4 試される孤独
4 試される孤独
ニコラス・アディソンは元彼女の「ちょっと太ったんじゃない?」という一言をきっかけに筋肉トレーニングに励むことを決意した。そしてその方法はジムに通うというものだった。自宅の部屋にいろいろな筋肉トレーニングのための器具をそろえたり、もしくは器具を何も使わなくても、自分の体重や力を使って筋肉をトレーニングする方法もあるらしかったけれども、彼はジムに入会することにした。なぜ彼はジムへ入会することにしたのか。それはインターネットで筋肉トレーニングのことを検索したときに、最終的にはやはりジムに行かないと本格的な器具は使えないし、専門的な立場の人からのアドバイスももらえないしで、理想の筋肉を作り上げるには、自分一人の力では難しい、というようなことの書かれてあるページを発見したからである。そんなページが本当にインターネットの世界のどこかに存在したというのか。もしかしたらそのページに書いてあることは全部ウソで、本当は筋肉などというものは、ある一定の力を一定の時間かけ続ければ出来上がってくるものなのであって、したがって別に一人でやろうが何人でやろうがその成果は変わらないし、また器具だって、いいものを使っているから必ずしも立派な筋肉が得られるとは限らない、やはり大切になってくるのはその人の根気や決意のところなのであって、これのない人はいくら筋肉トレーニングに時間を割いても無駄であるから、よってまず最初に考えるべきなのは、ジムへ行くべきか器具をそろえるべきかすべて自分でやるべきかということではなくて、自分がどれだけ筋肉を必要としているのかということを明確にして意識し続けることである――これが筋肉トレーニングと現実の真の関係性であるのかもしれない。ニコラスは思った。「確かに俺はジムに入会しただろう。紙とペンを使って自分の入会する意思を周りに表明したはずだ。だから俺はやはりジムに入会した。入会したということは間違いないだろう。そして俺の胸に迫ってきた焦り。それは何なのかというと、ほらさっそくやってきたぞ! 本当にこれでいいのか? 本当に俺はジムというところに入会してしまって良かったのだろうか? このような問いかけというわけさ! いつだってそうだ。考えてみればいつだってそうだね。俺が何か新しいことをやろうとするとき、それから新しい第一歩を踏み出したあとでもだ。すぐに俺の胸に何か迫ってくるものがある。それは決して形のあるものじゃない。形など関係ない。俺の胸を締め付けて、俺の中から何かを吐き出させようとしやがる。本当にこれでいいのかな? お前は本当にこれでいいと思っているのか! だが今回の筋トレに関しては、本当にもうこれでいいんだ! 嫌なんだ、もうこれ以上俺が筋肉トレーニングのことについて考え続けるのは。筋肉トレーニングをしないという決断をすることも可能だっただろう。一体筋肉トレーニングなどというものをして何になると何度自分自身に言われたことか。でもだからって筋肉トレーニングをしないと自分自身に宣言したらどうなる。きっとその瞬間から俺の内面は、今度は逆に『おいお前は本当に筋肉トレーニングをしなくていいのか、筋肉トレーニングをしなくていいと思っているのか、だとしたらお前はもうこれからずっと老いていくだけだ、死んだように生きる生活の繰り返しが待っているだけだぞ』みたいなことを言って俺のことを脅してきやがるんだ。一体どうしろっていうんだ畜生! だから俺はやってやるんだ。今回の筋肉トレーニングに関しては、考え込むのはほどほどのところにしておいて、俺は早速動き出すことにしたんだ。それでもうとにかくジムへの入会だけは決めたってわけだ。自分の意志が大切なんだって? 最終的にはそこの力強さが見事な筋肉を獲得するための切り札になるだって? だとしたら家で筋トレしようがジムで筋トレしようが、みんなで筋トレしようが一人で筋トレしようが一緒だな! 結局人は一人で筋トレをしなければならないときがやってくるってわけでしょう! じゃあジムに入るのは正解でもないし不正解でもない、かといってジムに入らないのも正解でもないし不正解でもない。俺はやり遂げなければならないんだ。自分で決めたことをどう最後までやり通すか。自己プロデュース力というものが今まさに試されているってわけなんだな」
初めて入会したジムにトレーニングにいったとき、そこでは信じられないような光景が広がっていた。ニコラスは目の前の光景のすさまじさに思わず案内をしてくれていた男性のスタッフにたずねた。「あの、すみません、あの人は一体何をしているんです? さっきからジムの器具をものすごい音を立てながら、ものすごく粗末に扱っているように思うんですけれども、え、あれがもしかしてあの器具の正式な使い方なんですか?」
男性スタッフが答える。「もちろん違いますよ」
「違いますよね?」
「あの人はいつもああなんです。ああやってここのジムのトレーニング器具を豪快に床にたたきつけたり壁に投げ飛ばしたりしているんです。それで彼は自らのストレスを発散したり、もしくは器具を壊すときに使う筋肉の動きのトレーニングをしているんです」
何のために?
