【終末ワイン】 シルバーリングス (28,000字)
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
12月31日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、9001通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
6畳の畳敷きの居間に置かれたちゃぶ台の前で、今年で70歳になる宮島辰夫は新聞に目を落としていた。宮島は定年となる65歳まで働き続け、千葉県の郊外に建つ小さい一軒家で同年代である妻の友恵と慎ましい定年生活を送っていた。
宮島が生まれたのは今も住む町の市営住宅。その家から10キロ程行った場所にある物流倉庫で働く父親と専業主婦の母親との間に生まれた。
宮島が25歳の時、知り合いから今の妻である友恵を結婚を前提として紹介され、付き合う時間も無いままに結婚した。市営住宅は両親と若い夫婦が一緒に暮らすには非常に狭く、安アパートを借りると共に家を出た。
30歳になると男の子を授かった。それを機に小さいながらも生まれ育った町の今も住む中古の1軒家を購入し、週末になると両親の元へと子供を連れてよく遊びに行った。
40歳の頃にその両親を立て続けに亡くした。定年を目前に突然亡くなった父親は特に遺産を残すでもなく、母親もその後を追うようにして突然亡くなった。
50歳の頃には一人息子が結婚をしたと同時に家を出ていった。それから数年後には可愛い孫娘が生まれた。
宮島の一人息子である長政は宮島の家から50キロ程離れた同じ千葉県に居を構えてはいたが、大した距離では無いとはいえそうそう会う事も無かった。
宮島は主に通勤で使用していた軽自動車を今でも所有していたが、定年となった今では時折妻の買い物に付き合う以外にほぼ乗る事は無かった。20年近く乗り続けているその車は艶を失い所々錆も浮き始め、要らないと言えば要らない物ではあったが、宮島の住む町は公共交通手段といった不便さがある事からも保険のつもりで所有しているにすぎない。その車で以って孫娘に会いに行こうと思えば2時間弱で行けはするが、今の年齢となっては長距離とも言える距離でもあり、慣れない道を走るのも不安があった。電車で行くとドア2ドアで3時間近くかかり、長政の家も広い訳では無い為に日帰りを余儀なくされる事から、往復6時間にも及ぶ電車での日帰りをするのは不可能では無いが現実的では無かった。
長政も通勤用を主として軽自動車を所有しており、孫娘が生まれた直後には往復4時間という道程を無理して来てくれてもいたが、年を追う毎に回数も減り、正月や盆、G/W等の休みで無ければ、宮島が孫娘と会う事も殆ど無かった。電車で来る事も可能ではあるが、妻と孫娘との3人で来るとなるとそれなりの時間と交通費も掛かり、長政も決して裕福な生活を送っているとは言え無い中、娘の為の養育費を捻出するので精一杯でもあった。
退職時には多額とは言えないもののそれなりの退職金も手にし、少ないながらも年金もある。散歩する事を日課とする以外他に趣味がある訳でもなく、高齢の夫婦2人が慎ましく暮らしていくには十分でもあった。
そんな毎日に宮島は満足していた。何をするでも無く、良くも悪くも波も無い凪と言えるそんな生活に満足していた。テレビを見ていると大きい家や豪華なマンションに住み、豪華な食事や夫婦揃って海外旅行という話が時折躍るが、それらを目に耳にしても今の生活に満足していると胸を張って言えた。
若い時分には欲しい物や味わってみたい物も多かったが、年齢を重ねる毎にそう言った欲は消えていく。70ともなればただただ流れるのんびりとした時間だけがあれば良いと思う様になった。自分と結婚してくれた妻との間に子供が生まれ、社会人となるまでその子供を育てる事が出来、定年まで無事に働く事が出来た。そして今、妻との穏やかな日々に満足していた。
毎日の様に新聞に目を通し、世の中の出来事を知るという事をしてはいるが、どちらかといえば思い出のみで今を生きていた。
しかし時折ふと想う。自分がもっとお金を稼ぐような仕事にありつけたならば、妻には沢山の旅行や素敵な家や服や家具を、子供には学費の高い学校や習い事、やりたい事を好きなだけさせてあげられたのかもしれない、もっと質の高い良い暮らしを提供出来たかもしれないなと。学生時代の長政は特に不満を口にした事は無かったが、それなりに肩身の狭い思いをさせていたのでは無いだろうかと。
既に両親は他界し兄弟も無く親戚とも疎遠となり、今は妻だけが話相手でもある。本当はどう思っているのかは定かでは無いが、妻からは愚痴を聞いた事も無い。宮島はそんな不甲斐無い自分に付いて来てくれた妻や子供に感謝をしている。年齢を重ねる毎に、その感謝の気持ちは増えていった。
午前中は夫婦揃って朝食を食べた後、テレビをBGMにゆっくりと新聞を読む。午後になってからは夫婦揃って散歩に出かける。それが宮島にとって、宮島の妻である友恵にとっての今の日常であった。
◇
正月の三が日も終わり、まだまだ外は寒く時折雪がちらつく事もある季節ではあるが、宮島と友恵の2人は天気が良い事から自宅近くを散歩をしていた。国道や県道といった幹線道路からは離れた自宅近くの道沿いには田園が広がり、低い山々に囲まれた景観は散歩するには適していた。既に耕作シーズンでもなく山の緑は枯れてはいたが、それでも都会の様なコンクリートばかりを見るような散歩とは異なり、山の稜線を目に歩くだけでも気分を晴れさせた。そんな中を、2人は横に並びながら何を話すでもなく歩き続ける。
昨日迄、息子夫婦が孫娘を伴って宮島の家に泊まっていた。大晦日の午前中にやってきて三が日の最終日である昨日に帰って行った。元日には宮島の自宅から歩いて1キロ程の神社に5人で初詣をした。騒がしくも楽しい四日間はあっという間に過ぎ去り、寂しさだけを残して息子夫婦は帰って行った。
宮島の方から孫娘に会いに行った事もある。そこから友恵と2人で自宅へと帰る時には寂しさを覚えた。だが帰路という行程を経る事によって寂しさは軽減している気がした。自分の家から孫娘が去って行く姿を見送る寂しさは何とも言えず、自分が取り残さるような感覚を覚えた。来てくれるのは有難いが、別れ方で言えば自分が去るより去られる方のが辛い気がするなと、宮島はしみじみと思う。
その四日間の余韻も冷めきらぬ中、宮島と妻の友恵はいつもの日常へと強制的に戻された。そしていつもの散歩を終えて自宅へ戻ると、宮島は自宅の郵便ポストの中を確認した。中には町内会のチラシと葉書が一通投函されていた。宮島が手にした町内会のチラシは町内での新年会に関する案内であった。宮島は中身をよく読まないままに友恵にチラシを手渡した。こういった物はよく見ずに友恵任せである。
そして残る葉書を手に取った。その葉書の宛先には『宮島辰夫様』と自分の名前が記載されていると共に、その左横には注意を引くような赤い文字で『終末通知』と記載されていた。
◇
居間のちゃぶ台の上には宮島宛の終末通知が置いてあった。そのちゃぶ台を挟んで宮島は胡坐をかき、友恵は背中を丸めながらに正座をしていた。
宮島は「しょうがない」といった半ば諦めた様子で以って、虚ろな目をしながら葉書を見つめていた。既に70を超え子育ても終わっての年金生活。十分に長生きはしたと自分に言い聞かせていた。
友恵は「何でこんな事に」と、定年まで働き続けてそれをようやく終えた矢先に何故に夫がと、肩を落とし虚ろな目で葉書を見つめていた。
終末通知の制度の事は夫婦共に知ってはいた。新聞やテレビのニュースでも見聞きしていた。近所に住む人の親戚が受け取ったと聞いた事もあった。しかし何処か他人事であった。人が死ぬ事は自然であると頭では分かっていても、いざ自分に具体的に死を思わせる事など今までなかった。しかし厳然とそれは目の前にあった。
圧着タイプのその葉書は未だ開いていなかった。開いたその中には自分がいつ死ぬかの日付が記載されている事は知っていた。しばらくして、宮島はちゃぶ台の上の終末通知を手に取り中開きのページを開いた。
『あなたの終末は 20XX年 2月10日 です』
葉書を開いてすぐに目に飛び込んできたのはそんな文言。この葉書が投函されていた時点で既に自分がもうじき死ぬという事は分かってはいた。そして改めて「この日に亡くなります」と突き付けられた訳ではあったが、今だに実感が湧かなかった。
「ふぅ。まあ、こればっかりは、しょうがないか」
記載されている終末日から逆算すると宮島に残された時間はほぼ1カ月となっていた。宮島は照れるとも誤魔化すとも言えない笑顔を浮かべつつ、自分に言い聞かせるようにして言った。
