3 逃げるが勝ち
3 逃げるが勝ち
ニコラス・アディソンは久しぶりに再会した元彼女から「少し太ったんじゃない?」という言葉の投げかけられたことをきっかけにダイエットもとい、筋肉トレーニングの開始することを決心した。それはもう完璧に彼の心の中で決定された。ところがそうして彼が心の中で決定を下した事柄には、また新たな問題が立ちふさがろうとしていた。まったく、せっかくいろいろと考えに考え抜いて、本当に筋肉トレーニングなどというものをしてもいいのかどうかということに答えを出したのに、答えを出した瞬間に、それに関することではあるが、それにしてもマジでこれまでとは全然違う新しい問題が浮上してくるとはどういうことなのだ。それは、今回のことに限っていえば、じゃあ筋肉トレーニングって具体的にどうやってするのか、ということだった。ニコラスは素人だった。筋肉トレーニングというものに対して、彼はまったくの無知というわけではないにせよ、いままでにそれをやったことがない、成し遂げたことがない、手を付けたことがない、それに関しては完全なる素人といっても過言ではなかった。実際に彼がいくら筋肉トレーニングをしよう、と思い立ったところで、それは自動的にスタートしなかった。彼の生活スタイルがただその決定によって覆る、変化させられる、といったことはないようだった。やはり筋肉トレーニングも、ほかのいろいろな物事たちと同じように、それをすると決めただけでは何も変わって行かない。実際にそれに従った、適した行動をがんばって選択し続けることによって初めて具現化されていくものらしかった。
要するに彼は、どのような筋肉トレーニングをすればいいのかさっぱりだったのである。それをしようと確かに決意をしたものの、具体的にそれをどうやってこなしていけばいいのか、達成していけばいいのか、筋肉トレーニングといってもいろいろなアプローチ方法があるはずなのであって、自分はそもそもどのようなアプローチ方法があるのかわからないし、またどこへ行けばいいのか、何を買えばいいのか、どれだけ時間のかかることなのか、ざっくりとは想像できても、そのようなざっくりとした、あいまいな想像力で現実に立ち向かうのはあまりに難しかった。インターネットで筋トレと調べたところ、自分の力だけや、もしくは自分でいろいろの筋肉トレーニングの機器を購入して丹念にそれらの使用に時間をかけることでも、筋肉トレーニングの成果はそれなりに得られそうだったが、ニコラスは、これはせっかくの機会だろうと思ったので、これまでに彼の人生とは縁のなかった近所のジムをいくつか回って気に入ったところに入会してみることにした。
とあるジムの受付で若いお兄さんに言われた。「それで……筋肉トレーニングをしたいということですけれども、それでよろしいですか?」
「はい」ニコラスは答えた。男のあまりに漠然とした質問に、もはやはいと小声で返答するしかない。
すると男はふっと微笑みながら「最近あなたのような人が多いんですよ」
「といいますと?」
「つまりただ漠然と筋肉トレーニングがしたいからジムに入会させてくれと頼みにやってくるあなたのような人がね!」
そういうもんじゃないのか、とニコラスは思った。だってここはジムなんだから、体と鍛えたいとか運動をしたいとかいう人がこぞってやってくるところだろう? 筋肉トレーニングをしたいという理由でジムへの入会を希望するなんて至極まっとうなことのように思えるが? だがそう思って再び男の顔を見てみるに、彼の微笑みは彼の顔から消え去っていなかった。おや、ということは、今この状況というのは、男にしてみればとても愉快なことなのであって、いや愉快などというものではないかもしれないが、いずれにせよ男の何らかの感情を揺さぶる出来事であることは間違いない。彼が自分のことをさげすんでいるのか、それともさげすんでいないのかはよくわからないが、それにしても何かこちらに伝えたいメッセージみたいなものが彼の中にあるのは確実だろう。
ニコラスは言った。「え、何がおかしいんです?」
