二章 朧ヲ思ウ
お待たせしました。
ブクマ、感想等頂ければとても嬉しく思います。
キィ── ゴカッ、 ズズッ…………。
バキィッ!
……蹴られた、と理解するのに、数瞬を要した。気付けば、鉄格子と風雨の無機質な冷たさは消えていた。錆び付いた瞼をうっすらと開いて辺りを窺う。
既に日は昇っていた。あれから数時間が経過したのだろう。倒れ伏せた地べたが、陽光を反射している。街路が水溜まりに覆われて、きらめいて見えた。
「……ぃ! 何寝そべってんだ? さっさと立て!」
強い力で引かれる。きつく掛けられた手鎖が固い音を立てた。最早身体の一部となってしまったかの様な感触。鈍痛が走る。己の顔が歪むのが分かった。それが、目の前の男……、道中ずっと自分を虐めていた奴隷商人の男の、嗜虐心を煽ったのだろうか。幾度となく見た歪な笑みを、方頬に浮かべた。
「なあ、『5K─149』番? いよいよこれで、お前ともお別れだなぁ? ああ!?」
両腕を捻り上げられ、体が宙に吊られる。醜い顔を自分の顔に近付けてきた。悪臭のする息がかかる。
「もっとお前と遊んでたかったんだがなぁ? 北のステラんとこの貴族がよぉ、年頃の痩せた餓鬼、ちょうどお前みたいなのが欲しいって言っててよぉ。良かったなぁ、お前にお貴族様の直接指名が入ったぜぇ!? お前、必要とされてるなぁ!!」
────ィン…………。
乱暴に放られた言葉の重圧が、自分の五感を支配した。胸の中心に、冷たい鉄の杭が風穴を空ける。
北の貴族、指名、必要とされてる…………?
ああ、終わりか。思ったよりも軽い命だった。
神は、随分と薄情だ。
あまり商品を傷付けるなよ、と声がかかる。わりぃわりぃ、と軽薄な応答を返し、男は離れていった。大きな檻の中に、自分と隣の奴隷を蹴りこんで。
……………………。
誰ともなく語り始めた、終わりの見えない歴史。
声が届いたのが数人、耳をすまして聞いている者が……、一人。恐らく、人類。これから、この物語を覚えていてくれる者に届いたのだろう。……しかし…………。
…………驚いた。この世界の者ではないな。
この言語は何だ? 見た事の無い法則性……。こちらからの呼び掛けは通じている、のか? 神が存在するのだ、異世界の存在も何ら不思議ではないのかも知れない。こちらの世界と、何の接点も持たない、無関係の者に繋がる事も。
ならば。
彼方の者よ。私の物語を辿っているそこの一人。
そう、そこの貴方だ。
どうか、中途で投げ出さないでほしい。私がこれから紡ぐ、『彼等』の物語を、どうか、最後まで見届けてほしい。
もう、終わってしまった物語なのだ。この物語の時間が、動き出すことは二度とない。
それでも。消させはしない。『彼等』の歩んだ路を、途絶えさせたくは無いのだ。
だから、待っていて、欲しい。
……とは言うが、彼方の者。この世界の常識の埒外にいる貴方は、何も理解出来ていないだろう。貴方がいる世界が存在していた事を、私が知りもしなかったように。
其方の世界の常識とはかけ離れた、貴方から見れば異常な世界なのだと理解している。
けれど。このような世界が。腐敗しきった、崩壊寸前の、救いなど訪れない、このような世界が、これから貴方が知る物語の舞台なのだ。
……遠からず、お教えしよう。この世界の事を。今はまだ、貴方が知るべき時では無い。
……………………。
鋼鉄の檻に入れられた奴隷達を、馬車が引いて行く。鎖に繋がれた両手で鉄格子を掴み、ぼんやりと外を眺める。街の中心街、時計塔で行われる奴隷の競売に向かっているのだ。夢の中のような思考を、自分は続ける。
大通りをゆっくりと進む。街の住民が、此方に目を向けては逸らす。嫌悪感をあらわにして、こちらを睨み付ける者もいた。叩き付けられる罵声に怯え、涙をこぼす奴隷。その弱々しい泣き声に、手綱を握る奴隷商人達が下卑た笑い声を響かせた。
痣だらけの左手を見やる。甲に刻まれた誓い……、決意と万感を湛えて刻んだ誓いは、かき消えていた。どす黒い血の塊と傷が、自分の存在を証明している。
こちらにずっと叩きつけられていた嫌悪感が、遂に後頭部に当たった。決して小さくはない凶器。衝撃、次いで激痛。自分の微弱な鼓動に合わせて、ズキズキと痛みだす。遊びの感覚で投げたのだろう、石が飛んできた方向から、子供の歓声が聞こえてきた。
寒さでぼやけるように痛む傷痕。固く握り締めていた手を、額に当てる。ヌルリとした、嫌な感触。下ろした手の平が、鮮血に染まっていた。寒さか、それとも別の何かか。無表情に見下ろす手は、振るえていた。
溢れる。止めどなく溢れる。何かが溢れてゆく。手の震えが戦慄きに変わるのに、そう時間はかからなかった。
一点、深紅の色が滲む。二点、四点……。その数は止まる所を知らず増え続ける。
何の。何の為に流される涙だ。
テリアの街の中心、そびえ立つ時計塔に馬車が差し掛かる。
未だ止まない罵声を背に受けて、開かれた門の中へ、競売所へと進む。
自分が、辺境の地から来た者だからか。
自分が、使い勝手の良い子供だからか。
自分が、女だからか。
わたしが、魔法を使えないからか。
何故、こんな事になった。誰のせいだ。これから自分はどうなるのだ。皆は。村は。自分は……。
……………………。
そうだ。奴隷は、遂に気付いたのだ。
貴方は、奴隷を見て、何を思うだろうか。
滂沱の涙を無表情で流し続ける5K─149を、周りの奴隷達が恐怖の目で見やった。
巡る。巡る。思考が巡る。巡る。
考えることを止めた彼女は、多くの視線に晒されながら。
舌を、噛み切った。
次回、遂に物語が動き出します。
『彼等』の登場です。