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9 筋肉の鼓動

9 筋肉の鼓動


 オフィス。自分のデスクでパソコンに向かって書類を作っていると、すっと横に腕組みをした女性に立たれた。誰だろうと思って顔を見上げてみると、同僚のアギー・マーシャルだった。彼女はニコラスと目が合うなり言った。「ニコラス! あなた何かしたらしいわね。上司のパリ―に何か言ったんでしょう。具体的に何を言ったのかまではわからないけれども、あなたとパリ―のやり取りを見ていると、今までとはちょっと違う、何か不自然なものを感じるわ。現にあなたの最近の退社時間ときたら、これまでのそれとは全然違うんですからね! 本当に何ていうか、これまでとめちゃくちゃ違ってしまっているというわけじゃないけれども、どこかが違う。ええ、今までのあなたの退社時間と今のあなたの退社時間がとにかく違っているのは確かよ。そんなことくらい私にだってわかるんですからね」

「どうしたんだいアギー」ニコラスは彼女のことを煙たそうに「もしかして何かに対して怒っているのかい? もし何かに対して怒っているというのなら勘弁してくれないか。今君に付き合っている時間はないんだよ」

「退社時間が変わったからね!」すぐさまマギーが言葉を返してくる。「それはなぜならあなたの退社時間がこれまでと変わったからでしょう。これまでとどのように変わったのかと言われると少し謎だけど、でも変わったんでしょう。それでその変化のおかげで、今この私の相手をしているのも億劫だというのね。さっさと仕事を終わらせたいから!」

「それはいつものことだよアギー」ニコラスは言った。「僕は会社に勤めている人間として、自分の仕事はいつだって早く仕上げてしまいたいと思っているよ。なぜならそうすることでクライアントもハッピーになるし、また自分たちもハッピーになることができるからだよ。だから退社時間のことは関係ないよ。退社時間がどうのこうので僕は今特別に急いでいるわけではないんだ。君ならきっとわかってくれることだろう。ほらもっとよく僕のことを見てみるんだ。どうだい? そこまで変じゃないだろう? そこまで普段と違って急いでいる風には見えないだろう? いつも通りに急いでいるってわけさ。勘違いしないで欲しいんだアギー。僕はいつだって急いでいる人間なんだよ。いつだって仕事は早く終わらせたいと思っている奴なんだ」

「パリ―に何て言ったの?」アギーがたずねてくる。「だってそうじゃない。あなたたちの関係って、あきらかに今までとは違うわよ。今まではもっとずっと何をするでも一緒だった二人だったのに、今では何だか二人の間には距離があるみたい。何だか距離があるみたいに見えるのよね。何か言ったんでしょ。あなた絶対にパリ―に何か言ったんだわ。それで二人の間が微妙に気まずいものになってしまったのよ。どうしたの、女のこと? それともお酒の席で何かやらかしたってわけなのかしら? あなたが彼に対して何か失礼なことでもしたんでしょう。それともまさかあの人があなたの機嫌を損ねるようなことをしたっていうの? へー、あなたでも機嫌を損ねることなんてあるのね。他人にされて嫌なことなんてあるんだ? いつもへらへらとしている口だからわからないわ。もしあなたがこれ以上何も私にしゃべらないっていうなら、パソコンのキーボードにいたずらしてやるんだから」

「パソコンのキーボードにいたずらって?」ニコラスがアギーにあらためてそう聞いてやると、彼女は少しむっとした表情になった。むっとした表情になりやがったな! この私に本当にいたずらさせる気なの? とでも言わんばかりだ。何だ、するといったのは君の方じゃないか君の方じゃないか。いたずらしたいならすればいいだろう。だいたいキーボードにいたずらって何をするつもりなんだ。しょうもない。そんな子供みたいな発想をしてくるからこっちだって嫌気がさしてくるんだ。もうこれ以上用事がないならさっさとその場所から離れてくれないかね。

 ニコラスは言った。「何でもないよ。ただ筋肉の問題があってね」

「筋肉の問題?」

 アギーが食いついてくる。筋肉という二人のあいだには今までなかったキーワードが新しく登場したから、彼女としては、これできっと二人の会話は前に進むに違いないと踏んだのだろう。そうはいくか。ニコラスはマギーから視線を外して「いや本当にただのちょっとした問題なんだ」

