010_手作りの神(Бог Ручной Работы)
――世は過ぎ去るべし、天も過ぎ去るべし。死すべき者にて、生に与る者無きなり。生ける者にて、死に与る者無きなり(この世は滅び、天もまた滅ぶだろう。死人たちは生きないだろう、生者たちは死なないだろう)。【『トマスによる福音書』、第12-1,2節】
「急患なんだ」
ローニャの右手をクニカが、左手をリンが繋いだ格好で、三人は空を飛ぶ。クニカは“祈り”で浮力を生み出し、リンは背中に生えた翼で、推進力を得ている。
「土木作業中に、屋根から真っ逆さまさ。そんで、背中から鉄棒の上に覆いかぶさっちまった。刺さったまま、抜けてない」
「意識は?」
「うわ言で、誰かを呼んでる」
太陽の下、ウルトラの全景を、クニカは見晴るかす。
ウルトラは、四つの川の分岐点に位置する、島の上にできた都市である。商業の中心であるとともに、軍事拠点でもあったウルトラは、島の周囲を白亜の城壁に覆われている。
「すげえ!」
クニカとリンにぶら下がりながら、ローニャが大声で叫ぶ。眼下に広がるウルトラ市街の鳥瞰図に、ローニャは心を奪われてしまったようだった。
「メガネ坊が見たらきっと――」
「分かったから、暴れんな!」
リンが怒鳴る。
「大人しくしてろよ、ハチに刺されてんだから」
「リン、『誰か』って?」
「分からない。今、看護婦さんたちが名簿をひっくり返してる」
〈――続きまして臺下のご麗声です〉
市中放送が、ウルトラに響きわたる。
〈市民の皆さま、ごきげんよう。プヴァエティカ・トレ=ウルトラです〉
市中の全域に、プヴァエティカの声が流れる。上空にいるクニカたちには、あちこちから市中放送が響くために、声が幾重にもなって聞こえてきた。
〈気象台からの予報のとおり、本日は午後から雨となる見込みです。ウルトラ市の全域に結界を走らせる予定ではありますが、万が一に備え、結界が完全に走るまでは、屋外に出ず、共に倶に助け合うように――〉
ウルトラの周囲を流れる川を、クニカは目で追う。大陸の南から流れるサリストク川は、ウルトラの島によって、三つの川に分かれる。西に伸びる二本が、イル側とアッシート川であり、北へと伸び、チカラアリまで続く大きな川が、オミ川である。
特徴的なのが、アッシート川である。“アッシート”とは、キリクスタンの古語で「塩辛い」を意味する。その言葉どおり、アッシート川は淡水を海へ運び、海水をウルトラまで逆流させている。そのため、川全体が巨大な汽水域を形成しており、アッシート川の流域、特にウルトラ沿岸部の“乙女の恵み”と呼ばれる一帯は、大陸でも有数の海水魚の漁場だった。
〈それから、市民の皆様にはもうひとつ〉
放送は続く。
〈明日に、ビスマーの巫皇が、使節を伴って、我がウルトラ市を訪問する予定です。“黒い雨”からの復興は道半ばとなりますが、シャンタイアクティの巫皇とも手を携えれば、私たちは必ずや、この災厄を打ち払うことができるでしょう。では、良い午後を〉
「見えた!」
リンが声を上げる。大瑠璃宮殿の南、広い敷地を有する一角に、建物が見える。中央病院である。クニカはここで初めて、病院の建屋が十字架を模していることに気付いた。
そのとき、不意にリンが翼を翻し、進路を右に変更した。
「迂回しよう」
「どうして?」
「人が多すぎる」
正門の辺りを、クニカは凝視する。クニカの視力では、正門周辺の様子は、周囲の景色に紛れてしまい、よく分からなかった。“鷹”の魔法属性であるリンは、常人では思いもよらぬ遠方までを見通すことができる。
リンに誘導されながら、クニカとローニャは病院を迂回する。三人が目指すのは、病院の裏庭である。
〈聞こえるかい?〉
リンが旋回を始めた矢先、クニカとリンに、チャイハネの声が届いた。その声は、「耳に聞こえてくる」というよりも、「頭の中に直接届く」ような声だった。共感覚だ。
〈裏に回るんだ。正面はすごい人で――〉
〈チャイ、今、裏庭に向かってる〉
クニカが答える。
〈なら、屋上だ。そっからの方が早い〉
「屋上だって」
「任せろ」