「でも何で――――」
友恵は途中で口を噤んだ。その先の言葉は「何で主人が」と言おうとしたのだが、それは言い換えれば「他の人なら良いのか」と言う事だと、瞬時に頭を過ったからであった。
宮島はその葉書の中、ふと「終末ケアセンターの問合せ先」という記載に目が留まった。最初見た時には気付かなかったが、終末日が記載されている横にそれは記載され、その下にはQRコードが併記してあった。だが宮島も友恵もQRコードの使い方を知らなかった。更にその下にはURLも併記されていた。
宮島の自宅には殆ど使用する事の無いノートパソコンがあった。それは長政が買ってくれたものであり、その際に長政や嫁からある程度の使い方を教わっていた。とはいえほとんど使う事は無く、居間の壁際に置かれた低いテーブルの上でそれは埃をかぶっていた。
宮島は胡坐をかいた姿勢のままにノートパソコンの前へと移動し、手で以って埃を払うと早速画面を開いて電源を入れた。そして慣れない手つきで以ってウェブブラウザのソフトを立ち上げ、併記されていたURLを右手人差し指だけでも以って直接キーボードで打ち込んだ。
『終末の過ごし方』
殆ど使用する事の無い自宅Wifiを通じてそんなタイトルのホームページが開かれ、そこには「今まで通りの生活をするか、安楽死を望むか」といった、一見過激に思える文言が書かれていた。
「そうか……安楽死という選択肢があったな……」
宮島は呟くように言った。そのページの最下部には「安楽死を望むならホームページに記載されている自治体の終末ケアセンターに来てください」とも書かれ、その文言のすぐ下には『最寄りの終末ケアセンター』と書かれたボタンがあった。
宮島は慣れない手つきでマウスを操作しボタンに合わせてクリックした。すると日本地図が表示されると共に、最上部に「郵便番号を入れて下さい」という文言と郵便番号を入力するボックスが表示された。その横には「車」「電車」と書かれたチェックボタン、「検索」と書かれたボタンがあった。宮島は「詐欺では無いよな」と心配しながらも恐る恐る自宅の郵便番号を入力し、「車」のチェックボタンをクリックし、最期に「検索」ボタンをクリックした。
すると、画面に表示されていた日本地図が見る見る内に拡大表示されていき、2つの地点を結ぶ道が表示されると共に左側には文字で以って経路が表示された。そこには、宮島の自宅付近から最寄りの終末ケアセンター迄は20キロ程であると表示されていた。
「なあ、友恵。とりあえず明日にでも、この終末ケアセンターという所に行ってみようか?」
宮島は画面を見ながら呟くようにして、ちゃぶ台を前に肩を落とす友恵に言った。
翌日、宮島は厚手のシャツにセーターを着込みグレーのビジネスコートを羽織った上からマフラーを巻き、コートの内側ポケットへと終末通知の葉書を忍ばた。友恵は数枚のシャツを着込んだ上からワインレッドの薄手のダウンジャンパーを着込み、寒さ対策を万全に2人が家を出ると、最寄りの地域循環のバス停までの2キロの道を歩き始めた。
昨日は車で行こうと考えてはいたものの、終末ケアセンターまでの20キロという距離は短いとはいえ、良く知らない道を車で走るのは年齢的にも不安があり電車で行く事にした。
2本のバスを乗り継ぎ駅へと向かい、駅から数本の電車乗り継いだ。そしてようやく2人が終末ケアセンターの最寄駅へと到着すると、そこから更に30分程を歩き続けて目的の場所へと到着した。
そして今、2人の目の前にはもう少し古びていれば史跡とでも言えそうな総石造りと見紛う3階建ての大きい建物が建っていた。一見、西洋の神殿を思い起こさせるような石柱が建物の周囲をぐるりと囲み、その頭上を屋根瓦で覆うといった和洋折衷の建物。宮島は「随分と立派な建物だなあ」と、ぼそりと呟いたが、友恵は何の反応も見せなかった。
結局宮島の自宅から終末ケアセンターまでは20キロの距離に対して正味2時間弱かかり、宮島も友恵もクタクタとなり今更ながらに多少不安があっても車で来ればよかったなと後悔した。
その建物は歩道に面し、建物の玄関は低めの段差と奥行きの長い5段の階段を上った先にあった。宮島が階段への一歩を踏み出すと、それに続いて友恵も階段に足を掛けた。そして2人が全面ガラスの玄関口までやってくると、両引き戸の自動ドアがゆっくりと開き始めた。
音も無くスーッと開かれた自動ドアを通って2人が中へと入ると、そこから10メートルほど離れた正面の上部に「受付」と書かれたブースが2人の目に留まった。横幅約5メートルといった素っ気無いそのブースには、制服と思しき明るいグレーのブラウスに濃いグレーのリボンタイといった装いの2人の女性が座っていた。2人の女性が玄関口の宮島と友恵に気が付くと、座ったままの姿勢で宮島と友恵に向かって軽く頭を下げた。それを見た2人すぐに軽く頭を下げ、女性達が座る受付へとまっすぐに向かった。
受付前までやってきた宮島と友恵に対し、2人の女性は「いらっしゃいませ」等と声をかけるでもなく、ほんの少し口角をあげた表情で以って2人を迎えた。
「あの、終末通知の葉書を貰ったんで、一応来てみたんですが」
宮島は軽い笑みを浮かべながらそう言って、コートの内側ポケットから終末通知の葉書を取り出した。
「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」
受付に座る女性はそう言ってどこかに電話をかけ始めた。宮島は終末通知の葉書を再びコートの内側ポケットへしまうと、手持無沙汰に建物の中をぼんやりと眺めながらマフラーを外しコートを脱ぎ始めた。受付付近は吹き抜けの空間で一見して広い事が見て取れた。そんな広い空間の中、直前まで30分という時間を歩き続けた宮島には少し暑く感じる程に空調が保たれ、コートを脱いで丁度良いという程に暖かかった。友恵は宮島の一歩後ろに立ち、視線だけを大理石に床へと落としぼんやりと見ていた。宮島と共に歩き続けてきた訳ではあったが、友恵はダウンジャンパーを脱ぐ素振りさえなかった。
2人が受付付近で待つ事数分。コツコツと、ゆっくりとした足音が響いてきた。その足音は徐々に近づき2人の1メートル手前まで来て止まると恭しく頭を下げた。
「初めまして。私、井上正継と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
整えられたショートヘアに銀縁眼鏡、濃いグレーのスーツとそれより薄いグレーのネクタイを着用し、スーツの上からでもすっきりとした体躯が見て取れる、20代後半と思しき宮島の息子よりも若く見えるその男性は、手に持っていた2枚の名刺を宮島と友恵のそれぞれに向かって両手で差出した。
井上は終末通知の件で来た人を担当する終末ケアセンターの職員である事、職務としてはカウンセラーのような立場であると、2人の顔を交互に見ながら説明した。
簡単な自己紹介を言えた井上は「では、こちらへどうぞ」と、2人を先導するように受付横の廊下を歩き始め、宮島と友恵もそれに続いた。
そして宮島と友恵の2人は部屋に入った正面が広大な庭を望む全面透明ガラス、残り3面の入口扉を含む壁全面が曇りガラスという、秘匿性も遮音性も感じない10畳程の広さの中に、銀色に鈍く輝くステンレスで出来た長方形のテーブルと、そのテーブルを挟んで3つづつの計6つのステンレス製の椅子が置いてあるという質素で簡素な打合せルームへと案内された。
部屋に入った直後、宮島は正面の大きいガラス越しの庭に目を留めた。ガラス越しの向こう側には綺麗に整備された一面芝生の庭が広がり、3階にも届きそうな高い木が奥も見通せない程に沢山生えていた。そして一面芝生の地面には多くのベンチとイスがテーブルとセットで置いてあった。
所在なさげな友恵、そしてぼんやりと庭に目を取られていた宮島に向かって「そちらにお座りください」と、井上が声を掛けつつ向かいの椅子を手で指し示すと、2人はそれに従い井上の向かいの椅子へと腰掛け、それを見届けた井上も椅子に腰かけた。
「では最初に顔写真付きの身分証明書となる物と、終末通知の葉書をご確認させて頂いて宜しいでしょうか? 万が一にも別人の方と言う事が無いように確認が必須となっておりますので」
井上の言葉に宮島は、コートの内側ポケットから再び終末通知を取り出し、スラックスの後ろのポケットから財布を取り出しその中から免許証を取り出すと、テーブルの上、井上の方へと向かって差し出した。
差し出された終末通知の葉書と免許証を前に井上が「拝見させて頂きます」と、一言いって手に取り目視で確認すると、持参していたタブレット端末のカメラで、終末通知の見開いたページの中に記載されているバーコードを読み取った。
