104_澄んだ瞳、つまりは海の鼓動(Ясные глаза, или сердцебиение моря)
「ジイク」
声を掛けられ、ジイクは、回想の世界から現実へと引き戻される。夜のとばりに覆われ、シャンタイアクティの街は静まり返っている。声を掛けたのは、双子の妹・アアリだった。
北部に潜伏していた斥候たちは、漸次、シャンタイアクティに舞い戻っている。サリシュ=キントゥス帝国の軍隊は、明朝には、シャンタイアクティ市の北部にたどり着くだろう。
「どしたん?」
ジイクはと言えば、シタールを膝に乗せたまま、胡坐をかいていた。心が留守になるのに任せ、思うがままに、シタールを奏でるつもりだった。
「さっきね、向こうでマルタに会ったわ」
ジイクの隣に、アアリは座る。マルタとは、シャンタイアクティの住民たちを南部に疎開させていた、騎士のひとりである。
そう、とジイクは答える。
フランチェスカの即位灌頂の儀式、“黒い雨”を封印するための結界を張る儀式――これらの儀式の合間を縫って、ペルガーリアと、使徒騎士たちとの間で決めた事柄が、着実に実行されていた。マルタのほかにも、南部にいた騎士たちの一派は、数台のトレーラーを率いてシャンタイアクティまで戻ってきている。
「あとは……後輩ちゃんたちを乗せるだけ、か」
「“だけ”ならいいけれど」
アアリはため息をつく。
準騎士たちを南へと疎開させる計画は、準騎士たち当人には伝えていない。だから準騎士たちは、南部から舞い戻って来た騎士たちとともに、この街で、帝国と戦うつもりでいる。
騎士たちが乗っているとばかり思っていたトレーラーの荷台は、まったくもぬけの殻である。そこに座るのは自分たちなのだと分かったとき――準騎士たちは、どんな反応をするだろうか。
「もし、抵抗されたら」
アアリは言う。何気ない口調だったが、妹が一番話したがっているのはこのことだと、ジイクは理解する。そして、姉に悟られたということを、アアリもまた察したようだった。互いに目を合わせると、二人はばつ悪げに笑みをこぼす。
「あんなに言ってくるなんてね、あの子たちが」
「みんな立派な“星誕殿の騎士”ってことさ」
「だからこそ――怖いわ」
押し黙ってしまった二人の耳に、潮騒が響いてくる。
「聞こえる?」
「うん」
「こんなに海が近いなんてね。いつもは街がうるさくて、気付かなかったわ」
アアリは溜息をついた。
「貴重な経験ね。この先も経験するかどうか、分からないけれど」
「できるさ。夜にそっと起きて、海に行けばいい」
「そんな単純な話じゃないわ」
アアリはかぶりを振る。
「そんな単純な話じゃない」
「単純な話さ」
「生きていられるか分からない」
「キミは生きる」
うつむき加減だったアアリが、顔を上げる。アアリの緑の瞳は、震えていた。それは、ジイクの言葉に、どこか突き放したような響きを感じ取って、それを恨めしく思っているかのようだった。
「ニフシェが捕まったろ?」
ジイクは話を続ける。
「ミーシャやイリヤが育つまでには、時間がかかる。それまでは、キミが巫皇を務める」
「でも――」
「いいじゃんか。うちの家系で巫皇になった人は多いけれど、長く務められる人はいない。キミは長いよ」
「ハハ、笑える」
シャンタイアクティにおける巫皇の就任は、御三家に当たるルウ=ラァ家、ダカラー家、ホークハイエスト=ラァ家の子女が優先される。ジイクとアアリのシャンワウスキー家や、シノンのボイサナン家、ルヒナのエルミン家などは、巫皇を輩出する権利を有する家系ではあるが、貴族の家格としては御三家に劣る。このため、たとえ巫皇を輩出しても、その在任期間は三か月から半年程度で、すぐに交代するのが常であった。
御三家以外の出自の巫皇が、長期にわたって在任するということ――それは、災厄が発生し、正常な軌道から外れてしまっていることを意味する。