中央病院へと近づくにつれ、クニカもようやく、人だかりを判別できるようになる。病院の入り口には、オートバイやトゥクトゥクが入り乱れていた。地上の人々は、互いに何かを言い合っては、空を飛んでいるクニカたちを見て、指を差している。
何を言っているのか、クニカには察しがつく。人々は皆、“救世主”・クニカの“奇蹟”を見ようと、病院までやって来たのだ。
そんな人だかりを真横に眺めつつ、クニカとリン、そしてローニャは、屋上に着陸する。「あっ、屋上へ行ったぞ!」――屋上へと抜けた際に、ひとりの声が、やけに大きくクニカの耳に聞こえた。
「ご苦労さん」
屋上の扉が開く。看護師の婦長と横並びに、チャイハネが飛び出してきた。しわだらけの白衣を身にまとったチャイハネは、不機嫌そうにあくびをしている。
「急患は一階だ。ローニャ、久し振り!」
「ひいっ?!」
チャイハネと目が合った瞬間、ローニャはリンの真後ろに隠れる。
「くっつくなよ、暑いだろ!」
「いいよ。同じ場所で診察しよう。ハチに刺されたんだって? 薬でチラしときゃ平気だよ。座薬かな」
「い、嫌だ……!」
チャイハネは笑いながら、クニカたちを案内する(リンは、自分にしがみつくローニャを引きずりながら歩いた)。
「来たぞ!」
「うわっ?!」
廊下を通り抜けようとした矢先、病室の隙間から、クニカに向かって手が差し出された。驚いたクニカがそちらに目を向けると、骨ばった老人が、クニカにすがろうと、指を震わせていた。
「手を握ってください……」
「はいはい、爺さん。あとであたしらが、好きなだけ握ってあげますからね」
婦長さんが、無理やり老人の手を病室まで引っ込めさせる。
「あの爺さんはただのぎっくり腰だよ。すぐに若い子に甘えたがるんだから」
「ハハ。――うわっ?!」
急に後ろから引っ張られ、クニカは転びそうになる。
「ちょっと!」
「触ったぞ!」
右手を高く掲げながら、青年が大声を上げて、クニカたちから遠ざかる。
「おれ、救世主に触ったんだ!」
「チャイ、アイツぶん殴っていいか?」
「ぶん殴ったら、どうなる? 病院送りだろ? 嫌だよ、あんな馬鹿の手当てなんて」
チャイハネは肩をすくめる。
「気にすんなよ、クニカ。みんな舞い上がってんだよ」
「うん」
生返事はするものの、クニカは落ち着かない。
ウルトラ市復興の序盤に、クニカは“救済の光”を用い、多くの人々の病気や怪我を癒した。このことはすぐに市中全域に広がってしまい、いつしかクニカを“救世主”と崇める人が増え始め、一時期はさかんに握手を求められたり、クニカの服に触りたがる人で周囲がごった返した。今は落ち着いてきたが、クニカに触れ、ご利益のようなものを得たいと考えている人は、まだまだ多いようだった。
◇◇◇
消毒粉末を頭から振りかけられ、クニカは【治療室】に入る。血の臭いを覚悟したクニカだったが、足元に投げ出されたホースから水が溢れるだけで、その水の冷たさのほかに、五官を刺激するものはなかった。
診察台の上には、男性が仰向けに横たわっている。男性の腹には、鉄の棒が垂直に刺さっていた。ローニャの目を手で覆うと、衝立で仕切られた別の診察台まで、リンはローニャを誘導する。
「唯一良かったことがあるとしたら、刺さり方かな」
リンを目で追いながら、チャイハネは言った。
「胸部だったら、もう助からない。心配なのは、腹膜炎や腹腔内出血、あとは鉄棒を引き抜いた時の出血かな」
「クニカちゃん、お願いね」
「は、はい」
婦長さんにうなずき返すと、クニカは男性に近づく。男性の肌は紙のように白く、紫色になった唇が目立った。
投げ出された男性の右手に、クニカが手を添える。男性の唇が、かすかに開く。男性は何かを言おうとしていたが、吐息が漏れるばかりで、クニカは声を聞き取ることができなかった。
そのとき、【治療室】のドアがノックされ、誰かが入ってくる。
「クニカちゃん、ジュリさんから電話が」
別の看護婦が、クニカを探しにやって来たらしい。
「取り込み中だよ」
婦長さんが、クニカに代わって答える。
「ジュリだろ? オレが出るよ」
「リン、ありがとう」
クニカは右手を、男性の脇腹に添える。鉄棒の根元をクニカが握り締めた瞬間、男性はうめいた。
「じっとしててね」
