7 代償
7 代償
ニコラス・アディソンは元彼女からの「ちょっと太ったんじゃない?」という一言から筋肉トレーニングの開始することを決意したが、彼はある重大な問題に気が付いた。それは、自分にはそんなことをしている時間がない! というものだった。彼女からかつての自分と比べて太っていることを指摘されて、そうだ、こうなったらいっそのことダイエットとかではなくて、筋トレだ、筋肉トレーニングをして、以前の自分を凌駕してやるんだ、みたいな決意を持ったまでは良かった。そこまでは順調だった。だがそのあとで彼は気づいてしまった。「あれ? そういえば俺は仕事ばかりじゃないか? 毎日毎日仕事ばっかりしているじゃないか。これは一体どういうことなんだ。いやいいんだ。それでいい。俺は社会人だし一人暮らしの身なんだから、空いている時間は仕事ばかりしていていいんだ。よくない! 仕事をしているのはいいことかもしれないけれども、一日のうち、もしくは一週間のうちずっと働きづめでいるということは決してほめられたことじゃない。俺は経営者なのか? 自分で会社を経営して儲けまくっている立場だというのか? 違う、俺はただの一社員だろう。会社に属しているただの一人の従業員さ。だからもちろん働くのはいいことだけれども、生きている時間がそればかりになっているのは困ったものだ。だって普通筋トレをしようと思い立って、一人じゃよくわからないから、ジムなどに通って専門的な方のアドバイスなどを参考にしながら徐々に頑張ろうと続けて思う、そしてそのように思ったときに、じゃあ本当に適当なジムを決めて本格的な自分の筋肉トレーニングを開始しようとするだろう。そこで俺の場合は待ったがかかってしまうのだ。順調に筋肉トレーニングのための時間を推し進めようとするのに、俺はある時点から身動きが取れなくなってしまう。筋トレをする決意も持ったし実際に通うジムも決めたのに? そうなんですよ、実は俺は、一日のうちのその大半の時間を仕事に費やしていて、仕事が終わったあとの時間なんて、ご飯を食べてそれでお風呂に入って眠れば終わりなんですよ。こんな時間のスケジュールじゃまさかジムになんて通えませんよ! 俺が考えていたのは、あくまでも仕事帰りにほぼ毎日ジムに通ってすがすがしい汗を流す、筋肉の成長を促す、みたいなトレーニングがしたかったのに、どうやらそれって俺が今の仕事を続けている限り永遠に難しいようなんです。だって本当に今の俺は、仕事が終わればあとは家に帰って寝るだけ、みたいな生活をしているんですからね。通うジムを決めたり筋トレへの決意を固めるだけじゃ仕事の時間は減らなかったというわけなんです」
ニコラスはやっと帰ってきた家の部屋の中で、やけに明るい蛍光灯の下でタバコを吸いながらずっと考えていた。やはり俺には筋トレは無理なのだろうか。ジムに通って、筋トレに詳しい人たちのアドバイスをいただきながらバランスよく体を鍛えることは夢のまた夢だとでもいうのか。いやそんなことってない。筋トレですばらしい、自分好みの肉体を手に入れることは、もしかしたら果てしなく難しいことかもしれないけれども、実際に筋肉トレーニングをやるとか、専門的な人にアドバイスをもらうことは、そこまで難しい、とにかくいってみれば、絶対に実現不可能と思われるようなことじゃない。やろうとさえすれば誰にだってできるはずだ。誰にだってできる領域に存在しているはずなんだ。それなのに今の俺ときたら、その領域にあるものにさえ手が届かない。なんでだ? こんなに毎日働いて働いて働きまくっているというのに、どうしてそんな誰もが手に入れられるものさえ手に入れられなくなってしまっているんだ。そう、俺はそういう普通の人が手に入れられるものさえ手に入れられなくなってしまっているんだよ! 手に入れられなくなってしまったということはすなわち、かつては俺もそれを手に入れられたということだ。学生のときや、今の仕事を始めるまでは、俺にだって自分で自由にできる時間くらいあったさ。だからその自分の自由な時間に、たとえば今回のような筋肉トレーニングの計画を企てて実行してやれば良かったわけだ。でも俺の場合、筋肉トレーニングをしたいのは今なのであって、自由な時間があるから筋肉トレーニングでもしようってわけじゃないんだよ。学生のときや、ほかに自由な時間があるときには、筋肉トレーニングをしたいだなんてちっとも思わなかった。