ニコラスは思った。
しかし男性スタッフは平然と続けて「彼はこのジムではとても有名な方なんですよ。みんなからは破壊神コステロと呼ばれています」
「破壊神コステロ……」ニコラスはあまりの衝撃の事実に言葉を失った。
破壊神コステロ?
嫌だ。
俺はこのようなジムにまでわざわざ安くもないお金を払って破壊神コステロのために脳細胞を少しでも活用したくない!
ニコラスはあえてたずねてみた。「え、じゃああの破壊神コステロ? さんの近くですばやく彼の投げ終わった、つまり破壊し終わった器具に駆け寄って銀色のスパナみたいなものを振り回している人は誰なんですか?」
「彼は修理屋ボッサムです」
「修理屋ボッサム!」
それは突然の展開だった。もちろんニコラスとしては、このジムは普通だと思っていた。駅前にある、体を動かしたい人たちが集まっている普通のジムだと思っていた。だが何なのだこの急な通り名というか二つ名の連発は! まるで夢でも見ているみたいだ。いや本当にここは夢の中の世界なんじゃないだろうか。残念ながらそう思わないと理解できないくらいに突拍子もないことがニコラスの目の前では繰り広げられていた。非常に肩幅があり、短足でムキムキの体をしている髭面のコステロと呼ばれる男は、まさに破壊神のごとく一心不乱にさっきからああしてトレーニング用の器具を壊し続けているし、またそのすぐ近くでは、ひょろっと背の高い男がコステロの壊した器具のもとへ駆け寄って元通りに修繕しまくっている。
謎の世界観。
これはまさしくこちらがまったく望んでもいなかった謎の世界観だといえるだろう。こんな光景世界中のどこを探しても見当たらないだろうし、いやそもそもこんな光景一体どこの誰が欲していようか。
ニコラスは徐々に不安になってきて思わず男性スタッフにたずねた。「僕も最終的には彼らのように何かしなければならなくなってくるんでしょうか? つまり僕も今日からここのジムでお世話になるわけです。ずっとここに通い続けていると、いつか僕も彼らのような特殊だと思われる角度からここのトレーニング器具たちと向かい合わなければならないときが?」
「いえその必要はありませんが」男性スタッフが答える。「しかしそうなりたいとおっしゃるのならば無理にはとめません」
「滅相もありません」ニコラスは言った。「最初にあなたにはわかっていてほしいんですが、僕は決して彼らのようになりたいがためにここのジムを選んだわけではありません。もっと普通に筋肉トレーニングがしたいから」
「わかっていますよ」男性スタッフが遮るように言う。「ここはあなたの思いをかなえる場所なんです」
「え?」
あなたの思いをかなえる場所?
何だか雲行きの怪しい言葉じゃないか。
ニコラスが次に発言される男性スタッフの言葉にはより細心の注意を払おうと心に誓っていると、彼は続けて言った。「このジムという場所は、人間の潜在意識を無限に開放するところなんです。人は誰でも人に言えない悩みや理想の自分、それからこの世界に対する怒りのような勘定を常に抱いています。人が誰しも芸術家ならば問題ないのです。しかし現実問題としてそうはいかない。人はみな普段の生活の中で自らの役割に徹しています。そうしないと世の中というものはうまく回って行きませんからね。ところがこの場所では、人は自らの思うがままに生きても構わないのです。みんな他人に遠慮することなく、自分の好きなことを好きなだけやればいい。あの破壊神コステロさんや修理屋ボッサムさんなんかはいい例ですよ。ここはジムだというのにまともな筋トレなんかただの一度もしたことがないんだから! あちらのタンクトップ姿の中年男性をご覧ください!」
男性スタッフにそうそそのかされて案内された方に目をやってみる。
そこには確かにタンクとプ姿の、小柄で腹の突き出た、ハゲた親父が背中を丸めて何かをしている。
「彼はああしてここへくるなりタンクトップのお腹の部分をめくりあげて、そうしてここが閉まる時間までずっとお腹の毛をむしり続けていますよ。もうそろそろむしる毛がなくなるんじゃないかと思います。でもそれならそれでいいのです。大切なのは、今彼が自分のやりたいことをやれているのかどうかということなのです。ですからニコラスさん、勘違いしないでくださいね。あなたが筋肉トレーニングをして、素敵な筋肉を身に着けたいとおっしゃるのなら、私たちはあなたのその夢を応援し続けますよ。しかしその反面、本当はもっと別のこともしたいんだとおっしゃるのなら、ぜひ今すぐにでもそうしてください。せっかくこのジムに入会してくださったのですからね。もうあなたは我々のジムのれっきとしたいち会員なんですから」