男性に言うと、クニカは右手に力を込める。“竜”の魔法属性は、思念を現実に置換する力を持つ。だからクニカは、男性の身体から鉄棒が抜け、傷口が塞がっていく様子を思い描いた。
「すごい……!」
背後から、婦長さんのため息が漏れる。クニカの右手からは、光が溢れていた。“救済の光”だ。
男性が声を上げる。次の瞬間、クニカの握り締めていた鉄棒が、男性の身体から離れた。患部から血が噴き出す代わりに、“救済の光”が傷口に注ぎ込まれていく。
光が収まった。男性の傷口は塞がって、跡形もなくなっていた。
「大丈夫かい?」
額から汗を流しているクニカを、婦長さんがいたわる。
「ええ、まあ……」
「やったな」
衝立の向こう側から、チャイハネと、ローニャが姿を見せる。パンツを脱がされ、ローニャは、お尻が丸出しだった。
「人助けってのはいいもんだ。あたしもクニカみたいになりたいよ」
そう言うと、つまんでいた座薬を、チャイハネはローニャの肛門に無慈悲に叩きつける。
「あああああああっ?!」
(ローニャ……かわいそうに……)
「ここは……?」
横たわっていた男性が、声を上げた。男性は、診察台の上から降り注ぐ照明のまぶしさに、顔をしかめている。
「覚えてないのかい? アンタ、作業現場から落ちて、鉄骨が刺さっちまってたんだよ」
クニカの手から鉄棒をひったくると、婦長さんが、それを男の前に掲げてみせる。
「クニカちゃんがいなかったら、死んでたかもしんないんだよ? 感謝しないと――」
「セーリャは?」
「はい?」
婦長さんは目を白黒させる。
「誰だい、セーリャって?」
「俺の娘だ」
溜息をつくと、男性はクニカに目を向ける。クニカはどきりとした。
――うわ言で、誰かを呼んでる。
――リン、「誰か」って?
――分からない。
リンとのやり取りが、クニカの脳裏によみがえってくる。混濁する意識の中で、男性はずっと、娘の名前を呼んでいたのだろう。
「死んじまったんだよ。セーリャは」
天井を仰ぎながら、男性は言った。
「だけど、さっきまで一緒だった。手を繋ぎたかったけれど……『まだこっちに来るな』って……。生かされたんだなァ」
「ばか。大人が泣いてどうすんだい」
涙を流す男性に、婦長さんが言う。
「セーリャちゃんに生かされてるって言うんなら、その命、大事にしなさいよ」
「ありがとうな……助けてくれて……」
「う、うん……」
男性に手を振りながら、クニカは診察室から出ようとする。
「助かったよ、クニカ。悪かったね、わざわざ呼び出して。ほら、ローニャ、いつまでもメソメソすんな」
「メソメソ……」
「来たぞっ!」
扉を抜けた矢先、クニカに向かって、大きな声が飛んだ。クニカは大勢の人々に取り囲まれる。
「ちょっと……」
チャイハネが何かを言いかけるが、人の波に呑まれ、ローニャと一緒に、どこかへと押し出されてしまう。
「救世主だ!」
「手を握ってください、クニカ」
「押すな! 順番待ちだ!」
「触ってもいいですか?」
「ええっと……」
クニカは逃げ場所を探した。しかし、大勢の人々が密集してしまっているために、逃げ出す余地はなかった。たくさんの大人たちが、自分の周囲を取り囲んでいるのを見るだけでも、クニカは足がすくむ思いだった。
「そういうのは……うえっ?!」
「見つけたぞ」
クニカはいきなり、誰かに首根っこを掴まれる。振り返ってみれば、リンが肩をいからせながら、人ごみの中を強引にかき分けている。
「あっ、あの子、救世主を独り占めするつもりだぞ!」
「うるさいな!」
背後からの野次に、リンがすかさず反応した。リンの言い方はぞんざいだったが、クニカが思っていたことだった。“救世主”と呼ばれて、ちやほやされることが、クニカは嫌だった。自分は“救世主”と呼ばれるほどの大した人間でもなければ、いざと言うとき、本当に救世主と呼ばれるほどの働きをすることはできない、と、クニカは考えていた。
「リン、ごめんね」
「嫌なことは『嫌』って言えよ」
病院の中庭へ飛び出すと、リンは翼を広げる。飛び立とうというリンの合図に、クニカはただならぬものを感じた。
「どうしたの?」
「ヤバいんだ」
リンは唇を引き結んでいる。
「セヴァとミーナが、脱走した」