103_扉の向こう(За дверью)
だれかを嫌いになるために、理由は必要ない。それでも、人はいきなり、だれかを嫌いになどなりはしない。
嫌いになるには、きっかけがある。ペルガーリアとニフリートの場合も、そうだった。
◇◇◇
貴族の子供たちは、物心がついた頃になると、同じ家格の、同じ年齢層の子供たちと相対するのがならわしだった。
同じ家格である以上、将来のキャリアで接触することは明白である。ならば子供の段階で、何の先入見もない段階で知り合っておいた方が、お互いのためになる。子供同士が引き合わされるのは、そうした大人側の都合も背景にあった。
ニフリートと対面する前から、ペルガーリアとジイク、アアリの姉妹は交流があった。三人の接触が早かったのは、ペルガーリアの家系が本家であり、ジイク、アアリの家系が分家に当たるためだ。ペルガーリアの方が二人よりも年上だったから、ペルガーリアはジイクとアアリに対して年長者らしく――要するにガキ大将らしく――振る舞っていた。
とはいえ、ペルガーリアはいばりちらしていたわけではなかったし、そもそもペルガーリアは親分のように振る舞うのが性に合っていたから、ジイクもアアリも、そんなペルガーリアを頼もしく思っており、三人は仲良く遊ぶことができた。
「なあ、ジイク、オレ(ペルガーリアはちびっ子だったときから、自分のことを「オレ」と呼んでいた)はさ、人の心が読めるんだ」
あるときペルガーリアは、ジイクに対してそう言った。
(そんなバカな)
と思ったジイクは、
「ふーん。じゃ、オイラ(ジイクはちびっ子だったときから、自分のことを「オイラ」と呼んでいた)の心を当ててみてくださいよ」
と、戯れにペルガーリアを試した。するとペルガーリアは、
「ジイク、いま『そんなバカな』と思っただろ?」
と返したのだ。これにはジイクもぎょっとしたが、ペルガーリアは笑って
「ジイク、お前は顔に出やすいから、心を読まなくても分かるよ」
と答えた。
その後も、ペルガーリアはことあるごとに、人の心を読む能力を使っていた。特にペルガーリアは、大人たちの心を読むのが好きで、
「○○さんの旦那さんは奥さんに頭が上がらない」
や
「△△さんの奥さんは××さんをよく思っていない」
といったゴシップを、ジイクに漏らしていた。人の心を読むのは、不躾な感じがジイクにはしたが、ペルガーリアは、他人の心を読んで得た事実を公にするようなことはしなかったため、ジイクも、ペルガーリアの戯れをあえて咎めたりはしなかった。
そして、ペルガーリアとニフリートが対面する日が来た。事件はその日に起きた。
◇◇◇
同年代の子供同士であり、家格が近いということもあって、ペルガーリアとニフリートは引き合わされることになった。そのときは、ジイクとアアリの姉妹も、ペルガーリアのお供として加わっていた。
三人にとって、初対面のニフリートの印象は、可もなく不可もなく、といったところだった。ニフリートは今と同じように、機嫌が良くなさそうであり、今と同じように、首が据わっていないような印象を三人に与えた。しかし、それ以外は普通の、単なる育ちの良いお姫様、といった感じだった。
「はじめまして、ニフリート」
貴族の子女らしく、ペルガーリアはさっそく前に進み出ると、ニフリートに握手を求めた。このときジイクは、ペルガーリアは握手と同時に、ニフリートの心を読もうとしているのだ、と察知した。何かいたずらを企てているときのペルガーリアは、ジイクと同じくらい、企てが顔に出やすかった。
「はじめまして」
ニフリートも返事をすると、ペルガーリアに手を差し伸べる。ただ、その手の差し伸べ方は、何かを隠しているかのように、中途半端なように、ジイクの目には映った。要するに、ニフリートは握手をする気がまるでないように見えたのだ。ニフリートの手の差し伸べ方は、相手が手を差し伸べてきているという情報を視覚から受け取ったために、外界からの刺激の応答として、反射的に手を伸ばしたに過ぎない、とでもいうような振舞い方だった。
ただ、ペルガーリアは、その中途半端さに気付かなかったようだった。あるいは、気付いていたのかもしれないが、貴族の子女として社交的に振舞う必要があるという義務感と、ニフリートが何を考えているのかを知りたいという好奇心とが、ペルガーリアの心の裡で勝ったのかもしれない。すかさずペルガーリアは、ニフリートの手を握った。
