001_青い空の青さ(Синева Голубого Неба)
――爾ら我を求むれども、我を見出せざる日こそ来るなれ。(お前たちが私を求めても、私を見出せなくなる日がくるであろう。)【『トマスによる福音書』、第38節】
目を開けたクニカは、みずからがぬかるみの中に膝をつき、指が地面の泥に埋まっているのを目撃する。
“また”だ。――後ろを振り向くと、クニカは地面を蹴って、空中に身を躍らせる。はね返った泥が、クニカの衣服を汚すことはない。空中へ飛び出すと同時に、クニカは空を飛び始めたからだ。
この世界が夢であると、クニカは知っている。眠りのまどろみに沈んでいった先で、この雲と、水浸しの大地とに覆われた”うすあかり”の世界に落とされるといったことを、クニカは何度も経験しているからだ。そして、次に何が起こるのか、結末がどうなるのかを、繰り返し観た映画のように、クニカはよく知っていた。
しかし、結末を知っていることと、結末に満足していることとは、別の問題だった。もっと早く! ――そう念じてクニカが速度を上げるのも、それが理由だった。
カゴハラ・クニカは、
“竜”
の魔法使いである。空を泳ぎ、海を飛び、想像できるすべてを“祈り”によって現実に置換できる、特別な魔法。“竜”の魔法使いとしての能力を解き放ち、泥と水でできた“うすあかり”の世界を、地平線目がけて飛んでいく。
地平線の向こう側で、青い空の青さが、その濃さを増していく。やがて色濃くなった部分は周囲から切り取られ、輪郭を形成しはじめる。輪郭は人の形を帯びている。自分の鼓動が高鳴るのを、クニカは感じ取る。
人形の青色は、その濃さを増していき、とうとう黒色になる。地平線の彼方に、巨人が屹立していた。巨人の腰から下は、地平線の向こう側に隠れ、その頭は、空の高いところにある。本当に、巨人には頭があるのだろうか? それでも、クニカは巨人の頭がある辺りを見据えていたし、巨人のまなざしが自分に向けられるのを感じ取っていた。
一年ほど昔、クニカは“地球”という世界で、加護原 国香という名前の男子高校生だった。ところが、ささいなきっかけで生死をさまよう間に、クニカは“キリクスタン”という国で、少女に生まれ変わっていた。
“黒い巨人”が身じろぎをする。クニカは焦った。これまでに何度、クニカはこの夢を見て、何度に追いつこうとして、そして何度、挫折を味わったことだろう。
クニカが“竜”の魔法使いになれたことは、偶然ではない。この世界に転移する直前に、 “竜”の魔法をクニカに授けたのは、ほかならぬ“黒い巨人”だった。この世界に生まれ落ちてから、今いる街まで――ウルトラまで――たどり着いた頃には、クニカは魔法を使いこなせるようになっていた。そしてクニカは、“黒い巨人”を忘れてしまっていた。
しかし最近、眠りに就くたびに、クニカはこの始まりの場所、“黒い巨人”と出会った“うすあかり”の世界に引きずり出されるようになった。
「待って!」
待ってってば! ――と、クニカは叫び続ける。しかし、巨人が待つことはないのだ。いつもと同じように、“黒い巨人”は、クニカの前から姿を消すだろう。声を張り上げながらも、心のどこかで、クニカはそれを覚悟していた。
しかし、もし今回だけは、自分の願いが通じるとしたら? もし“今回だけ”は、クニカが黒い巨人の背中に追いつけるとしたら? そう考える自分がいることも、クニカは知っていた。
巨人の輪郭がぼやけ始める。身体の粒子が大気中に発散したようになって、身体が透き通り、青空に溶け出していく。
「お願い――」
クニカの声は風に流れ、“うすあかり”の世界に吸い込まれていく。その頃にはもう、“黒い巨人”の姿は、跡形もなく消えさっていた。
それから終わりがやって来る。正面から吹き寄せてきた風の束を前にして、クニカは空中で静止する。顔を庇わなければ、突風を前にして、息ができないくらいだった。
世界全体に、黒い帳が降り始める。岩壁のように強固な風が、雲と泥を、天と地とを吹き上げ、一点に吸い込もうとする。大きな渦に巻き込まれながら、クニカは自分の夢の中から投げ出されようとしていた――。