表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/20

2 真夜中の筋トレ

2 真夜中の筋トレ


 ニコラス・アディソンは元彼女に久しぶりに再会し、そのときに彼女から「あれ、ちょっと太ったんじゃない?」と軽く言われたことをきっかけに筋肉トレーニング、もとい元のスタイルへ戻るためにダイエットに励むことを決心した。だが彼はそう心に固く誓ったものの、なかなか第一歩というものを踏み出せないでいた。心に固く誓ったという割にその第一歩目をなかなか踏み出せていないとはどういう状況なのか。といってニコラスには自らが筋肉トレーニング、もといダイエットをしなければならなくなってしまった事実をすんなりと受け入れるのは難しいことだった。なぜならそこまで変わっていないからである。ぶっちゃけていうと、彼は元彼女に確かに「ちょっと太ったんじゃない」と言われた。だがだからといって、前と全然違う、まるっきり別人のように変わってしまったのかというとそういうわけではない。そりゃそうだろう。だって元彼女の方だって「ちょっと」と言っているんだから。だからもちろん今のニコラスは前とは違う。前とは違って少しぽっちゃりとしてしまっているかもしれないが、しかしそれですぐさまデブだとか、前の原型をとどめていないくらいに脂肪の力によって変わり果ててしまったとかそういうことではなかった。本当にそれは少しだった。ニコラスが肉体に身にまとった余分な肉は彼の全身から考えるとほんの少しの割合しかなかった。むしろこの変化に気づけるのは、付き合っていたころはよくニコラスの肉体を見ていたであろう彼女しかいないといっても過言ではないようだった。いやきっとこのニコラスの変化に気が付けるものは、今回の彼女を置いてほかにはいないだろう。それほど些細なことだった。それほど小さな変化が確かに彼の肉体におこり、そして見抜かれてしまったのであった。「あれ太ったんじゃない? しばらくみないあいだにちょっとぽっちゃりしちゃったでしょ」


そこでニコラスはこう思うわけである。「確かに俺は太ってしまったかもしれない。前に付き合っていた彼女にそう言われたんだ。彼女はもしかすると俺よりも俺のかつての肉体事情に詳しいかもしれない。そんな彼女が久しぶりに再会して開口一番に『ちょっと太ったんじゃない』と言ったんだから、だから俺は多分太ったんだろう。きっと俺は彼女と付き合っていたころの自分と比べて太ってしまったんだろう。だがそれってほんの少しじゃないのか。ほんのちょっとのことなんじゃないのか。決して大げさな変化ではないはずだ。多分彼女にしかわからないくらいの、些細で、繊細で、むしろ見間違えか幻といったような類のものでさえあるのではないだろうか。だから確かにあの場では、彼女と再会して会話を弾ませたあの場面では、畜生ダイエットしてやる、というかむしろこれを機会に筋トレをして筋肉を増やし、かっこいい男になってやるぜ、みたいなことを思ったが、果たしてそんな必要ってあるのだろうか。そう思うことはすばらしいことだ。つまり何かをきっかけに自分を変えていかねばならないのは、人間いくつになってもその宿命から逃れることはできない。ただそのときたまたまそのような変化の風みたいなものが俺に吹いて、そして俺はその風の行方に身を任せることにしただけだ。だが冷静になって考えてみると、本当に俺は今この忙しいときに筋トレなどという未知のものに時間と取られ、体力をとられ、おまけに昔付き合っていた彼女にかっこつけるためにたくさんの努力をしなければならないのだろうか。まさか。それってそんなまさか。だって本当に冷静になって考えてみればわかる。まだこれが、俺が究極のデブになってしまって、もはや以前の自分とは別人、着る服もすべて変わってしまったし、そのせいで内向的な性格になって人付き合いも希薄になってしまった、というのならば話は別だろう。逆にもしそんなことになってしまったら大問題だ。すぐにでも俺はダイエットに励み成功し、そして彼女を見返してやらねばならないことだろう。だが事実は違う。事実はそれとは違うわけだ。そう、今回の俺に用意された事実といえば、もはやほとんど元彼女という立ち位置の人間からしかわからないくらいに微妙に太った、繊細に太った、ということなのであって、それってやっぱり改善しなければならないものなのだろうか? ダイエットとか筋トレとかをして、よりパワーアップした人間になるチャンスなのだろうか。老化というものがある。人間これを避けて通ることはできない。俺は思うのだが、人間年を重ねれば、多少なりとも肉が付く。そりゃよっぽど痩せ体質の人とか病気をしてしまった人とかは違うかもしれないけれども、しかし普通の健康的な人間ならば、抗うことのできない体の衰えというものはあるはずだ。はっきり言って俺もそんなに若くはない。昔のように何でもバリバリとこなす気概はまだあるかもしれないが、たまに仕事でも何でも体のついてこないことがあるし、脂っこいもの塩っ辛いものを連続で食べ続けることだって昔と比べるとできなくなってきている。まあその分自分の本当に好きなものしか食べなくなったから、食品の偏りという問題はより鮮明になってきているきらいがあるかもしれないが……とにかく俺は思うのだ。本当にこれはダイエットをしなければならない流れなのか? 筋トレという新たなものに手を出すチャンスなのか? と。もしかしたら全然違うかもしれないんだぞ。ダイエットをしても全然思ったように体重は減らず、むしろ健康を害していくばかりという事態になってしまうかもしれないし、また筋トレだって、そりゃずっとそれを続けることができればいいけれども、先ほども述べたように俺は体力の衰えみたいなものを自覚している、したがって筋トレをしたはいいけれども、ああ俺ってもう本当に若くないんだな、こんなにも運動ができなくなってしまっているなんて、もう嫌だ、もうダンベルなんて見たくない、というような心境にだって陥ってしまうかもしれない。今回のこの彼女からの言葉は深く自分の心の中で受け止めるべきなのでは? その場ではうまく反発させられてしまったが、家になってふと一人で冷静になって考えてみると今更筋トレというジャンルに挑戦するなんて面倒くさい。あ、もしかしたら答えが出たかもしれない。そうだ、こうやって新しいことにどんどんとチャレンジしていかなくなることこそ本当の老化だ! 体力の衰えや自由な時間の確保の難しさや金銭的な問題など関係ない! 明日から何かしらの方法で筋肉トレーニングを始めることにして、今日はもう遅くなったから最後にこの酎ハイを飲み干したら寝よう」