「確認致しました。有難う御座います。それではこちらの施設他について説明させて頂きます」
井上は笑顔でそう言って、終末通知の葉書と免許証を宮島に返すとタブレット端末を2人に見えるように傾けた。そのダブレットの画面上にはグラフデータが表示されていた。
「この終末通知を受け取った方の中で、実に2割近くが悲観して飛び降り等の自殺をしてしまうようです。1割位の方は自暴自棄になり事件を起こすという事例もあるようです。又1割近くの方はこの葉書が届かないか見ていないかのようです。それ以外の方の多くが、とりあえず終末ケアセンターにお越し頂いて、私達職員とお話させて頂いております。お話をさせて頂いた内訳では40代位までの方で奥様や小さいお子様がいらっしゃる方は終末日近くまでご夫婦で過ごし、直近にこちらの施設にきて安楽死を望まれる方が多いですね。ご高齢のご夫婦の方ですと、ご自宅で最期を迎えたいと仰る方が多いですね。単身者の男性の場合ですと年齢関係無く、早急に安楽死を選択する方が多いですね。女性の場合ですとギリギリまで旅行や食事等を経験した後に安楽死をするという傾向でしょうか。それ以外で言えば、経済的に厳しい方は早めに安楽死なさる傾向にありますかね」
「はあ……なるほど、そうなんですか……」
「終末通知を受領されている段階で、クレジットカード等の信用取引は出来なくなっておりますのでご注意ください。今後は現金取引のみとなります。口座引き落としのカードでしたらご利用なれます」
「ああ、それなら大丈夫です。カードの類は持っていないので。それで一番聞きたいのは安楽死についてなんですが、安楽死とはどのような方法なんでしょうか?」
「一言で言ってしまえば、服毒になります」
井上の口から出た『毒』というワードに宮島と友恵は目を見開いた。
「毒を服用すると言ってもマンガみたいなドクロマークのついた瓶の毒を飲んで苦しみもがいて亡くなるという事ではありません。苦しんでしまうようでは安楽死とは言えませんからね。では少々お待ち頂けますか?」
井上はそう言って席を立ち、1人部屋を出ていくと建物の奥の方へと去って行った。
数分後、片手でも持てそうな程の大きさの木箱を手に、井上が打合せルームへと戻って来た。井上は木箱をテーブルの上に置きつつ椅子に座ると、2人に対して木箱の中が見えるよう傾け「こちらは終末ワインと呼ばれる物です」と言って見せた。
井上が持って来た木箱は高級そうではあるものの、使い古された感じの残る長さ30センチ程の蓋の無い木箱。その箱の中には中身が入っていない事が傍目で分かる、薄茶色で細長い凝った意匠のある瓶が、青いサテン生地のクッションの中で横になって入れられていた。
「……ワイン? ワインなんですか?」
宮島は怪訝そうに眉をひそめ首を傾げた。
「はい。こちらが安楽死の為の飲料となります。終末通知を受け取った方が自ら終末を迎える為に用意された劇薬です。厳重に管理が必要な為に終末ケアセンターでしか提供が出来ません。承諾書に宮島様の自筆による署名を頂いた後、当ケアセンター内、且つ職員立会いの下で服用頂けます。といってもこれ自体はサンプルですけどね。本物は本番に時に提供させて頂きます」
「それを飲んだら直ぐに死ぬという事ですか?」
「はい。苦しみ無くお亡くなりになる事が出来ます。こちらを服用直後、強烈な睡魔が襲ってきます。そのまま眠りにおち、徐々に呼吸数が落ち、長くても30分以内に呼吸が完全停止します。こちらを飲まれた方のほとんどが良いお顔で亡くなっていかれました。ただ解毒剤も無く、即効性がある物ですので、服用後は後戻りは出来ませんけどね」
「そうですか……。あの……。実は恥ずかしながら私は下戸でして。それ以外に方法は無いのでしょうか?」
宮島は俯き加減に少し恥ずかしそうに言った。
「それには心配及びません。そう言った方々も飲めるノンアルコールの物も用意してあります。終末ワインのノンアルコール版で最高級のぶどうジュースです。こちらには未成年の方も当然いらっしゃいますしね。故にご心配には及ばないかと」
「そうですか。それなら私も大丈夫そうですね」
直後宮島は、飲んで直ぐに意識を失うのというであれば下戸でも関係無いかと気付き、そんな事を質問した自分が恥ずかしくなり俯いた。
「他に何か質問等あれば何でも聞いてください」と、ひとしきり話を終えた井上が笑顔で言ったその言葉に、「別に今日でなくても宜しいんですよね?」と、友恵が心配そうな表情で質問した。
「勿論です。とりあえずこちらの説明は終わりましたので、これよりご自宅にお帰りになって、ごゆっくりと残された時間の使い方についてお考え下さい。ご家族や御親戚に相談する、親しい人と会っておく等、過ごし方は色々とございますしね」
友恵は「ですよね……」と、力無くそう言って、宮島同様に俯いた。
暫くの沈黙の後、宮島がおもむろに顔をあげた。
「じゃあ、我々はこの辺で」
宮島はそう言って目で合図を送るかのように友恵をチヤリと見やった。そして席からおもむろに立ち上がると友恵も席を立ち、2人揃って井上に向かって軽く頭を下げた。それを見た井上も直ぐに席を立って頭を下げた。と同時に打合せルームのドアへと駆け寄り、2人の方へと向き直り「どうぞ」と言いつつドアを開た。宮島と友恵は頭を下げながらドアから廊下へと出ると、そのまま玄関口へと向かい、井上も2人の後を追うようにして玄関口へと付いて行った。
「それでは宮島様。私はこれにて失礼いたします。尚、こちらで行う安楽死に於きましては、終末を迎えるにあたっての一つの選択肢でしかありませんので、より最善の最後を選択の上、ゆるりとお過ごしください」
玄関口を背に井上は笑顔でそう言いつつ頭を下げ、2人を見送った。
帰りの道中、2人には会話はなかった。バスや電車の中でも宮島は車窓をずっと眺め続け、友恵は終始俯いていた。途中「何処かで夕食でも食べてから帰るか」と、宮島はようやく見つけた会話の糸口に期待したが、友恵は無言で俯いたままに首を横に振るに留まった。
2時間弱という時間をかけて2人が自宅へと戻ると、友恵は着替えもそこそこに直ぐに台所へと向かい夕食の支度を始めた。宮島はコートを脱ぎ捨てると居間のちゃぶ台を前に胡坐をかき、テレビをBGMに新聞に目を落とした。宮島の視線は新聞に向けられていはいたが、その視線は一点に集中したまま動かなかった。
どういう死に方が良いんだろうか。極力迷惑の掛からない死に方と言うのはどういう物なのだろうか。
宮島は新聞に目を向けながらそんな事を考えていた。
妻や子供、ましてや孫に迷惑や面倒を掛けるような死に方だけは避けたい。小さいながらも大切な思い出のあるこの家で、妻や子供、孫に看取られてゆっくりとした最期を迎えられるなら良いが、終末日という日にどの様にして亡くなるのか迄は分からない。突然、苦しみだして亡くなるのか、眠っている間に静かに息を引き取るのか分からない。とすれば、現時点でベストな選択としては死期を自分で決められる安楽死が一番良いのだろうな。一番迷惑を掛けない方法と言えるのだろうな。
人が亡くなれば少なからず面倒をかけてしまうのは仕方が無いが、出来るだけそういった面倒はかけたくないなと考えていた。今日行った終末ケアセンターでその質問を口にしようともしたが、隣には友恵がいた事でそれを聞く事が出来なかった。
友恵が夕食の支度を終えるとちゃぶ台の上へと運んできた。野菜中心の食卓。2人ともに歯は揃ってはいたが野菜中心の軟らかい食べ物ばかりを口にしていた。そしていつものように2人向かい合っての食事を始めたが、そこに会話は一切無く、2人は黙々と箸を口へと運び続けた。
居間にはテレビから流れるニュースの音声と味噌汁を啜る音のみが響いていたが、不意に友恵が口を開いた。
「どうします?」
「……どうって何が?」
「安楽死の話」
「ああ、その事ね」
「もしも私達に迷惑を掛けないようにと思って安楽死を考えているなら、別に心配しなくて良いですからね」
やはり夫婦だなあと、宮島は心の中で思った。長年暮らしていれば口にせずともある程度の考えは見抜かれるんだなと。
「まあ……そうだね。迷ってはいるよ。確かに迷惑を掛けたくないというのもあるけど、終末日にどんな亡くなり方をするのか分からないなら、いっそ安楽死がいいなって気もするしね。どちらにしても明日や明後日の話じゃないからね。もう少し考えてみるよ」
とりあえず今この話は止めようと、宮島は話を切り上げ目の前の食事に集中した。
友恵は隣の県の小さな農村から宮島の元へと嫁にやって来た。農家の3女として生まれ、知り合いからの紹介でという状況での結婚であり、お互いが想いあってという訳ではなく、流されるままに宮島と結婚する事になった。とはいえ宮島との結婚に不満はなかった。学歴も見た目も特筆すべき所は何も無く、友恵自身が自分の住んでいた村の中で婿になる人を探すのだろう、近所へと嫁ぐのだろう位にしか将来を描けなかった中での、知り合いを介しての出会いであり結婚であった。