「そんな今更ごまかしたって無駄よ」アギーが追いかけてくる。「筋肉が何ですって? 筋肉がどうしたのよ。筋肉の問題って一体何のことなの?」

「だから何でもないって」ニコラスはそう言うと、手をキーボードのあたりに置いて仕事の再開する素振りを見せる。

 マギーがバンッとニコラスのデスクに手を置いて「ちょっと待ちなさいよ。あなたさっき筋肉の問題って言ったのよ? だったらその筋肉の問題が何かってことをちゃんと私に向かって説明しないといけないじゃない。それなのに何をしれっと仕事を再開しようとしているのよ。そんなこと私が許すわけないでしょ。あなたが今からしなければならないことは仕事なんかじゃないの。私への説明よ。あなたは今から私への説明をしなくちゃならないってわけなのよ」

 君にこの俺が一体何の説明をしなくちゃならないんだよ、ニコラスはアギーの言葉を聞いて一瞬にしてそう思ったが、しかし彼女に対して直接そういうことはなかった。彼女とはもうこれ以上極力関わり合いたくないと思ったからである。要は、彼女は自分の邪魔をしに来ているだけなのである。彼女としては、別に自分の邪魔をしているつもりなどないのかもしれない。簡単な会話でのコミュニケーションを取りたいと思っているだけなのかもしれない。だがそれがうざいのだ。そんなことってそっちは必要としているかもしれないけれども、こっちとしては全然必要としていないのだ。だからこちらが必要としていないことに対して非協力的なのは当然の結果といえるだろう。説明しろと言われて誰が素直に説明などしてやるものか。筋肉の問題について君に説明してやったところで僕には何のプラスもないし、むしろその労力が惜しいくらいだ。さあもう俺のデスクのそばから離れるんだ。まったくデスクの上に手を置くなどなんのつもりなんだ。この俺を脅そうってつもりなのか? そうはいかん! 俺は今仕事をしている最中なんだ。君と話して楽しければそれもいいかもしれないが、そんなことをしている余裕など俺にはない。誰かがやらなきゃやらない仕事を黙々とこなしている最中なんだよ。もし俺の筋肉の問題というキーワードが気になったのなら、自分で考えてみるか、それかあとにしてくれないか。俺に時間があるときに、俺に余裕があるときにしおらしくそっと聞いてくれればそれで済む話なんじゃないかな。

 アギーが話し出した。「筋肉の問題ってもしかして今のそのあなたの筋肉に何か不具合が? 何か不具合でも生じたというのかしらね。つまりあなたのその筋肉は何かしらの病気にかかっている最中なんじゃないかしら? それであなたはその自らの筋肉の治療のために通院や自宅治療をしないといけないから、それで上司であるパリ―に労働時間に何かしらの変化の加えることをお願いしにいったというの? そのせいであなたとパリ―の関係性に何らかの変化がおとずれたというのね。だとしたら何ということでしょう! あなたの筋肉は今正常じゃないのね。昔の状態から比べるといくらか悪い感じになってしまっているんでしょうね。見た目的には何も変化がないように思えるけれども、でも筋肉の問題なんですからね。外からではよくわからない、あなたの肉体の内側には何か猛烈なことが起こっているのかもしれないわね。何だ、病気になってしまっているというのなら素直にそう言ってくれればいいのに。でもこうやって一応会社に来ているってことは、どこかに入院しなくちゃならないほどあなたの何かは悪いってわけじゃないのね。とりあえず出社はできるレベルなんだね。具体的にどこがどう悪いの?」

 ニコラスはアギーの話を聞きながら、ビョーキじゃねーよ、と思ったが、やはりまた何も言わなかった。むしろ彼女の話を聞いていて、彼女がそのような理由で納得してくれるというのならば、それはそれでいいなと思っていた。下手に続けて「いや実は筋トレを最近はじめることになってね」なんて話をしていたら、一体どうなることやら。筋トレなんかダサい、お前みたいな奴が筋トレをしたって無意味だ、急に筋トレをし出す奴ほど気持ち悪い奴はいない、今後私の半径2メートル以内には入ってくるな、みたいなことを言い出してくるだろう。彼女のことはこのまま彼女に適当に喋らせて放置しておくのがベストなんだ。そうしないともっとこっちが彼女に対して喋らないといけなくなってくる。

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