 ダイエットもとい、筋肉トレーニングの決意を新たに固めた翌日、ニコラスはオフィスで営業のアシスタントをしてくれているある女性社員に仕事以外の用件で声をかけた。彼女の名前はエマ・ベイントン。もう彼の中では昔の彼女の意見がどうであれ、またそれ以外の人の意見がどうであれ、ただ自分への挑戦のためだけにでも筋肉トレーニングのすることは決定していたのであるが、しかしちょっときいてみようじゃないか。この恋人でもなければ友達でもない、ただ仕事で協力してくれるだけの、しかしいろいろな話をして社会人同士としてとても打ち解けあっているような彼女との関係に今回の問題を持ち込んでみようじゃないか。そうしたらもしかしたら、彼女のとても第三者的な視点がすばらしい筋肉トレーニングへの礎となることだってあるかもしれない。たとえば彼女が家から近いいいジムを知っているとか、駅から近いいいジムを知っているとか。

「どうしたのニコラス」ニコラスが話しかけるとすぐさまエマが言い返してくる。「それよりあなた私に提出すべき書類があるんじゃない? 先週あれほど口をすっぱくして言ったその書類、ちゃんと今日持ってきてくれたんでしょうね。どうして私に普通に話しかけたりなんかするの。どうしてこの私に普通に話しかけたりなんかできるんでしょうね! 朝のあいさつをされただけでも腹立たしい! 先週あれだけ口酸っぱく言ったんだから、あなたは今日私に何か声をかけてくる前に、まず書類のとじられたファイルをこの私に差し出すべきなのよ。それ以外にあなたがもはや私にしゃべりかけていい状況などない。そうしていないにも関わらずあなたが私に話しかけていい理由なんてないのよ。さあどうしたのニコラス。もちろん持ってきたんでしょうね。血眼になってしっかりと私のお望みどおりの書類を仕上げてきたんでしょうね。わかるわ、だからなのよね。もちろん書類を仕上げてきたからこそ、その絶対にうまく行くという自信からあなたは私に今朝『おはよう』なんて声をかけてきたんでしょ? それで今も私のデスクのところにやってきて私に何か話しかけたってわけなのよね? あなたのその幸せな気持ちをどうか私にも共有させてくださいな。さあ早く共有させてくださいな! まずは書類。まずは書類よ。もうそれさえあれば、あなたのことをこの場で抱きしめてあげたっていいんだから。もし書類がなかったらあなたの行先は地獄よ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