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5 ジムの閉鎖

5 ジムの閉鎖


 午前中の仕事を終え、お昼ご飯を済ませた後に一服しているとニコラス・アディソンの携帯電話が鳴った。すぐに画面を確認してみると、先日入会手続きをすませたばかりのジムかららしかった。ニコラスは電話に出た。

「もしもし」

「もしもしニコラスさんのお電話でよろしいでしょうか?」

 男の声である。誰なのかわからないが、今の時点で考えてみるに、それはやはり先日の中を案内してくれた受付の男性スタッフだろうか。今のところ落ち着いた声色であるが、ジムからこちらに電話の直接かかってくる用件が想像できないので、もしかすると彼は何か焦っているのかもしれない。

「はいそうですが」ニコラスは答えた。

 すると電話の主は言った。「ニコラスさん、申し訳ございません、実はあれから大変なことが起こってしまいまして、ジムはこの度閉鎖させていただくことになりました」

「何ですって!」

 ニコラスは彼の話に思わず驚嘆の声を上げた。

 だってそりゃそうだ。

 電話の主は電話の向こう側で確かに今ジムが閉鎖されることになったと言ったのだ。それはニコラスにとってまさかだった。信じたくない出来事の一つだった。なぜならニコラスは確かにそこのジムの会員になってから、まだ一度もまともにトレーニングをしたことがなかったからである。

 ニコラスは言った。「そんな、私はまだ一度もお宅でトレーニングをさせてもらったことがないんですよ? あれから随分と楽しみにしていたのに、一体何があったというんですか」

「大変申し訳ございません」男が言う。「ですがこれが事実なのです。私どももジムのスタッフとして、この事実はとうてい受け入れられるものではございません」

 とにかく申し訳なさそうな男の声。

 事情はよくわからないが、今回の閉鎖という決断が、少なくともそこで働く彼の意思の素直に尊重されたものでないことがうかがい知れる。

「何かあったんですか?」ニコラスはたずねた。「たとえばその、ジムが何か火事のような事故に巻き込まれてしまっただとか、利用者の誰かが重大な犯罪と結びついていた危ない奴だったとか」

「いや普通に経営難です」

「経営難!」

 ニコラスは思わず男の言葉を繰り返した。どうやら男の説明によると、今回ジムがダメになってしまったのは、経営難、すなわち集客がうまく行かずに利用者がどんどんと減ってしまい、かつ支出をうまく縮小することが出来なかったために資金がパンクしてしまったかららしい。じゃあ悪いのは全面的にジム側じゃないのか。男の口ぶりから、何か回避できないような唐突な不幸のせいで今回ジムが閉鎖に追い込まれてしまったのかと勘繰ってしまったけれども、別にそういうことでもなかったらしい。

 ただ単に経営難だと。

 お金のやりくりがうまく行かずにジムが閉鎖されることになったんだと。だったらそこへつい先日何も知らずに入会してしまった私はバカみたいじゃないか!

 電話の向こう側で男が続ける。「先日も申し上げました通り、私たちのジムは自由だったのです。人々の自由を体現する場として地域のみなさまの肉体的な健康を守ることはもちろんのこと、彼らの精神面での充実、体の健康の確保、想像力の発散、などについても貢献しているであろうことを自負していました。ところが問題はその程度だったのです」

「その程度?」

「ええ、つまり我々は調子に乗って変人ばかりをあのジムに招き入れすぎた結果、ジムの運営がままならないほどの多大なコストを持つことになり、かつ噂が噂を呼んで、あのジムのことを知っている人ならば誰もが入会を躊躇する変人の吹き溜まりジム、ともいうべき存在へと進化してしまったのです」

 そんな! 

 私は何も知らなかったんだ。そんなジムに先日うかうかと入会し、何だったらちょっとこれからあのジムに通うのが楽しみだなと少しでも思ってしまった自分が本物のアホみたいじゃないか。

 確かに受付のお兄さんからジムに通っている人たちの説明をちらっと受けたときの違和感といえばあった。違和感がなかったといえば嘘になる! でも自分としても、ジムという場所に通うことは人生で初めての体験だし、よってジムというところが具体的にどういうところなのか知らなかったため、お兄さんの話にもふーん、ジムにもいろいろな種類の人が来ているんだな、でも別にだからといって彼らと絶対にコミュニケーションをとらなきゃいけないかというとそういうわけではないだろうから、ジムに通うことになったとしても、彼らは彼ら、自分は自分ということでがんばることにするか、みたいなことを考えてのん気だった。しかし今思えばその考え方はのんき過ぎたってわけだ!