「会えて嬉しい。これから――」
そのとき、ペルガーリアが不意に言葉を切った。ペルガーリアは、ほとんどその場に釘付けにされたかのようであり、ジイクの目からは、まるで時間が止まってしまったかのように見えた。
「――これからもぜひ、仲良くさせてください」
それでも、ペルガーリアは持ち直して、今までどおり言葉を続けた。
しかしジイクは、硬直した一瞬の間に、ペルガーリアの表情を、ある感情が去来したのを見てしまった。それは恐怖――この世にいてはならないもの、さながら幽霊か何かを目撃してしまったかのような、そんな怖れの感情だった。
「こちらこそよろしく、ペルガーリア。ペルジェと呼んで良いかな?」
そんなペルガーリアの感情を知っているのか、いないのか。ニフリートも返事をすると、握りしめていたペルガーリアの手を揺すった。
「もちろん。ニフリート、キミは何て呼ばれているんだい?」
「”マゾイ”とか、どうかな?」
「マゾイ?」
マゾイ、とは、”魚の目”という意味である。
「ニフリート、キミはそんな変な名前で呼ばれているのかい?」
「どう呼ばれるのかなんて、たいした問題じゃない」
ニフリートはかぶりを振りながら、ペルガーリアに答える。その間も、二人は手を握り締めたままだった。ジイクは初め、ペルガーリアが手を離したがっていて、ニフリートがそれを許さないのだと見て取った。しかし、よく見てみれば、ペルガーリアもニフリートも、お互いの手は微動だにしていなかった。お互いに、それぞれ何かの思惑があって、相手を捕まえて離そうとしないようだった。
「本当はなんて呼ばれているのか、知りたいのならば、鍵を開けて、扉の向こう側へ、足を踏み入れるしかない。キミは喜ぶかもしれないし、驚くかもしれない」
「驚く?」
「そう。『驚く者は、支配するだろう』……」
ニフリートが、『トマスの福音書』の一節を口ずさんだ。
「『支配する者は、安息するだろう』……」
ニフリートの後を受けて、ペルガーリアが続ける。
「だって、その鍵はもしかしたら、外側からかけられたのかもしれないのだから。そのときは、内側に閉じ込められていた何かが、喜んで外に飛び出してくるかもしれない。そして初めて、隔てられていたものがひとつになる。お互いがお互いを、分かち合うことができるようになる。だからペルジェ、ボクと仲良くさせてほしい。キミとならばきっと、楽しい思い出がたくさん作れると思う……」
そう言いながら、ニフリートはそっと、ペルガーリアの手の裡から、自分の白くて細い手を離した。ペルガーリアはと言えば、差し出した自分の手を、じっと見つめていた。
「窓を開けてもいいかしら?」
異様な雰囲気に、そのときのアアリは気付いていなかった。アアリはニフリートに尋ねたが、ニフリートからの返事はなかった。それでも、アアリは否定されなかったことを肯定と受け止め、窓を開け放った。穏やかな昼の陽射しとともに、風が室内を吹き抜け、調度が音を立てた。
◇◇◇
あのとき、ニフリートは“本当には”何を言いたかったのか。ジイクには分からなかった。しかし今となっては、ペルガーリアが自分の心を読もうとしてくることを、おそらくニフリートは知っていたのだろうということだけは、ジイクにも分かる。
その後も、ペルガーリアとニフリートは、しばしば交流した。しかし、ペルガーリアとニフリートの交流は儀礼的で、当たり障りのない会話しかせず、会う頻度もジイク、アアリ姉妹に会うよりも、遥かに少なかった。何より、ニフリートに会うときには、ジイク、アアリの姉妹が必ず一緒だった。
ペルガーリアは、ニフリートが嫌いなのだろう――ジイクがそう感づくのに、時間はかからなかった。
これらのことは全て、ジイクがまだ小さかったころの記憶である。ペルガーリアは今や、「他人の心が読める」ことを周囲に言わなくなった。そもそも、そんなことは子供にしかできない芸当なのだ。しかし、その能力が欠けるきっかけを作ったのは、紛れもなくニフリートである。
握手を交わしたとき、ペルガーリアはニフリートの心の裡に、何を見たのだろうか。ジイクは節目ごとに、そのことを考えていた。そして今は、ペルガーリアが何を怖れていたのか、ジイクにも分かる気がした。ペルガーリアは、ニフリートの心の中に何かを見たから怖れたのではない。何も見ることができなかったから、ニフリートを怖れているのだ。