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6 静まれ

6 静まれ


 ニコラス・アディソンは元彼女に「ちょっと太ったんじゃない?」と言われたことをきっかけに筋トレの始めることを決意し、会社の最寄駅の近くにあったジムに入会したのだがその入会したジムがつぶれた。したがって彼の筋トレをしたいという気持ちは彼の意図しないところで宙ぶらりんになってしまった。彼はまだそのジムで一度も筋トレをしたことがなかった! これが何度か試したことがあるとか、最低でも一度くらいはそのジムに通ったことがあるという状態だったら、畜生、どうしてつぶれてしまったんだ、とてもお気に入りのジムだったのに! これからもずっと通おうと思えるすばらしいジムだったのに本当にどうしてなんだ! と嘆くことが出来たり、もしくは、つぶれたの? つぶれたんだったらまあいいか、正直、確かにあのジムへは自分の意志で入会したわけだけれども、入会してみないとわからないことってある、スタッフの人に案内を受けているときは、やっぱり誰だってその場所のいい面しか見ようとしない、でも実際にそこに足を踏み入れてトレーニングをしてみると、どうしても納得できないところとか、もっとここがこうなっていたらいいのにな、みたいな思いが出てくる、そうか、あのジムがつぶれたのか、つぶれたんだったらまあじゃあいいや、それでいいや、これであのジムを退会する手間が省けたってもんだ、ほかのジムを探そう、もっときっとほかにいいジムがどこかにあるはずだから、今回の嫌だった部分とかを参考にして、いろいろまた調べてみよう、というような反省ができたりもする。しかし現実は、彼はまだ一度として入会したジムに通うことはなかったのである。入会したジムに通うことなくジムは消え去った。ニコラスはこれから自分がどのように立ち振る舞えばいいのか判然としないまま日々を過ごさなければならなくなった。


 仕事帰り、自分の乗るべき電車がやってくるまでぼうっと駅のホームで電車が走って行くのを眺めたり、そこに集まってくる人たちなんかを眺めながらニコラスは静止していた。疲れていた。ホームにあったベンチに腰かけて、膝の上には黒いくたびれた革のビジネスバッグを乗っけている。今日も無事に一日を乗り越えることができたが、週末までにはまだあと二日ある。もしかしたら週末にだって急な用事で仕事に出てこなけばならなくなるかもしれない。それに明日のことを考えると、今日このまま順調に家に帰れたとしても、すぐに寝なければならないことだろう。お風呂に入って、コンビニで買ってきたおにぎりやパンを食べればそれでおしまい。あとは布団の中に入ってスマホを少しだけイジイジして眠りにつかなければならない。疲れてはいるが、しかしだからといってすぐに眠りにおちれるわけではない。最近は本当に布団の中でスマホばかりをいじっているからか、布団に入ってから睡眠が始まるまでの時間が妙に長い。つまり寝つきが悪い。気が付けばスマホをいじっていて、朝方近くになっていることもある。これでは次の日もたないと思ってはいても、眠れないのだから仕方がない。別にスマホが異常に面白いわけではない。やっていることといえばニュースサイトを見たりユーチューブを見ていたりだ。だから本当ならば眠るべきなのだ。スマホばかりをいじっていないで、スマホは枕の横にでも置き、そして目をつぶるべきだ。目をつぶって、じっと睡眠の落ちるのを待つ。だがそのタスクをしっかりとこなしたところで、やってくるのは翌日。せいぜい翌日の朝というところだ。そして翌日の朝といえば仕事。仕事仕事仕事。目が覚めれば顔を洗って服を着替えて出社という段取りになっている。その行動パターンから逃れることは、想像に難しくないように容易ではない。