「何がおかしいんですじゃないでしょう!」男は急に変に盛り上がったテンションで「毎日毎日あなたのような人ばかりだ。あなたのような人ばかりを相手にしていて、僕みたいな若輩者は思うわけですよ。ああそうですか、そうなんですか! あなた方はそんなにこのジムで筋肉トレーニングや運動器具を使ったダイエットに励みたいんですか。だったら勝手にすればいい! 僕のような半端者の意見などきかずに、この世の終わりみたいに好き勝手にこのジムでふるまえばいいじゃないか! ってね」
何かあったのかな? とニコラスは思った。きっと何かあったのだろう。彼にとってつらいと思えるような出来事が、ここ数日のうちに連続で起こってしまったのかもしれない。だから彼はほとんどまともなジムの受付とは思えないような謎のテンション、謎の言動によって今この私と接してしまっているのだろう。いつか反省するときがやってくるかもしれないな。無事にこの事態を乗り切り、やがてあのときのあの瞬間は何だったんだろうと彼の中で彼が振り返るとき、またそこに私が近くにいれば、彼は向こうから自然とこの私に謝ってくることになるかもしれない。「ああどうもニコラスさん。そういえば入会のときの私は取り乱していましたね。あのとき変に取り乱してしまって申し訳なかったですね、いえ些細なことなんです。些細なことだったんですが、それももう解決しましたのでご心配なさらずに。さあ今日もいい天気です」などと。こんなことをスラスラとこの私に対して言ってくる日がいつかやってくるかもしれない。そんな本当にやってくるかどうかもわからない遠い未来の日を今思い描いて一体何になるっていうんだ!
「ニコラスさん!」
「はい?」
目の前にいた若い男性スタッフに名前を呼ばれてニコラスははっとした。いつの間にか自分でもわけのわからない妄想の世界に突入していたらしい。
ここはどこだ?
そうだ……ここはオフィスからの最寄りの駅近くにある結構本格的な器具のそろっている、ここいらでは一番に大きなジムだ。今日はこのジムへの入会手続きにやってきているのだ。そしていろいろと施設の説明などをきいて、あとは書類にサインをするだけ。ここまでたどり着くのにたくさんの時間をかけたが、それも今となっては長かったのか短かったのかわからない。しかしここのジムにすると決めたからには、ここで膨大な時間を過ごすことになるのだ。慣れ親しんだ我が家――ではないけれども、ここを自分の第二の自分の家だと思えるくらいにこれからトレーニングに励まないといけない。おっと、変にこのタイミングで肩に力が入りすぎていると、受付としてほかの素人どもを入会させまくってきたこのスタッフのお兄さんに笑われることになるかもしれないぞ。「こいつ入会のときから自分のこれからの未来の筋肉たちに想像を巡らせてときめいていやがるぜ。そうやって未来の出来事に胸をはずませるのはいいことだが、しかし果たしてそううまく行くかな? もともと筋肉の付きやすい体質だったらいいけれども、そうじゃなかった日にはいろいろと悩みが増えるだけになるかもしれないんだぜ?」それにしても彼は今日夕ご飯を何にするんだろう。駅前の松屋とかに行かないのかな? 駅前の松屋とか、俺結構仕事帰りとかにも寄ったりするんだけど。
あとやよい軒とか大戸屋。
「それではここにサインをお願いします」男はそう言うと、紙とペンをニコラスの目の前に突き出してくる。
ニコラスはいけない、また変なことを考え始めていた、と思いながらも務めて冷静に答えた。「ええ、もちろんですとも」
「あとここに口座番号をお願いします」
「口座番号?」
「ええ、毎月のお金は口座からの引き落としでよろしいんですよね?」
銀行口座か。
ああ、別に銀行口座でもいいけれども、できればクレジットカードの方がいいかな。一応毎月払わないといけないようなものは、私はクレジットカードの引き落としでまとめることにしているんでね。
ニコラスは言った。「クレジットカードでもいけますか?」
「もちろん大丈夫ですよ」