結婚してからは宮島も一生懸命に働いてくれて十分に食べて行く事が出来た。裕福では無いけれど子供を育てられるだけの給料を貰ってきてくれていた。小さいながらも1軒家を持つ事も出来た。自分は家事に育児に精を出そうと頑張っていた。そんな暮らしに満足していた。
実家の農家も裕福では無かった。学生時代の同級生の中には結婚した相手が資産家だったり会社の社長だったりで裕福になっている話を耳にした事もあるが、さして興味も無かった。決して多くは無い夫の給料をやりくりして、小さいながらも家を持つ事が出来、子供も授かった。自分の家族と暮らす、それだけで十分だった。
やがて息子も成長し、その息子は結婚をして家を出ていった。家を出て行った事は寂しかったが、やがて息子の元に子供が生まれてからは楽しみも増え、生まれた直後にはちょくちょく会いにも来てくれたし会いにもいった。そんな日々に満足し、それが当たり前と思っていた。
友恵は一人暮らしの経験は無かった。息子が出て行った時も寂しかったが1人ではなかった。その夫が居なくなりこれから1人で暮らしていくという事が想像出来なかった。お互いが想い合って結婚した訳では無いと思ってもいた事もあり、漠然と「夫に何があっても自分は悲しまないだろう」と思っていた事もあった。だがもうすぐ自分の夫が逝ってしまうという現実を見せられた事で、今の生活は当り前では無い事を改めて理解すると共に、夫の最期を想像すると胸に込み上げてくる物がある事にも気付いた。
どうにか出来る話では無い事も理解していた。そもそも亡くなるのは自分では無く夫であり、どうする事も出来ないのはどちらかと言えば夫の方であるのだと。であれば、夫の思う最期を受け入れようと、何も言わずに従おうと、友恵は終末ケアセンターからの帰り道、ずっとそんな事を1人考え、そしてそう自分の中で決めていた。
翌日、宮島はいつものようにちゃぶ台を前に胡坐をかき、テレビをBGMに新聞に目を通し、午後には友恵と散歩をするという時間を過ごした。友恵と歩いている最中に日常の他愛のない話はしても、最期をどうするかという話はしなかった。
「あの話、とりあえず長政には話そうと思うんだ。孫に話すかは長政に任せるとして。あと近所の人に話すかどうかだな」
夕食時、宮島は友恵に唐突に話始めた。孫娘は今年18歳。大学受験を控えていたので知らせる事に気が引けた。近所の人からは「親戚が終末通知を貰った」という話を以前に聞かされた事もあり、筋としてこちらも話した方が良いかもしれないという考えであった。
「そうですねぇ。長政には言っておいたほうが良いですね。ご近所さんにも機会があったら話しますかね」
そう同意してくれた友恵の目は赤く、宮島には少し老け込んだように見えた。
そしていつ話すかというタイミングの話になった。長政とはつい先日の正月に会ったばかり。ぎりぎりに話す方が良いのか、それとも早々に話す方が良いのかと、2人で話し合ったがこの日は結論が出なかった。
長政に対して早めに伝えると長い期間気を遣わせそうな気もして気が引ける。ぎりぎりに話をすれば長政の仕事の都合もあるだろうし辛い思いをさせてしまうかもしれない。近所に対しても早めに伝えると長い期間気を遣わせそうな気もして気が引ける。ぎりぎりに話をすれば残された友恵に対する態度も良いかどうかは別にして違ってくるかもしれない。どちらが良いのか分らない。こういう事も終末ケアセンターのカウンセラーに聞いておけばよかったなと、宮島は今更ながらに少しだけ後悔した。
長政や近所に話すべきかの結論がでないままに数週間が過ぎ去った。とはいえ友恵はそれほど積極的に話し合うというスタンスではなく、宮島が思うようにすれば良いという放任のスタンスでもあった。宮島としては残された友恵の立場も考慮しての話し合いのつもりであったが、全く話が進まないという状況であった。
過ぎ去った数週間はいつものように午前中は新聞をゆっくりと読み、午後は天気が良ければ夫婦で散歩するという、いつもの日常で費やした。残りの日々が減っていく中で、宮島はこの日常が当たり前だと思い込んでいた自分に嫌悪感が湧いた。退屈だとまでは思ってはいなかったものの1日1日を大切にしなかった自分に嫌悪感を抱いた。それは決して当たり前などでは無く、この平凡な日常こそがとても大切な日々である事を、残された日々が減っていく毎に強く思うようになっていった。
「後で長政に電話を入れる事にするよ」
「……そうですか。分かりました」
夕食時、宮島は唐突に口にした。友恵は手に持っていた茶碗を見つめながらに無表情のままに答えた。この時点で宮島に残された時間は残り1週間となっていた。
午後7時。宮島は長政が仕事から帰宅しているであろう時間を見計らい、家の電話から長政の携帯電話に電話をし、終末通知の葉書が届いた事を伝えた。電話口の長政は宮島が言っている事がしばらく理解出来ない様子であった。
長政からすれば唐突に電話で以って「もうすぐ死ぬから」と父親から言われてようなものであり、「はい、そうですか」とは答えられず、「とりあえず明日そっちに行くから」と、長政はそう言って電話を切った。
翌日の午後、長政は仕事を午前中で切り上げ妻の弥生を伴って宮島の自宅へと車でやって来た。
「いったいどういう事?」
「……だ、だから昨晩電話でも話した通り、終末通知を貰ったんだよ。ほら」
長政は家に入るなり、居間のちゃぶ台を前に座る宮島に向かって立ったままで開口一番聞いてきた。宮島はそんな長政に一瞬だじろぎつつも終末通知の葉書を長政に見せ、長政は憮然とした表情でそれを受け取った。長政は手にした葉書の宛先を確認し、葉書の中開きに記載してある終末日に目と留めると同時に目を見開いた。
「……これ……終末日まで一週間位しか無いんじゃないの?」
「……うん。そうだね」
「いや、そうだねってさぁ……。何でもっと早く言ってくれなかったんだよ!」
「受け取った直後は、こっちも動揺していたっていうのもあるし……。いつ話して良いかも分らなかったんだよ。早すぎても、そっちに気を使わせちゃいそうだし」
「いや、こんな話、気を使うとかの問題じゃないでしょ?」
「……いや、そうかもな。すまなかった」
「すまないって……」
長政はそれ以上の言葉が浮かばなかった。長政の妻の弥生も一言も発せずただただ2人の顔を目だけを動かして交互に見る事しか出来なかった。
「……たしか、これって安楽死を選べるとか、そんな仕組みだったと思うけど」
「うん。そうなんだ。以前に終末ケアセンターって所に行って聞いてきた。安楽死用の飲み物があるんだって。ただその飲み物はその場所でしか飲む事は出来ないみたいでね」
「……お父さんは、どうしたいの?」
「ん? まだ決めてないんだけどね」
「……そうなんだ」
長政は嘆息すると共に俯き、その場に崩れる様にして座りこんだ。友恵と弥生の2人はその2人の様子を黙って見ていた。
長政は居間の畳の目を数えるかのようにしてジッと見つめつつ、自分が小学生の頃の事を思い出していた。
物流倉庫で働く宮島はいつもヨレヨレの作業着を着て家から仕事に行っていた。どんな風にかまでは覚えていないがその事を同級生にからかわれていた事があった。同級生の父親はスーツ姿のサラリーマンが多く、長政もそれが格好良いのだと、同級生達の会話から勝手にそう思い込んでいた。故に、作業着姿で働く父親が嫌いな時期があった。
しかしいざ自分が社会人として働きだし結婚し子供も授かると、そんな事はどうでもいい事だったのだと、大事なのは家族の為に働く事なのだとようやく理解し、今では自分を育て上げてくれた宮島を誇りに思っていた。小学生といえども当時そんな風に思っていた自分の事を思い出す度に恥ずかしくなる。そしてそんな父親がもうすぐ逝ってしまう。この世からいなくなってしまう。
親が子より先に逝く。それが自然であるというのは頭では分かっていても、現実にそれがあるとは思いも寄らない。当り前な事が直ぐには受け入れられない。そんな現実を突きつけられた今、何を考え何を言えば良いのか分からない。
「それはぎりぎりに決めてもいいんでしょ? なら俺も仕事を調整するからとりあえずどっか旅行にでも行かない? お父さんとお母さんと俺達との5人でさ。どう?」
長政は咄嗟に頭に浮かんだそんな提案を口にした。と同時に、横に座る妻の弥生の方へと顔を向けた。弥生は「それ良いね」と口には出さずに笑顔で答えた。