 このような仕事だらけの生活の中でニコラスは筋肉トレーニングという新しい要素を加味しようというのであった。そんなこと本当に可能なのだろうか? もちろん普通の社会人で、夜仕事が終わったあとに近所のジムに通って汗を流しているという人たちはいるだろう。というかそういう人たちは大勢いるに違いない。しかしニコラスの場合を考えてみてほしい。彼は先述したように、ほとんど仕事しかしていないような毎日を送っているのである。朝早くから会社に向かい、家に帰ってくるのはほとんど日付が変わろうかというころ。こんな毎日をずっと続けているのである。週末か? 彼はじゃあもしかすると、週末だけジムに通って自らの筋肉と向き合い育てていこうと考えているのか? いやそんな週末だけのトレーニングで理想の筋肉を手に入れることなどできるのだろうか。できるはずがない! となると、やはり彼が筋トレをするということはすなわち、毎日、会社が終わったあとでということになる。ニコラスは目の前を通り過ぎていく電車を眺めながらどうして自分が筋トレを始めることになったのか、そしてそれをどのように、どのような頻度で行おうと考えていたのか、これらを頭の中でもう一度確認してみることにした。「俺は確かに筋肉トレーニングを始めようという気持ちで満ち溢れていたんだ。筋肉トレーニングさえすればすべてがうまくいくんじゃないかという感覚さえ持ち合わせていた。持ち合わせていなかったといえば嘘になる。だが入会を果たしたジムは一度もそこでトレーニングを行うことなくつぶれてしまった。何かの運命なのか? 神様が俺に筋肉トレーニングをするなとでも言っているのか? たとえ神様にそのようなことを言われたって知ったことか! 俺は筋肉トレーニングをすると決めたんだ。だから決めたからにはやる。絶対にやり遂げて見せるんだ。ところでどうして俺は筋肉トレーニングなんぞしなければならない羽目になったんだ? 元彼女との会話は覚えている。元彼女との会話は、俺にとっては非常に刺激的なことだったし、はっきり言ってショックな出来事だった。だけど確かに彼女から『太ったんじゃない?』と言われて、それが嫌だったのなら、じゃあ筋肉トレーニングじゃなくても普通にダイエットでいいじゃない。ダイエットをして元の体系を取り戻すようにしたらいいじゃない。いや俺はこのことについて自分自身に問い掛けたんだ。そして見事に自分自身からの返答をもらった。それは『新しいことに挑戦しろ』というものだった。俺は今まで筋肉トレーニングをしたことがない。まあダイエットもしたことがないといえばないけれども、でもダイエットをして得られるのは元の自分の体形。筋肉トレーニングはそうじゃない。筋肉トレーニングはそうじゃなくて、元の自分以上にすばらしい、筋肉を適度に身にまとった肉体を手に入れることが出来る。この点が俺にとっては新しい挑戦ということなのだろう。だから俺は筋肉トレーニングをすると自分自身に言い聞かせて誓ったんだ。だが現実的な問題を考えてみよう。やっと入会したジムはつぶれ、よくよく考えてみたら、毎日仕事ばかりに時間を取られて、とてもじゃないけれどもまともにトレーニングに割ける時間などない。一体どうすりゃいいっていうんだ。やはり神様は俺に筋肉トレーニングをするなと言っているのか? いやまだいく下がれる。いくらだって食い下がれるさ。まずせっかく入会したジムがつぶれてしまった件だが、これはまたどこか新しいジムに入り直せばいい。こう考えるんだ。下手に通い続けたところでつぶれられるよりかは、一度も通っていない状態でつぶれてくれた方が、次に行きやすくて気持ちも楽だ、と。このように考えれば、今回のジムが早々につぶれてしまった件に関してはプラスにとらえることが出来るだろう。今にもつぶれそうなジムにずっと通い続けなくちゃならなくなるよりよっぽどマシってもんだ。そういうジムよ、さっさとつぶれてくれてありがとう。さて仕事はどうする。仕事は……」


 ニコラスの乗る電車がやってきた。彼は電車が駅のホームに到着すると、車両のドアが開くであろう位置に出来ていた行列の最後尾にふらりと整列した。前に立っていた男が両耳に大きな、目立つ白色のヘッドフォンをしていた。彼はきっと何か今あのヘッドフォンできいているのだろう。音楽だろうか。それともユーチューブの動画だろうか。学生だろうか。ニコラスは彼の後頭部らへんを見ながら、自分も通勤や家で寝付くまでのあいだ、彼のように大きなヘッドフォンを頭に着けて何か好きな音楽でも聞けばいいのかもしれないな、お気に入りのビデオでもいいだろう、そうしたら何か今まで思いもつかなかったようなアイデアにこの身を貫かれることがあるかもしれないな、と思った。列が進んでニコラスは電車に無事に乗った。

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