8 骨折り損
8 骨折り損
ニコラス・アディソンの上司、エイブラハム・パリ―の話はまだ続いた。「それで何だって? お前の言い分は何だったかな? もっと労働時間を減らしてくれないかだって?毎日働いている時間を今より少なくしてくれないかというのがお前の要望ということでいいのかな? だとしたら今すぐこの会社から出て行け! お前などもういらない、お前が明日から路頭に迷うことになろうがならまいがそんなこと俺には関係ない! 一体どうしたというんだよニコラス、ニコラス・アディソン! お前は本当に! 本当にそんなことをいう奴じゃなかったのにな。労働時間を減らして下さいだなんて、そんなことを俺に直訴してくるような奴じゃなかったじゃないか。むしろまだまだ全然働き足りないから、労働時間を増やしてくれというのならまだわかるが、まさかお前がそんなことを言っちゃいけないよ。労働時間を減らしてくださいだなんて言っちゃいけないんだ。母親が倒れたのか? まさかお前を一生懸命に育ててくれた最愛の母親が突発的な病気で先日倒れてしまって、それでお前はこれまでのように仕事をするだけの生活をやめなければならなくなってしまったのか? 仕事だけに自らの時間を費やすという生活スタイルの断念を迫られてしまったというわけなのかな? それだったら私もわかるけどな! 君みたいな人間でも、そりゃやっぱり最愛の母親だけは無下にできないだろう。まだ亡くなったわけじゃないんだ。母親が辛い入院生活を送るという。その母親を看病するために君は自らの労働時間を減らしてくれないかと言っているのかな? そうじゃないというならなぜ労働時間の短縮などを求めるんだ! 理解できん、私は確かにお前の上司のエイブラハム・パリ―その人だがまったくわけがわからんぞ! お前がこの私に労働時間の短縮を申し出てくるなんてな。何かわけがあるんだろう? 正直にわけを言ってくれないと、私だってお前に何と言ってやればいいのかわからないよ。母親が倒れたというのならばまだわかるし、それは父親でも同じだよ。お前の身内がもしもう親父しかいない、みたいな感じだったら、そりゃ息子であるお前はがんばらないといけないよ。今ある労働時間を削ってでも父親の看病をしてやらないといけないころだろう。さあどうしてなんだ? お前はどうしてこの俺に労働時間の短縮などを求めてきたんだ。何かわけがあるんだろう! 何の訳もないままにお前がこの俺に労働時間の相談をしてくるはずがないんだからな」
「筋肉です」ニコラスは答えた。「ずばり言いましょう、ええ私はずばり言うことにしますよ。あなたは私の上司ですからね。あなたは私のれっきとした上司であるエイブラハム・パリ―なんですから、私はあなたには正直に告白することにいたしますよ。それは筋肉です! 私が労働時間の短縮を希望する理由、それはずばり筋肉ですよ。そしてあえてこう付け加えさせていただきますが、それ以外の理由はございません! 今回の要望に関して、その理由が筋肉のみであることをここに私は宣言いたしますよ。筋肉なんです。私は私の筋肉のために、今回の労働時間の相談をあなたにさせていただいている次第なんですよ。母親や父親のことでなくて申し訳ございませんね。母親や父親が急な病気で倒れてそのまま入院になり、そしてその息子である私が彼や彼女の介護に奔走するために労働時間の短縮をお願いしますというストーリーを持っていなくてすみませんね! 父親や母親は多分今も実家でぴんぴんしていることでしょう。今具体的に彼らがどのような生活を送っているのかは、もう彼らとは離れて暮らしている私には、わかりかねますが、しかし深刻な連絡が彼らからない以上、彼らは今も平和に暮らしているのだろうと想像するしかございません。よってやはり今回の労働時間短縮希望の件に関しては、私の筋肉です。私の筋肉の件のみによって、私は今こうしてあなたに時間を取っていただいているのですよ」