 ジムが閉鎖となると……

 とりあえず俺はこれから先自分の筋肉トレーニングのことを考えた場合どうすりゃいいんだ?

 ニコラスが今後の自分の身の振り方に気をもんでいると、男がまたもや電話口から話を続けてきた。「本当にね、私としてはいつも危機感を抱いていたんですよ。むしろ危機感を抱いていなかったことなどただの一瞬たりともなかったといってもいいでしょうね。それくらうちのジムはもう手が付けられない状態になってしまっていたのです。もうどうしようもない、もはや何の植物もそこでは育たないであろう荒れ果てた地みたいになっていたのです。あなただってあのジムのトレーニングルームに入った瞬間に何か異質なものを感じたでしょう。普通ではない、特別な、決して他人を受け入れることのなさそうな雰囲気が充満していたあの空間ですよ。もともとあのジムだって昔はもっと普通だったんです。若い女の子たちも数名いるような、そしてその彼女たちの青春の汗ともいえるようなすがすがしいものがあたり一面に毎日飛び散っているようなジムだったんです。でもいつの日からかあのジムは変わってしまった。人々の欲望のままに存在し続ける、この現実世界とはまるで違った空間を形成するようになってしまったのです。ですから私は危機感を抱いていたんですよ。このままではきっとこのジムは孤立する。そして孤立したときは最後だ、このジムはつぶれてもう復活することはできないだろう、ってね。その心配が今日現実になってしまったというわけですよ。あんなにみんながみんなやりたいことばかりやっていたらまとまるものもまとまりませんって!」男が急にここで口調を強めて「いろいろな人がやってくるジムなんですから、その中でもわがままな人のいることは理解できますが、しかしだからといってその人を野放しにしていると、大人しかった人たちまでわがままを言い出すようになりますし、そしてその人たちのわがままも放置しておくと、今度は勝手に彼らで新しいルールを作り出してまるでこれまでに見たことのない社会みたいなものが動き出すんですよ。もうそうなったらおしまいですよ。だれもこちらの言うことなんてきいてくれないんです。たとえこっちがジムを経営している立場だったとしてもね」

 ニコラスは男の話を話半分程度に聞いていた。

 彼にはもっともな、ちゃんとした、話を聞いてやれば聞いてやるほど一理どころか十分に納得のいくような悔しい思いがあるらしかったけれども、それは今自分には関係のないことだろうと思った。彼の話を真剣にきいてやりたいのは山々だったが、ニコラスの頭の中には何も常にジムの問題だけが渦巻いているわけではない。午後からの仕事のことだって頭の片隅には、いや片隅どころかもう昼休みも終わろうかという頃になってくると、少なく見積もっても半分以上はそのことで占められている。

 大変なんだあとは思った。

 そして確かにあのジムに入った瞬間、そこにいた人たちやそこにいた人たちのやっていた行為を変わっているなと思ったし、またもしかすると彼らのことは今後一生忘れることはないかもしれない。

 だがただそれだけだ。

 電話でこんなに延々と喋りかけられても、俺に何ができるっていうんだ?

 俺はだからこれからもしまだ筋肉トレーニングをやりたいというのなら、新しいジムを探さなきゃいけないわけだろうし、そうなると君のところのジムとは何の縁もなくなってしまうんじゃないか? あ、そうだ。もうすでに払ってしまった入会金とかはどうなるのだろう?

 ニコラスは男性スタッフの話をききながらも頭では別のことを考え始めてしまう始末だった。

 ところが。

 ところが男の話はまだまだ終わる気配はないようだった。「私にも優しさみたいなものがあったんですよ。でも今から考えてみれば、それは余計なものだったかもしれませんね。あの破壊神コステロさんから、最初にここのジムのトレーニング器具を壊したいんだろうけれども、そんなことしていいかな? と相談されたのは私だったんです。ですからコステロさんも、勝手にジムの器具を壊して回っていたわけではないんです。あの頃のコステロさんは、そりゃもう周りの会員たちも一目を置く、非常に模範的な筋肉トレーニング者でしたよ。ところがある日、私は彼から相談されたんです。本当は、私はここのジムにあるトレーニング器具を壊して回りたい。壊して壊して壊れなくなるまですべて壊してしまいたい、でもそんなことのできるはずがないってことはわかってる、しかしこの欲求はもう簡単に抑えられるものじゃないんだ、だからとりあえず今日はこのダンベルから壊していい? 間違えて床に落としちゃった振りするから、とりあえず今日はこのダンベルだけでも壊していい? お金はあとから君に払うから」

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