宮島は長政の提案を嬉しく思ったが、長政には仕事もあるだろうし費用も馬鹿にならないだろうとやんわりと拒否した。だが長政は「最後なんだから」と強く言って宮島の言葉を聞かなかった。
宮島は俯きつつちゃぶ台の上を黙ったままに見つめていたが、ゆっくりと顔を上げ、「ありがとう。じゃあ、お願いするよ」と、長政と弥生の顔を笑顔で見つめた。
それと同時に宮島は安楽死を行う事を決意した。家族との思い出の詰まったこの家で皆に看取られてというのも考えたが、苦しんで逝く姿は見せたくないし見られたくない。若しくは、知らない間に亡くなるよりはと安楽死を望んだ。宮島はその場でその事を友恵、長政、弥生の3人に伝えた。弥生は何も言わずに口角を少しだけ挙げるといった表情のみで答え、友恵と長政の2人は「それでいいんじゃない」と、寂しげな笑顔と共に答えた。
急きょ決まった旅行の日程は終末日の4日前からの1泊2日の予定とし、全てを長政が手配するという事になった。明後日出発するという急な日程ではあったが孫娘も参加してくれる事にもなった。宮島は経済的な理由で家族旅行をした事は無かったが、図らずもこれが宮島にとって最初で最後の家族旅行となった。そして安楽死を行うのは終末日の前日、旅行から帰った日の翌日に行う事となった。
数日が経った朝10時、長政が弥生と娘の杏里を伴って宮島の家へと車でやってきた。長政は家族5人で一緒に行けるようにと大きめのレンタカーを借りていた。そして到着して早々、宮島と友恵が車へと乗り込んだ。運転は長政、助手席には宮島。そして後部座席には杏里を真ん中に友恵と弥生の3人が座った。そしてすぐに車は発進し、長政が予約した栃木県の山間にある温泉旅館を一路目指した。
宮島は受験を直前にした孫の杏里が心配であった。
「杏里ちゃん、受験前に大丈夫?」
「平気平気、息抜きだよ。心配しなくても大丈夫だよ」
杏里が笑って返事してくれた事に宮島はホッとした。その後も車内では杏里の進路等についての話で盛り上がりをみせた。
「杏里ちゃんは頭が良いから医者にでもなれんじゃないの? 杏里ちゃんは可愛いからモテるでしょ?」「頭は良くないから。別にモテないから」
そんな会話が車内で終始続いた。宮島は終末通知の事など忘れているかのようにこの時間を楽しんだ。家族一緒の時間を楽しんだ。
一般道を通り高速道路を走り抜け、再び一般道へと出て山道へと車は順調に進んだ。そして車に揺られる事数時間。辿り着いた温泉旅館は川幅2メートルといった小さい川沿いに建つ大きめの老舗旅館。宮島は建物の大きさに宿泊料金の心配をしたが、「そんなの気にしないでよ、平気だって」と、長政は笑って答えた。
和服を着た旅館スタッフを先頭に5人は如何にも旅館といった12畳程の部屋へと案内され、宮島と長政は着いて早々に浴衣に着替えると、その旅館の名物でもある川沿いの露天風呂へと向かった。
その旅館は建て増しを繰り返したように長い廊下を渡ると段差があってのまた廊下と言う造りで、川沿いの露天風呂へと向かって降りて行く長い階段の入口に着いた時、宮島はその光景にぞっとした。
そこには幅1.5メートルといった木製の階段が下へ下へと続いていた。旅館に到着した時には数メートル下に川が流れているのが見えたが、旅館の入口からはかなりの距離の廊下を歩くと共に数階上がった事を思い出し、そこから川へと降りるには5階程の高さを降りる事なのだと今更ながらに気が付いた。
その階段には手すりが付いてはいたが、普段はお目にかかる事が無い程の急な階段と言えなくも無く、その途中には休む事を想定したような踊り場があった。宮島は降りて行く事に少し躊躇したが、長政が階段を下り始めた事で仕方なく付いて行った。
20段も降りると膝が笑いそうになり、手すりに掴まっていなければ恐怖した。そうして長い階段をようやく降り終えると、川の流れる音が耳に入った。そこはまだ脱衣場で外の様子は窺い知れなかったが、すぐ近くに川が流れている事が分かった。
浴衣を脱いでいよいよ露天風呂へと向かった。そこにはザーザーと流れる川がすぐ傍に見え、巨大な石をくりぬいたであろう風呂があった。決して大浴場と言えるほどの大きさでは無い物の、6人くらいが一度に入れそうな風呂が横に2つ並んでいた。
かけ湯をしてから湯に浸かると、正に真横に流れる川の流れる音がうるさい程に聞こえ、露天風呂から10メートル程の川向こうには森と見紛う森林が壁のようにして存在していた。気温は零度近いが湯は熱く、丁度いい気持ち良さを提供し、宮島はきつい階段をわざわざ下りて来た甲斐はあったかなと思うと同時に、その階段を今度は上がる思うと少し憂鬱な気分になった。
「時間はあまり無いけど、他に何処か行きたい場所とかある?」
長政は露天風呂から川の方へ体を乗り出し、川面を見つめながらに言った。
「いや、充分だよ。みんなと一緒にこんな場所に連れてきて貰っただけで充分だよ」
宮島は長政の背中に笑顔で以って返事をした。
「もっと早く知っていれば、もっと色々な所へ連れて行ってあげられたとは思うんだけどね……」
「まあ、それは私が悪かった。でも本当に今回の旅行で充分だし、有難いと思っているよ。きっとお母さんも喜んでるよ」
宮島は本当に喜んでいた。長政は自分の言い方が少し嫌味に聞こえてしまったのではないかと勝手に反省した。気持としてはもっと一緒に居たいという事であったが、この期に及んでも少し恥ずかしくもあり、結果、嫌味ともとれる言い方になってしまった。
10分も過ぎると汗がタラタラと流れだし、15分も過ぎるとのぼせそうになった。そして宮島と長政は「そろそろ上がろうか」と、どちらからともなく言って風呂から上がり、少し体を冷ました後、きつい上りの階段を上がり始めた。階段は案の定きつく、踊り場で一休みをした事で下りた時の倍の時間をかけてようやく階段を上りきり、へとへとになりながらも部屋へと辿り付いた。
部屋には友恵達の姿は無く誰も居なかった。長政は息を切らしながらに畳の上へと倒れるようにして寝ころんだ。宮島も息を切らして疲れ果てながらも部屋の奥の窓際の椅子へ辿り付くと、背もたれに首まで預けてグッタリとした。
「やっぱり階段きつかった?」
「流石に高齢者にあの階段はきつかったな。まあ、そうでもしないとあんな露天風呂に入れないって事だろうしね。それにこれくらい疲れた方が良く眠れそうだし」
宮島は川沿いの露天風呂に行ったであろう友恵があのきつい階段を下りて上るという姿を想像するに、大変だろうなと同情すると同時に軽く鼻で笑った。
「お父さん、お母さん達はまだ戻らないけど先に飲む?」
「ああ、そうだね。風呂上がりだし飲みたいね」
長政は部屋に備え付けの冷蔵庫の中からビールを取り出し宮島に聞いた。熱い風呂に入って汗も流れ、その後の階段を上っても汗が出て、2人は水分を欲していた。
長政は下戸の宮島用にジュースを取り出し座卓の上へと置き、備え付けのコップへと注いだ。宮島も長政のコップへとビールを注いだ。
「じゃ、かんぱーい」
「ああ、かんぱい」
それから暫くして旅館スタッフが部屋へとやって来て料理の支度を始めた。この旅館は1泊2食付きで全てが部屋食として提供されるシステムで、長政がこの旅館を選んだ理由の1つでもあった。宮島と長政はそれぞれが飲みかけのジュースとビールとコップを手に、部屋の窓際の椅子へと移動して座卓を空けた。そしてスタッフは座卓の上一杯に5人分の食事を並べ始めた。
食事の支度をしている最中、浴衣姿の友恵達3人が戻ってきた。友恵と弥生は息を切らして無言のままに畳の上へと倒れる様にして座り込み、杏里は少しだみ声で以って「づがでだあ」と言って畳の上に寝転んだ。
宮島は「階段はどうだった?」と、疲れきった3人に声を掛けた。
「いやー、まじできついよー。お爺ちゃんもお婆ちゃんもよくあんな所まで下りて上ったねぇ。あたしまじ死にそう」
と、杏里が寝ころびながら言うと
「でもその分景色は良かっただろう? その対価だよ。ってお前が一番若いんだからな」
と、長政が杏里を見つつ言うと
「いや、疲れで景色の事なんか忘れたって。若いから疲れないのは偏見だね」
と、杏里が言い返した。
「で、でも……川沿いで……良い…景色だったわよねぇ」
「で……ですよねぇ」
友恵と弥生は息を切らしながらに長政をフォローするかのように言った。
「いやぁ。気持よかったよ。本当に。明日の朝も朝風呂に行こうかなって思ったしね」
宮島も長政のフォローのつもりで杏里に言った。
「えー! お爺ちゃん、まじで言ってるの? ちょー元気じゃん」
杏里は宮島が終末通知を受け取っている事を知らない。そんな杏里が発した「元気」という何気ない一言に、一瞬杏里と宮島以外に緊張感が走った。
