは左手で口元を拭う。白い手首に、血の痕が尾を引いた。
「もっと楽しく生きられたらな。な?」
ペルガーリアは錫杖を拾う。クニカは何も答えられなかった。
そのとき、遠くから、誰かの足音が聞こえてきた。クニカたちのいるところまで、誰かが駆け足で近づいてくる。廊下の突き当りから、オリガが飛び出してきた。
「ペルジェ――」
居並ぶ三人を見て、オリガもただならぬ様子を察知したらしい。目を細めると、オリガは三人を代わるがわる見やった。
「何があった?」
「いや、オリガ」
口を開いたのは、ペルガーリアだった。
「何もなかった」
「その傷――」
「復唱しろ」
正面に立つと、ペルガーリアはオリガの肩に手をかける。
「『ここには何もない』」
「こ、ここには何もない――」
ペルガーリアに気圧され、オリガが繰り返す。その言葉を認めると、ペルガーリアはオリガから離れる。
「それで、オリガ、」
鼻白んでいるオリガに対し、ペルガーリアは続きを促した。
「用件は?」