本当に俺は今やっと筋肉トレーニングをしようと考えている次第なのであって、かつて筋肉トレーニングをするチャンスがあったのにだとか、もっと前からこのようなことを考えていたら今頃は実現できていたのにとかいわれてもどうしようもない。家でやるか? もうこうなったらいっそのこと、誰にもアドバイスなどもらわずに家に閉じこもって一人でやってやろうかな。それだったらさすがにできるだろう。ジムに通ってジムに費やす時間が仕事のせいでなかったとしても、家で一人でやる筋トレなら少しはできるはずだ。だって寝る前にでも気の済むまでやればいいんだから。ホームセンターやネットなどでダンベルなどを購入して、それで気ままにやればいいじゃないか。だって仕方ないだろ、俺には仕事があるんだから。俺には大切な仕事があるんだから、それを放り出して筋トレに時間を割くことなんてできないんだよ。それによくよく考えてみれば今は情報化社会なんだ。個人の欲しいと思っている情報は何かしら巷にあふれている。確かに一昔前だったら、自宅で一人筋トレという行為は怪しくて危険でなかなか成果の出ない行為だったかもしれない。ところが今はインターネットというものがあって、これで大抵のことは調べがつく。したがってたとえ自分一人で筋肉トレーニングをすることになったとしても、そこまで偏った、間違った知識のまま時間を過ごすことはないだろう。いやむしろネットの時代だからこそ、間違い続けることって難しいのかもしれない。じゃあ本当に一人で仕事が終わってから家で寝るまでの少しの時間でも筋肉トレーニングをするのか? 道具さえそろえれば、極端な話それは今日からだってできることだろう。まあ今から筋肉トレーニングの道具を実際にそろえるのは非現実的な話だったとしても、要はそういうことだ。この話の要点はそこなんだ。本当にその人個人に筋肉トレーニングのやる気さえあれば、時間のないことや知識のないことを嘆いてはいけない。たとえ時間がなかろうと圧倒的に知識がなかろうと、努力して少しずつでも前に勧めること、それさえできれば俺はもはや筋肉トレーニングをしているといえる。筋肉トレーニングに励んでいる最中の男だと名乗れるはずだ。そうだ、俺は筋肉トレーニングにはっきりと向かっている男なんだ。筋肉トレーニングをしている最中の男だ。最近働きすぎているから、明日会社に出勤したら上司に相談して仕事時間を減らしてもらえるように交渉してみるか。
翌日、ニコラスは出社してきたばかりの上司、エイブラハム・パリ―を捕まえて彼に労働時間の短縮を訴えた。エイブラハムはニコラスの要求に対してこう切り返した。「ニコラス、ニコラス・アディソンよ。そんなことを言い出してお前は急にどうしてしまったんだ。いつもの調子じゃないんだろう。一体どうしてしまった。何か嫌なことでもあったのか。嫌なことでなかったとしても、自分の力だけではどうにもできそうにない、何か運命のようなものでも感じざるを得ないようなどでかい事件でも起きてしまったのか。そんなどでかい事件など起きていないのか。そんなどでかい事件は別に起きていないというのだな、ニコラス! じゃあ本当に一体どうしたんだ。ニコラス・アディソン! お前としたことがふがいないじゃないか。そんな労働時間を短縮してくれだなんて、お前はそんなことを今まで一度だって言ったことがないじゃないか。初めて言っているのか? お前はもしかして今初めて俺に向かってそんな要求をしているんじゃないだろうな。言いにくいことがあるのはわかる。この世の中には、他人にはどうしても言いにくいことが存在しているというのは、俺もよく知っている。よく知っているが、俺はお前の上司なんだ。お前の上司であるからには、全部とはいわなくても、ある程度は部下であるお前の考えというものをわかってないといけない。まあ本当に言いにくいことがあるなら無理してまで言わなくていいけれども、でも俺は心配だぞ。急に労働時間のことを口に出してきたお前のことが俺は心配なんだよ。お前が何を考えているのか、そしてお前が何を考えているのか口頭で発表されたところで、俺はお前のことなどちっともわかってやれないかもしれないが、とにかくニコラス! ニコラス・アディソン! ちょっとは落ち着きを取り戻したらどうなんだ。そう朝から鼻息を荒くされたら、こっちもなかなかお前の話を最後まできいてやろうという気にならないよ」