「そうはいっても他に誰も入ってなかったじゃん。やっぱり他の客もいくら景色が良いからってあのきつい階段を上って下ってまでは行かないんじゃないの? あーまじ疲れたー。っていうか、お父さんもお爺ちゃんも何か飲んでるしー」
「まだ冷蔵庫にジュースが入っているから杏里ちゃんも飲めば?」
宮島は杏里の言葉を一切気にせずに笑っていた。
ようやく食事の支度が終わり、座卓には豪勢な夕食が揃っていた。早速座卓を囲んで5人はそれぞれの飲み物を入れたグラスで乾杯し、家族5人揃っての食事が始まった。食事の最中の話は旅館に来る時の車内同様に杏里の話が中心となり、家族団らんの時間がそうして過ぎていく。部屋で家族だけの食事という事もあり、杏里が行儀悪く食事をしていると、それを見ていた弥生が「ちゃんとしなさい」と時々注意した。そんな笑い声の交る楽しい時間が過ぎて行く。
高齢の宮島と友恵にとっては食べ切れない程の料理が並んでいたが、息子が招待してくれたという事もあって2人は頑張って平らげた。そんな1時間程の楽しい食事も終わり、旅館スタッフが後片付けをした後、暫くしてから再びやってきて部屋に5人分の布団を敷いた。とはいってもまだ時刻は9時前で寝る時間には早く、杏里は敷かれた布団の上でごろごろしながら携帯電話をいじっていた。宮島ら他の4人は部屋の隅へと追いやられた座卓を前に座りながらテレビを見て過ごしていた。
午後9時半を過ぎると高齢の宮島と友恵は眠気を覚えたが、杏里に合わせて寝ないように頑張っていた。午後10持になり長政がそろそろ寝るかと切り出しようやく就寝となった。
家族5人が同じ部屋で布団を並べて寝る。家族揃って一晩を過ごすのもこれが最後となる。宮島は布団に入ってすぐにそんな事を考えていたが、睡魔には勝てずに直ぐに眠りについた。
翌朝、さすがに宮島は急な階段の上り下りを要する露天風呂へは行かず、長政だけがせっかく来たんだからと露天風呂へと向かった。だが案の定、風呂から戻った長政はグッタリと疲れ果てた姿で戻ってくると、そのまま畳の上へと寝転んだ。
その後はその部屋で以って5人揃っての朝食をとり、チェックアウトの10時近くまでのんびりと過ごした。
チェックアウト間際になると5人は急いで帰り支度を整え部屋を後にフロントへと向かい、長政が支払いを済ませると5人は揃って玄関口を外に出て行った。そして少し離れた駐車場に停めてある車へと歩いて向かい、来た時と同じ座席に5人が乗り込みそのまま旅館を後にした。
その後は車で名所を何箇所か巡った。杏里は名所には興味が一切無かったが、文句1つ言わずに4人に付き合った。
途中、土産物店に寄り、併設された食事処で以って家族揃っての昼食を取り、昼食後には土産物を家族揃って物色した。そこで、杏里が何気なく買ったキーホルダーを宮島に「はい、お爺ちゃん。プレゼント」と言って手渡した。それは宮島には何なのかさっぱり分からないキャラクターが付いている千円もしないキーホルダー。
「ありがとう。大事にするよ」
杏里はアルバイトをしてないと聞いていたので、それはお小遣いの中から買ってくれたものであろう事が想像できた。宮島は初めて孫から貰ったそのキーホルダーを大事にポケットへとしまった。
午後も4時を過ぎ、長政の運転する車が宮島の家の前に停車した。
「いや、ほんとに楽しかったよ。ありがとう。気をつけて帰ってな」
「お爺ちゃん、お婆ちゃん、じゃーねー。またねー」
杏里は車の中から宮島と友恵に向かって手を振り、そのまま長政の運転する車は宮島の家を後にした。
宮島の終末日は明後日。明日には安楽死。宮島が杏里と会うのはこれが最後となった。
杏里は悲しむだろうか。悲しんでくれるだろうか。それとも伝えなかった事を恨むのだろうか。でも最後に会えて良かったと、宮島は遠ざかる車を笑みを浮かべながら見つめていた。
温泉旅行から帰ってきての翌日、夫婦揃っていつもよりも遅い起床時間となった。さすがに疲れ果てたという感じではあるが、宮島にとっては最後の楽しいひと時であり、かけがえの無い思い出となった。
2人は昼食までの時間も無い事から朝食を取らずにお茶だけを口にした。そもそも先日の旅館での食事の量がとても多く、未だにお腹が減らないといった感覚もあった。折角息子が招待してくれた旅行に於いて食事を残す訳にも行かず、何とか食べ切ったは良いがその余韻が未だに続いていた。
昨晩も夕食を取らずに寝てしまった。疲れ果ててもいたが夕食を食べる気にもならずに2人して寝てしまった。結局宮島にとっての最後の朝食は、昨日の旅館での家族5人揃っての朝食となった。
そして午前も10時を回ると、宮島は一人で散歩してくると言って家を出ていった。といっても本当は散歩が目的ではなく、近所に挨拶をしておこうと思っていた。近所といっても都市部では無いので家も多くなく、懇意にしてくれている2軒だけにする事にしたが、その内の1軒は不在であった。
「あの、こんな話をするのは申し訳ないんですが……。実は私、終末通知の葉書を頂きましてね、今までお世話になりましたというご挨拶に伺わさせて頂きました。私はじきに居なくなりますが、どうか妻の事を気にかけて頂くようお願い致します」
「えっ! ご主人が? ですか?」
宮島とほぼ同年代といったその男性は目を見開きながらに宮島を見つめた。その男性が以前に「親戚が終末通知を貰った」と宮島らに話していた人物でもあった。
「ええ。そうなんです。なので、今後とも妻の事、何卒宜しくお願い致します」
「そりゃ勿論、こちらも仲良くさせて頂きますが……。あの、それでいつ……ですか?」
「急な話ですが、明日なんです。なので、今日終えるつもりです」
「今日? そ、そうですか……。あの、何て言ったらいいのか……」
「いえ、こちらも言おうかどうか迷ったのですが、やはり残していく妻の事が気がかりという事もあったので……。本当に、何卒よろしくお願いいたします」
宮島は深々と頭を下げた。妻が一緒では「妻をよろしく」というのも言いづらく照れると思ったので一人で来ていた。そして宮島は何度も頭を下げた後、少し遠周りしてから自宅へと戻っていった。
家に戻ると友恵が宮島にとって最後となる昼食の支度をしていた。いつもと変わらぬ和食の昼食。食べ慣れている味。
「うん。おいしいね」
「そう? いつもと一緒ですけどね」
友恵は笑って言った。最後だからと言って特別な事はしなかった。いつも違うという点で言えば、昼食時にはいつもテレビが点いていたが、この日はテレビも点けず、最後の昼食の時をゆっくりと静かに過ごしているという違い位であった。
その日の午後2時。一台の軽自動車が宮島の家の前に停車した。運転席から降りてきたのは長政。そして助手席からは弥生が降りた。長政と弥生は沈痛な面持ちで宮島の家の中へと入っていった。
長政は旅行初日から1週間の休暇を取っていた。ここに居ない杏里は何も知らずに学校に行っており、まだ宮島の件は知らされていない。長政は伝えるべきかどうか悩んだ。それが正しいかどうかは分からないが、宮島が亡くなるなる事は伝えず、亡くなった後に「突然の病死」という内容で伝えるつもりでいた。
「お父さん……。迎えに来たよ」
「ああ、悪いね。準備出来てるから直ぐ行くよ。弥生さんも面倒かけてすまないね」
宮島は居間のちゃぶ台を前に新聞を読んでいた。もう今後世間がどうなろうとも何も知る必要はないが、日課としてただただ読んでいた。友恵は宮島の近くに座りぼんやりとテレビを眺めいてた。肩を落とし目は虚ろに、長政が来た事にも気付かない程に疲れ果てている様子が伺えた。
宮島がおもむろに立ち上がると、友恵も面倒そうにして立ちあがった。そして「じゃあ、行こうか」という宮島の言葉を合図に、4人は玄関へと向かった。
4人が玄関を出て家の前に停められた車へ向かうと、ふと宮島が足を留め、その場でゆっくりと後ろに振り返った。
宮島の目に映るのは古びた我が家。息子が生まれた時に購入した小さいながらも大切にしてきた一軒家。沢山の思い出の詰まった一軒家。
宮島はもう2度と帰る事の無い我が家を愛おしい物を見る様にして見つめた。
見つめ続けていると色々な思い出が頭の中を駆け巡り後ろ髪を引かれた。その思いを断ち切るかのようにして我が家に背を向けると、直ぐに車の助手席へと乗り込んだ。
宮島は車の中で俯き目を閉じた。その目からは涙の粒が止め処なく溢れかえっていた。車の外にいた長政や弥生、友恵の耳に微かに嗚咽を漏らす声が聞こえた。すると友恵も堰を切ったようにして涙があふれ始め、地面にしゃがみ込むと手で顔を覆うようにして泣き始めた。弥生は友恵に寄り添う様にしてしゃがみ込み、友恵の肩を抱きながら涙した。長政も鼻水をすすり天を仰ぎつつ涙した。堪えようとしても涙が止まらない。4人はそうして家の前で泣き続けた。