「どうやらさらにわけのわからない事態が私の目の前で起こっているらしいな」ニコラスの上司、エイブラハム・パリ―はそう言うと、座っていたオフィスチェアで90度ずつくらい左右に振れてから、全然ニコラスの方を見ないで言った。「いきなり君の口からずばり筋肉です、なんて言われてもまったくわからん。お前の中では非常に辻褄のあった解答なのかもしれんが、お前の事情を知らない私からすると、いきなり筋肉ですという言葉だけをもらっても、それはほかの何にもうまくつながって行かん。そういう自分以外の他人が自分の言葉にどのような反応をするのかわからないくらいにお前は今自分のことに舞い上がってしまっているというのか? いいか、よく考えてみるんだ。私はお前によく考えてみろと言っているんだ、ニコラス・アディソン! お前がもし逆に俺の立場だったらどうする。お前が俺の上司で、俺がお前の部下という立場だったらお前は今どんな気持ちになっているんだろうな。部下から労働時間の減少の訴えられたことはわかる。毎日の労働時間があまりにも長いから、ちょうどいい具合にまで減らしてくれないかと言われているんだ。だが問題はその理由だ。何事も変更を加えるときには、その理由がもっとも大切だとは思わんか? 考えてみればこの世の中、変わって行かないものなどないんだ。お前はその変わりゆく世の中をただ漠然と眺めているだけでいいのか。我々は常にどんなときだって何にでも何かしらの理由を探し求めているものなんだ。それで話を元に戻そう。話を元に戻すことにして、それでもしお前が部下から労働時間の減少を訴えられて、お前はそのときどう思うんだろうな? どうしてなのかなって思わないか? 単純に、ものすごく単純になんだが、部下である私に対して、どうして労働時間の減少が必要なの? 何かあったの? もしかして長時間働くことが嫌になったの? それとも何か家庭の事情でも? たとえ家庭の事情じゃなかったとしても、何かしら君のプライベートにそうしなければならない何かが起こったということなのかな? みたいなことは思うだろう。それくらいのことはきっと君だって思うだろうな! それで君はその答えに筋肉と答えたんだよ。筋肉と答えやがってこの馬鹿者が! いきなりその問いかけへの返答で筋肉です、なんて答えられたって俺に何ができるっていうんだ。この俺に何をわかれと言っている。まったく失望ものだよ。君という人間にはほとほと失望させられてしまったね。こんなにすこーんと他人に失望させられてしまったのは果たしていつ以来だろうな。もしかしたらこれまでの私の人生の中でもまったく初めてのことかもしれんぞ。今私の人生の中でまったく新しいことが起こってしまったよ!」
どうやらエイブラハムはニコラスの返答内容に納得していないようだった。ニコラスは彼の言動を見たり聞いたりしていて、何とか彼にはすぐにでも落ち着いてもらいたいものだと思ったが、そう思うと同時に、それはまあ無理な相談だろうな、とも思った。この上司はだいたいいつもこんな感じなのである。だいたいいつもこんな感じといって、彼は何か自分の理解できない、ちょっとでもわからないようなことが起こると、すぐに頭をパニック状態にさせて、ああでもないこうでもないと手当たり次第に口を開ける。それでそのまま黙って彼の話を聞いていると、彼は次第に落ち着きを取り戻し、今までのものとはほとんど別といえるような適当な話題を数分間話し出したと思ったら、おおよそ話がまとまるようなオチを勝手につけてくるという寸法なのである。というわけで、彼の、確かにいきなり筋肉ですという回答をもらったところで、お前は何を言っているんだ、わけがわからない、もっとちゃんとした答えをいえ、という意見ももっともだと思ったが、エイブラハムの場合だと、それでもいずれそれなりのところでこの話にはけりをつけてくれることだろう。むしろここまで来てしまうと、逆にこちら側から中途半端に彼に刺激を与えることはよくない。彼の考えが彼の中で固まりつつあるところに、おせっかいにもこちら側から新たな情報を投げかけてやれば、彼が自分なりの真実にたどり着くことはなく、えてして一般の人たちがそうであるように、お互いの共通の理解を深めようとせざるを得なくなってしまう。つまり物事の真相、真理、みたいなものをお互いに共有して初めて話が解決する、ということになる。そこでニコラスは思うのである。そんなこと俺とこの上司のあいだに必要なのか? 俺はただ筋肉トレーニングのために労働時間の減少が実現すればそれでいいわけだし、上司も上司で、ただ何かしらの理由によってこいつは労働時間の減少が必要なんだな、じゃあ仕方ない、許可してやるか、みたいな認識になればそれで十分なはずだ。大切なのはお互いに欲しいものを無事に手に入れることなんじゃないのか? だって今回の場合はお互いに明確に欲しいものがあるんだから。