102_違う島(Разные острова)
――止めよ、止めよ。爾ら、物の理の裡を歩む者らよ。見よ。我は死すべき者の世に降り来らん。(『三体のプローテンノイア』、第11章)
「あっ――」
エリッサは声を上げる。手元から滑り落ちた白い花瓶が、床に当たって割れる。破片は放射状に飛び散って、活けたばかりのひなげしの花が、水を被り、しなびたようになってしまう。
「ちょっと、ちょっと」
立ち尽くすエリッサの下に、リテーリアが駆け寄ってくる。
「ケガはない?」
そう言いながら、リテーリアは、破片を拾い始める。申し訳なさで、エリッサは胸がいっぱいになる。
「ごめんなさい、わたしやりますから」
「いいよ。それにさ、指でも切ってごらんよ。あたしがペルジェに怒られちゃうんだから」
水びたしになった床から、リテーリアは、慣れた手つきで、破片を拾い上げる。大粒の破片を、リテーリアが拾い上げた頃に、どこからともなく、準騎士がひとりやって来た。リテーリア黙って手を差し出すと、準騎士はその破片を受け取る。
「見てごらん」
準騎士に手渡した破片の中から、ひときわ大きなものを選ぶと、リテーリアはそれを、エリッサの前にかざした。
「え?」
「ここ。白い筋がある。ガラスで接いである」
照明の光を前にして、破片はきらめく。きらめき方は一様でなく、まだらに反射した陰影の中に、白い筋が浮かび上がっていた。
「本当だ――」
「昔もドジな奴がいたんだね」
「う……ごめんなさい……」
「これさ、取っといてよ」
リテーリアは改めて、破片を準騎士に手渡す。
「戦いが終わったら、また接いどいて」
「先輩、仲間に伝えておいてもいいでしょうか?」
「何で?」
「その、もし私が斃れたら……」
準騎士の背負う剣の柄が、照明の光を受ける。ためらいがちな準騎士を前にして、エリッサは息を呑むしかなかった。準騎士は、自分よりも年下だろう。にもかかわらず、戦いに備え、覚悟ができている。――花瓶を割って慌てている自分のことが、エリッサは急に恥ずかしくなる。
足元で水浸しになっているひなげしの花びらに、床の埃が混じる。
「余計な心配だよ」
リテーリアが肩をすくめる。
「そんなことより――いや、分かった。気の済むようにしな」
「はい。ありがとうございます」
両手に破片を乗せたまま、準騎士はリテーリアとエリッサに一礼し、下がっていった。
「あのさ、エリー」
通路を曲がり、準騎士の姿が見えなくなるのを確認すると、エリッサの耳元で、リテーリアが囁いた。
「何か、考えごとしてるでしょ?」
「へ?」
「結界張ったくらいからさ、ボンヤリしてる」
「あ……そう見えます?」
エリッサは照れくさくなった。結界を張る儀式の最中から、エリッサはずっと、フランチェスカのことを考えている。儀式の前に、フランチェスカから告白を受けたのは、エリッサにとって、素直に嬉しいことだった。自分を好きになってくれたフランチェスカのことが、エリッサは大好きになっていた。
「はは、ニヤけてますよ、お嬢さん」
エリッサの脇腹を、リテーリアは肘で小突く。
「良いことあったんでしょう? ほら、遠慮しないでさ、オジサンニ言ッテミタマエ」
「その、わたし……フランに告白されたんです」
恥ずかしさに身をよじりながら、エリッサは答える。
「え?」
「その、『愛してます』って、言ってもらえて」
「何て答えたの?」
「『大好きです』って、言いました……」
自分の顔が真っ赤になっているのを感じ取り、エリッサは両手で顔を覆った。
だから、エリッサは当然、リテーリアがどんな表情をしているのか、見ることができなかった。
「じゃあ、エリッサ、あれだよね? 今、幸せでしょう?」
「はい。とても……」
「いいなァ、それは。そんなに愛してくれる人がいるなんて、幸せ者だよ」
リテーリアは窓を開け放つ。エリッサは、両手を顔から離す。そのときには、リテーリアは窓を開け放ち、窓辺に寄り掛かって、煙草を取り出していた。
「リテーリアさん?」
エリッサは声をかけるが、リテーリアは返事をせず、紫煙を吐き出していた。
「ええっと、その……リテーリアさんは、どうなんです?」
「はい?」
「その、愛する人、というか……」
「いたよ。去年までは」
“去年まで”――言葉の響きの不気味さに、エリッサはまじろぐ。
言葉を選ばなければ、リテーリアを傷つけてしまうのではないか。エリッサはそう考えた。しかし、エリッサが考えをめぐらすよりも、リテーリアの方が早かった。
「死んじまったんだな。あたしにとっては、弟だった」
「――ごめんなさい」
気まずさから逃れるすべを失い、エリッサは、卑怯とは分かりつつも、みずからの動揺を隠すため、床にかがんで、ひなげしの花を拾い始めた。窓辺に向かって歩いたリテーリアによって、ひなげしの花の幾本かは踏みにじられていた。
「辛かったな、あのときは。久しぶりに、心が迷った」
鼻から紫煙を吹きながら、リテーリアは言う。
「もともとさ、あたしは孤児だった。魔法が使えたから、星誕殿に拾ってもらって。その子とは血がつながってないんだけど、でも、あたしにとっては弟みたいなもんだった。『医者になるんだ』って言っててさ」
「その……何て言ったらいいか……」
「いいんだ、エリー。もう終わった」
リテーリアはかぶりを振る。
「その代わりさ、フランのことを、ちゃんと愛してあげるんだよ。べらぼうに愛してあげたいと思ったときに、もしかしたらさ、その人はいなくなってしまうかもしれない」
「はい……ありがとうございます」
ひなげしの花を両手に掲げながら、エリッサは言った。
「いい返事」
リテーリアは笑う。
「同じことを、フランにも伝えておくよ。きっとその方がいい。『愛してあげたいと思ったときに、その人はもういないかもしれない』、人はそのようにして生きる。逆に言えば、人はそのようにしてしか、生きることができない」
リテーリアの言葉は、みずからに言い聞かせるかのようだった。
もし、クニカがこの場にいたのならば、リテーリアの“心の色”を、覗く機会があったかもしれない。しかし、クニカはこの場におらず、リテーリアとエリッサが再び会うのは、次の日の朝だった。そのときには戦いが始まっていて、取り返しはつかなかった。