5分程そうした状況が続くと、徐々に宮島も落ち着きを取り戻した。鼻水をすすってはいたがやがて涙も止まると顔を上げた。車の中から外を見ると友恵と弥生がしゃがみ込んで泣く姿と、宮島に背を向け天を仰ぎながらに泣いている長政の姿が目に入った。
宮島は一旦車から降りると3人に向かって「そろそろ行こうか」と、顔が涙に濡れたままに笑顔を見せつつ言った。その言葉に長政が「そうだね」と、涙を拭いながらに言うと、しゃがみ込んでいた弥生が友恵に手を貸すようにして2人はゆっくりと立ち上がった。
友恵が手にしていたハンカチはびっしょりと濡れ、未だに手で口を抑えつつ嗚咽を漏らしながらに泣いていた。弥生は友恵の体を支えつつ車の後部座席へとゆっくり友恵を乗せると、自分は車の反対側へと廻って後部座席に乗り込んだ。長政も運転席側へと回ってそのまま車に乗り込むと、最期に宮島がチラリと我が家に目を送った後、再び助手席へと乗り込んだ。
「……じゃあ出すよ」
「うん。出してくれ」
長政が誰に言うでもなく言ったその言葉に宮島が直ぐに答えた。そして宮島はもう2度と帰る事の無い我が家を背に、その場を後にした。
長政が運転する車はカーナビに従って終始無言の状態のままに走行し続け、約1時間半ほどで終末ケアセンターへと到着した。併設されている駐車場に停めた車から4人が降りると、宮島を先頭に建物の正面玄関へと向かった。初めて和洋折衷の立派な建物を目にした長政と弥生は口を半開きに建物を見上げつつ歩いていた。そして4人はそのまま玄関へと向かい、自動ドアをくぐり受付へと向かった。
「安楽死をお願いしたいのですが」
受付に座る女性に向かって宮島がそう言うと、「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」と、女性はそう言って何処かへと電話をかけ始めた。
4人が受付付近で待つ事数分。コツコツと、ゆっくりとした足音が響いて来た。その足音は徐々に4人の方へと近づき、4人の1メートル手前まで来て止まると恭しく頭を下げた。そこには、先日宮島と友恵が来た時に応対した終末ケアセンターの職員である井上正継が立っていた。
井上は「では、こちらへどうぞ」と、先日に宮島が来た時と同じ打合せルームへと4人を案内した。テーブルを挟んで3つづつの計6つの席が用意されていた椅子を片方に1つ移動して4つとし、宮島ら4人は横に一列に並んで椅子へと腰を下ろした。
「では確認させて頂きますが、本日安楽死をご希望されるという事で宜しいでしょうか?」
「はい、お願いいたします」
「分かりました。では最期となる場所についてですが、あちらの庭か当建物の上階にある個室がありますが、どちらが宜しいでしょうか?」
井上は打合せルームから見える庭を手で指し示すと共に、持参していたタブレットで個室の写真を提示した。写真に写る個室からの光景は、ほんの少し高い位置から見る住宅街という何の変哲もない景色だった。
「ああ、そうですね。庭が良いですかね」
「了解致しました。では準備致しますので、こちらで少々お待ち下さい」
井上はそう言って、4人を部屋へと残し、建物の奥の方へ去っていった。
井上を待っている間、長政と弥生の2人は打合せルームのすぐ横に広がる庭を、壁一面の透明なガラス越しに見ていた。宮島と友恵の2人は目の前のテーブルの上をただただ見つめていた。
暫くして、コロコロと軽い音を立てるキャスター付きのワゴンと共に井上が戻ってきた。
井上が押してきたそのワゴンの上には、一見ブランド品に見える焦げ茶色をメインに金色の装飾が施された万年筆。バインダーに挟まれたA4書類。そして先日サンプルとして宮島が見たのよりも少し幅のある、使い古された感じの残る高級そうな木箱が乗せられていた。
その木箱の中には、今度は赤いサテン生地のクッションの上にシャンパングラスと呼ばれる細長いグラスと終末ワインが横に寝かされていた。サンプルの時には空だった細長い薄茶色の意匠のある瓶にはどす黒く見える液体が入り、スクリューキャップできっちりと封じられていた。
「では、参りましょうか」
井上は4人に向かってそう言うと、友恵以外の3人は「はい」と小声で言いつつ直ぐに席を立ったが、友恵だけは俯き加減に呆然とした様子で座っていた。宮島は「どうした」と心配するように言って友恵の肩に手を置くと、「……え? あ、すいません」と、友恵は呆けていた自分に気付いて少し恥ずかしそうにしながら席を立ち、4人はそのまま部屋を後にした。
ワゴンを押し歩く井上を先頭に宮島ら4人が続き、打合せルームから30メートル程歩かされると、そこには全面ガラスの扉があった。井上が壁に設置された開閉ボタンを押すと両引き戸のガラス扉がゆっくりと開き始め、ドアが完全に開いたところで井上を先頭に5人は庭へと出た。
「お好きな場所へお座りください」
井上が宮島に向かってそう言うと、宮島は庭を見渡した。そして宮島の目に留まったのは大きめの四角いテーブルを挟んで長椅子が2つの場所。宮島は「じゃあ、あそこで」と指さすと、「承知いたしました。では参りましょうか」と、再び井上を先頭に5人は歩き出した。
井上は芝生の上を書類や万年筆がワゴンの上から落ちない様にとゆっくりと歩き、その後を宮島達が続いた。
最後の場所と決めたテーブルに5人が到着すると、宮島と友恵は1つの長椅子に横に並んで腰かけ、その向かいの長椅子へと長政と弥生の2人が腰かけた。1月という事もあり気温も低く、腰を下ろした椅子もとても冷たく、すぐにお尻が冷えるのを4人は感じた。
井上はテーブルの横にワゴンを置き、「ではこちらをお願いできますか?」と、ワゴンの上のバインダーに挟まれた書類と万年筆を手に取り、テーブルの上、宮島の目の前へと置いた。
「終末ワインを提供するにあたって承諾書に署名が必要となります。こちらが承諾書の書類になりますので御確認頂けますか? 質問や疑問があれば仰って下さい。ご確認頂き問題等無ければこちらにご署名なさって下さい。ご署名なさって頂いた後、こちらの終末ワインを提供致します」
【終末ワイン摂取承諾書】
このワインを摂取すると、直ちに安楽死を迎える事になります。
あなたがそれを望むのであれば、下記に自筆でご署名をお願いします。
そんな短い文面の承諾書で一番下に署名欄。宮島は承諾書を手に取り目を通した。短い文書なので確認する事も特に無く、目の前に置かれた万年筆を手に取りキャップを外すと、署名欄に自分の名前をサッと書き入れ、署名を終えた承諾書と万年筆をテーブルにそっと置いた。
井上は書類を手に取り、名前が正しく記載されている事を確認した後、担当者欄に自らの名前を署名した。
「確認致しました。ありがとうございました」
井上は承諾書と万年筆をワゴンの上に戻すとシャンパングラスをテーブルの上、宮島の目の前へとそっと置いた。そして終末ワインのボトルを手に取り、スクリューキャップの栓を開けた。
井上はそのままシャンパングラスへとそっと注ぎ始め、そのまま全量を注いだ。全量といっても100ccといった量であり、井上は注ぎ終わった空のボトルのキャップを締め、再び木箱の中へと戻した。
「ではこちらの終末ワインを提供させて頂きます。ただ、ご家族様でタイミングを計ってお飲み頂きたいのは山々ですが、職員帯同の下でお飲み頂くという事がルールとなっておりますので、私は少し離れた場所で見させて頂く事を御容赦ください。では」
井上はそう言うと共に一礼し、ワゴンを押しながら10メートル程離れた場所へと向かうと、その場で宮島らの方向へと向き直り、宮島を監視するかのようにして両手を前に組みその場に位置した。
宮島はその井上の姿に眉をひそめた。人にジッと見つめられるというのは余り気持ちがいい物では無いなと。
時刻は午後4時を少し過ぎ、見上げれば少し赤みがかった空に大小の白い雲がまばらに流れていた。気温も低く、コートやマフラーをしているとは言っても長い時間その場所にいると体調を崩してしまいそうな程であり、外で無くて個室にしておけば良かったかなと、宮島は今更ながらに後悔した。
友恵は顔を横に何を思うでも無く宮島の前に置かれたグラスを見つめていた。長政も同様にグラスをただただ見つめていた。弥生は所在なさげに俯いていた。
宮島は自分の目の前、テーブルの上に置かれたグラスを見つめながら知る事の無い未来を想っていた。
自分の両親は突然死に近い状態で亡くなった。私の未来を心配する間もなく憂う間も無く亡くなった。それは見方を変えれば幸せな死だったのかも知れない。私はこうして未来を見れない事を憂いながら死んで行く事になるのだから……。
この先、友恵はどのような余生を過ごすのだろか。不便は無いだろうか。近所の人達と上手くやって行けるだろうか。長政は大丈夫だろうか。弥生さんは友恵と仲良くやっていってくれるだろうか。