「ペルジェだって、キミには太鼓判を押してる」
アアリからの返事はなかった。自分の言葉が何ら気休めにならないことは、ジイクも分かっていた。アアリの苦悩は、もっと前段のところにあって、根深い。それは、アアリにはどうすることもできず、と同時に、ジイクにもどうすることもできなかった。アアリが巫皇に就任することは既定路線であり、それは、取りも直さず、過去には戻れなることを意味していた。
「聞かせてよ」
ややあってから、アアリが言った。
「歌うからさ、私」
妹にせがまれ、ジイクはシタールを構える。潮騒に合わせ、シタールから音色が溢れる。
それに呼応するようにして、アアリもまた、静かに歌い始める。アアリは声量を抑えていたが、その調べは粒だっており、はっきりと耳に届いた。それでいて、アアリの歌声は、シタールの音色にも、潮騒にも寄り添うものだった。アアリは歌の名手として、星誕殿でも有名人だった。
夜に沈むシャンタイアクティの街に、ジイクは思いを馳せる。普段ならば、市街の空が紺に染まる時間には、歓楽街には提灯が灯り、大勢の人々が行き交い、歌ったり、踊ったり、奏でたりする。そんな時代は、遠い昔のように思える。その街並みからは火が消え、命が消えたようだった。それでいて、うつろな街並みは、むしろその存在感をむき出しにして、自分たちに迫ってきているように、ジイクには感じられた。
シタールを弾くのを、ジイクはやめる。アアリは泣いていた。
「アアリ?」
「ミカのこと、思い出した」
アアリは言った。
「私、殺したのよ……ミカのこと……」
「キミのせいじゃない」
妹の背中を撫でながら、ジイクは言った。仲間を、みずからの手で葬ったということ。それこそが、アアリが突き当たっている運命の正体なのだと、ジイクは理解した。
「キミはいい巫皇になれるよ。保証する」
海風の冷たさの中で、アアリの身体から伝わってくるぬくもりに、ジイクはじっと、みずからの意識を注ぐ。
「いい巫皇になれる――」
そのとき、背後から、扉をノックする音が聞こえてきた。その音は控えめであったが、確かな決意をもって叩かれているのだということを、ジイクもアアリも直感した。
ジイクの膝から顔を上げると、扉の方向を、アアリは見つめる。アアリはすでに、泣くのを止めていた。扉の外には、後輩たちが――準騎士たちが立っているのだと、アアリは分かっているようだった。
後輩たちの前で、不甲斐ない姿をさらすわけにはいかない。それが、騎士の地位にある者たちの不文律だった。
二人は、並んで立ち上がると、扉を開けた。先頭にはイリヤが立っていて、その後ろには、ほかにも大勢の準騎士や、騎士見習いたちが、ずらりと並んでいた。後輩たち全員の視線は、ジイクとアアリに、まっすぐ注がれている。彼らは結束していて、その決意は固い――これらのことを、二人は瞬時に見て取った。
「お聞き届けいただきたいことがあります」
イリヤが言う。その青い瞳は澄み渡っていた。みずからの勇気だけを恃みにできる者だけが持つ、瞳の輝きだった。
「イリヤ――」
今度じゃダメかな――そう言いかけ、ジイクは口をつぐむ。その言葉は虚しいばかりでなく、後輩たちの真摯さを前にして、あまりにも卑怯だということに、気付いたからだった。
「私たちと一緒に、来ていただけないでしょうか?」
イリヤは続ける。
「ほかの先輩たちにも、それから、救世主様にも、ぜひともお聞き届けいただきたいのです」
海の轟きが、ジイクとアアリの背後でうなる。
「分かった」
アアリが言った。
「よく分かった。私たちは、あなたたちの真摯さに応じる義務がある。行きましょう、イリヤ。どこまでも連れて行きなさい。あなたたちの気が済むまで」
イリヤたちに促され、ジイクとアアリは、部屋を抜ける。