杏里はどのような人と結婚するのだろうか。結婚してから生まれてくる曾孫は男の子だろうか? それとも女の子だろうか? その曾孫はどのような人と結婚するのだろうか? 結婚してから……
自分が知る事の出来ない未来があり、それはずっと続いて行く。それは当然の事でもあり頭の中で分かっていた事でもあったが……
死にたくないと思うのはやりたい事があるからというのも一つであるだろう。しかし家族の未来を知りたい、ずっと家族の行く末を見ていたい。ただそれだけの理由で生きていたい。今の願いはたったそれだけの事であるが、その願いこそが叶わぬ願い。理不尽とまでは言わないが、それが理であると言われても納得出来る物でも無い。今際の際に於いて言うのは情けないかも知れないが、生きていたい……
宮島の頭の中には走馬灯の様にして思い出が次々と流れては消えて行った。
宮島は医療検査以外で外した事のない左手薬指に鈍く光る銀の結婚指輪を、45年もの間殆ど外した事の無い指輪をジっと見つめた。そして宮島の左に座る友恵の膝に置かれた左手をチラリと見やった。友恵の左手薬指にも銀色の指輪が鈍く光っていた。少し目線を上げると友恵と目があった。宮島は笑みを浮かべつつ小声で以って「今までありがとう」と口にした。そして正面へと向き直り、長政、弥生の顔を見廻し、「今までありがとう」と呟くように口にすると、目の前のテーブルの上に置かれたグラスへと視線を向けた。
宮島は先程「憂う間も無く亡くなった自分の両親の死はある意味で幸せだったかもしれない」と思った事を、「それは違うな」と、心の中で直ぐに否定した。
この場に孫の杏里はいないものの妻と息子が居てくれている。1人寂しく哀しく死んで行く訳では無い。今の状況はきっと幸せな事なのだろうと、感謝すべき事なのだろうと、このような死を選べたのは見方を変えれば幸せな死であるのだろうと、最期にそう思い直すと共に自分に言い聞かせた。
「私は幸せでした。皆さん、今まで本当にどうもありがとう」
宮島はそう言つつ頭を下げた。そして頭をあげると目の前のテーブルの上に置かれたグラスをそっと掴み、おもむろに口にし、そのまま煽る様にして飲み干した。そしてグラスをそっとテーブルの上へ置くと、宮島の体がゆらりと揺れたかと思うと、隣に座る友恵の肩にもたれるようにして倒れ込み、友恵はすぐに宮島の体を支えた。
宮島はそのまま事切れた。その宮島の顔には笑みが浮かんではいたが、同時に目からは1粒の涙が流れ、友恵の膝の上へと零れ落ちた。
◇
宮島の遺体は友恵が引き取り荼毘に付した。その際には杏里も同席し、棺の中に杏里が宮島に買ってあげたキーホルダーも収められた。
それから1カ月が経った早朝、友恵1人が住む小さな家に新聞が配達がされた。配達員は数日分の新聞が郵便ポストに溜まっている事に気付くと、最寄りの警察へと連絡を入れた。
暫くして1台のパトカーが宮島の家の前に停車した。パトカーから降りた制服警官の2人が宮島の家の玄関ドアチャイムを鳴らすも一切の返答は無かった。複数回鳴らすも一切の応答は無く、警官らは家の側面へと廻ってみた。
居間と接するガラス戸は雨戸が閉じられておらずにカーテンも開けっ放しであった。そのガラス戸から覗いた居間には誰の姿も見えなかったが、警官はガラス戸を割れんばかりに叩きながら呼び掛けたが何ら応答は無かった。警官は目を凝らして部屋の中を物色すると、居間のちゃぶ台の上に1つの湯呑が置いてあるのが見えた。それは人が居た形跡であると判断すると共に緊急の可能性があると警官は判断し、腰にぶら下げていた警棒で以ってガラス戸を割ろうとした。が、直ぐにガラス戸には鍵が掛かっていない事に気付くと、ソロリソロリとガラス戸を開けた。
「宮島さーん。おられますかー。警察でーす」
警察官が居間に向かって大声をあげるも何らの応答は無く、その場で靴を脱いで居間へと上がり込んだ。ちゃぶ台に置かれた湯呑には半分程のお茶らしき液体が残っていたが既に冷え切っていた。警察官は尚も声を掛けながら台所、トイレと歩きまわった。そして浴室へと廻ると、そこに仰向けに倒れている人を発見した。
倒れていたのは友恵であり、既に事切れていた。薄く開かれた目は輝きを失い白く濁り、口はほんの少しだけ開いていた。肌には死斑も見られ死後数日が経過しているであろう事が容易に見て取れた。
その後の警察の調べにより、友恵は後頭部に急性硬膜下血種を起こしていた事が判明し、当初は事件性が疑われたものの誰かが家に侵入した形跡もなく、争った形跡もない事からも事故と断定された。
更に詳しく調査が行われると、浴槽の縁には友恵の皮膚片が付いていた事が分かった。それらの状況を元に警察は事故原因を分析して行った。
その家の脱衣所から浴室へは少し段差があり、友恵が高齢であった事らも不注意でその段差に躓き転倒すると、その拍子で浴槽の縁に後頭部をぶつけたと推測した。転倒した際には未だ意識はあったであろうが立ち上がる事が出来ず、誰かに大声で以って助けを求めたであろうが、自宅のその浴室から隣家までは数十メートルも離れ、その助けを求める声は誰にも届かなかったであろうと推測した。
浴室で徐々に大きくなる痛みに耐えつつ助けを求めてはいたが、時季的にも夜には零下になるような状況の中、やがて意識を失うと共に昏睡状態となり、そのまま息を引き取ったであろうと推測され、直接の死因は凍死であると結論付けられた。
◇
20XX年『終末管理法』制定。
制定されると同時に、厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は、当局の管理監督の下で、個人に対して、個人の終末日、つまり亡くなる日を通知する、というのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に、本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は、健康体の人物を対象とした、福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に、厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は、即刻、郵便として全国へと発送される。対象期間は、月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は、通知葉書を受領した人たちへのカウンセリング、そして安楽死の実施という、2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して、飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か、現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し、生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には、自治体により火葬、埋葬まで行われる。その際は、自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が、自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して、破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで、過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは、終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。
終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると、終末日まで拘束される事になる。
それ程の強権を発動する事に対して、賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという、福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。
そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2019年 11月16日 5版 誤字含む諸々改稿
2018年 12月 3日 4版 誤記修正、冒頭説明を最下部に移動
2018年 10月13日 3版 誤記修正、描写追加変更他
2018年 09月26日 2版 冒頭説明文追加
2018年 09月17日 初版